第20話
冬がやってきた。凍った大河を渡り、レオは兵を率いて国王への『陳情』に向かう。失った公爵の称号と領地の返還、騎士団の手柄を正しく評価されることを求めるため。軍勢は長く尾を引くように伸び、レオが王都アヴァトグルニオンの白薔薇宮殿へ入城しても、その最後尾はまだ教都シュテド・リにあったという。
国王は城の門前で、老齢によろけながらもレオを迎え入れた。彼らは高貴な人々らしく礼儀を守った仕草で互いの腕に触れ合い、再会を喜び合った。
「許してくれ、せがれのようだった若者よ、すべては誤解だったのじゃ……」
と弱弱しく涙ぐむ国王の姿は、まったく歴史の教科書で習った雄々しい武人とは似ても似つかない。髪も髭もすでに白く、杖があった方がいいくらいに足元はふらつき、豪奢な衣装の重たさに負けている。
アガットもまたレオの横で妻として立ち、公爵夫人としての装いで国王に挨拶した。返礼はもらえたものの、声をかけられることはなかった。国王側の臣下の幾人かがその無様さに、おそらくはレオに向かって失笑を飛ばすのに静かにこめかみがひくつき、青い炎の熾火がぽっと燃え立つ。
難しい話し合いは昼間に男だけで行われ、アガットが役に立てるのは情報収集と夜会での立ち回りくらいのものである。が、残念ながら元から情報網が出来上がっている宮殿内部に間諜どもを潜り込ませるのは難しく、もっぱらロカたち前々からのシャヴァネル派頼りになりそうだった。夜会でも知り合いなどいないから笑っていることしかできない上、こちらの立場を利用しようとする弱小貴族がコバエのように鬱陶しい。唯一、学院時代に懇意だった同級生の地味な伯爵夫人と再会できたのは嬉しかったが、相手はかしこまってしまって旧交を温めようがなかった。
そんなわけでアガットは、自室として与えられた三部屋続きの可愛らしい居場所でうなだれている。
一番奥が寝室で、二つ目が生活の間、一番手前が客間に当たる一の間だ。壁にはエルフ織物がかかり、神話や民話の一幕を表現する。壁には見せるための棚があって、食事には使わない見事な絵付けの食器やクリスタルのゴブレットが飾られている。天井にはシャンデリア。窓ガラスは厚く、ひとつの気泡も入っていない。
それでもちょっとした小遣い稼ぎをもくろむメイドだの出入りの宝石商人に扮した間諜だのを使って噂を探らせ、また宮殿から支給された侍女たちとなるべく交流することを忘れなかった。間諜たちには惜しまず報酬を与えて忠誠を誓わせ、侍女たちには絶えず贈り物をした。もちろんレオの金だが、金で口を開く人間ほど楽なものはない。
人間とはそういうものだが集団となれば気が大きくなる者もいる。侍女の一人に若い子爵家の三女がおり、おそらく同じ出自のアガットが公爵夫人の栄光を掴み自分には何もないのに思うところがあったのだろう、
「でぇもお、奥方様、旦那様は今頃どこで何してらっしゃるんですぅ? ちゃんと手綱を取っておかないと、どこかの美しいチョウチョの寝台で休んでらっしゃるかもしれませんわよぉ」
と舌っ足らずに軽口を叩いた。ちょうどそのときアガットは何食わぬ顔でエレオノーラ姫についての噂話を年嵩の侍女から聞いていたところだった。その侍女は昔ひととき姫付きの侍女だったことを生涯の誇りとしている厄介なところがあって、姫の美しさについて、本物の高貴なる血を継ぐ貴族令嬢たる者の振る舞いについてとうとうと持論を重ねた。銀色の巻き毛はくるくるとカールして、ダキネラル人の緑の目は新緑の色にきらきら輝く。顔のつくりは完璧で、その輪郭や腰のほっそりしていることといったら……。
アガットは年嵩の侍女の話が止まったのを幸い、若い侍女ににっこりして、
「軽口叩いているヒマがあったら、廊下でも掃いていらっしゃい」
と叩き出し、翌朝彼女は寝台の中で死体で見つかった。
何をどうやったか自分でも覚えていなかったのだが、胸を押さえて目を開いて死んでいたということだからあれか、これか……と毒を思い浮かべて、
(口から入れたのか皮膚から吸収させたのか、はたまた切り傷でもつけたのか……)
さえ覚えがないことに思い至る。
これではいけなかった。自分の力を制御できないようになってしまえば、それはそのまま自分に返ってくる。死んでほしい人は死なず、愛する人は死に、最後には自分も苦しんで死ぬのだ。
朝食のあと。暇である。真っ白なテーブルクロスのかけられた小さな円卓でアガットは侍女の死体を片付ける階下の騒動を小耳に挟みながらお茶を飲んで、
(リオンに触りたいわ)
と、結局どこかの乳母やに預けられてしまったレオの異父弟を想うのだった。彼はレオにそっくりの、天使のような赤ちゃんだった。直接会えたのはアガットがその母を殺した一件でしかなかったものの、その愛らしさにアガットは虜になっていた。
異母きょうだいたちには感じなかった愛情を抱くことができたのは、彼がレオの異父弟だったからだろうか、それともアガットの憎しみの対象の誰の血も引いていなかったから?
おそらく――リオンがまだ、敵でも敵の駒でもなかったからだ。
(敵じゃないものに触りたい)
と思うのは、結局は侍女の言う通り、レオが今でもエレオノーラ姫の私室に通っていて、というか密会を重ねているという事実を知っているからだった。彼らがいわゆるいいなづけだったのは全国民の知るところ、その上どうやら個人の感情としても恋人関係だったのが真実らしい。
アガットはもの悲しくため息をついた。上級貴族であればしないことである。
年嵩の侍女、あのエレオノーラ姫を褒めたたえた侍女がぴくりと卓を拭く手を止め、
「……奥方様。先日は申し訳ございませんでした。私にも、お怒りですか?」
「え?」
アガットは顔を上げた。真っ白な顔をした侍女は小さな笑い皺の寄った張りつめた顔で、
「もしお許しいただけるなら、お暇を頂戴し、二度とお目にかからないことをお誓い申し上げます。どうか家族だけは」
と囁くような声で言う。
アガットは理解した。白薔薇宮殿とは恐ろしいところだと思った。
彼女は侍女なのに、侍女でしかないのに、アガットが自ら年若い侍女に死というおしおきを下したことを把握したのである。さすが、身じろぎひとつ、笑い声ひとつで首が飛ぶ宮殿に年を経るまで仕えた人間だった。手紙の内容を読まずとも、添えられた花やインクの種類で何が言いたいか事前にわかる人間たち。
「ああ!――違う違う。うふふっ。あれはね、私の腹の虫の居所が悪かったせい。あの子は運が悪かったの」
アガットはころころ笑いだした。人より小柄な、幼少期から続いた毒の味見と耐性実験のせいで消化器官が未熟なままのアガットがそうすると、本当に少女が笑い転げているように見え、人の目にはいっそ愛らしく一捻りの存在に見えただろう。
けれど侍女の目はそうではなかった。彼女はエレオノーラ姫に仕える前はその母に仕え、つまらない些細な失敗で降格され続けてきた、ある意味で運のいい侍女だった。暗殺者をその目で見たことがあり、その現場の後始末を任されたことがあり、不用意にそれを触れ回りそうだとみなされた同僚が翌朝冷たくなっていたのを見てきた人だった。
――アガットがそちら側の人間であることを、彼女はわかっていた。
ようやく笑いを収めたアガットは、まだ肩を震わせながら、
「あなた、名前は?」
「ナディネ・ツァベルと申します」
「じゃあナディネ。お茶のお代わりをちょうだい」
侍女はそのようにした。
アガットは一つの事実、生まれて初めて閃いた驚くような事実に遭遇し、今や自分がそれができる立場にあることに感謝した。――敵じゃないものが欲しいのなら、自分で作ってもいいのだ。
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