第19話


さて、期待しているよと言われて張り切るようではあまりに情けないが、その実アガットは張り切った。実力を認めてくれ使ってくれる君主なんて、レオが初めてだ。彼女が舞い上がるのも無理はなかった。


ロカがため息交じりに、


「自分はてっきり、貴女様のようなお方はすぐにでも跡を濁さずお立ち去りなさるのだとばかり思っていましたよ」


そう忠告するほどの浮かれっぷりだった。


――レオは日常を越えた場所にいる存在なのだ、とアガットは思う。


その名の通り高貴なる人々の、青い血の、てっぺんに位置する人だから。その人に『選ばれた』と思ってしまったら、女なんてものはもうダメである。実際のところは魔法使いリュドヴィックが適当に選出した候補の中の一人にすぎないのだし、レオが受け入れてくれたのも貴族として騎士として男としての義務感に過ぎない。今だってアガットの毒殺の才能が利用されているだけ。高貴なる貴公子のほんの一時の気まぐれで寄り添われているだけ。


それでもいいや、と思ってしまうのは、


(悔しいけれど、レオ様の許にいるのはとても心地いい……)


からなのだし、


(思う存分楽しんだって罰は当たらないわ。そうでしょう?)


と思うからなのだった。


実際、豪華な大司教邸での生活は楽しかった。アガットがメイドの一人を誑し込み、使い潰した一件以来、下級召使いたちは彼女に逆らわないことを知恵と思ったようで、それまでの侮りは消えた。素早く音を立てずアガットの言いつけをこなしては、腹を立てる暇などないくらいにいつの間にか姿を消す。


神経が苛つくことも頭痛がすることも、もちろん殴られたりものを処分されたり、ドレスや靴に待ち針が刺さったままという『事故』も、もう、なかった。色とりどりの侍女たちがいた頃にはたまにあったのだが。


そうなるとアガットの青い炎も燃え上がらない。単純な毎日。安全で清潔で心休まる日常。


その中でアガットは動くことにした。持てる知識と手段を全部使って。頭の中で薬屋の父がため息をついて首を横に振る。


「そうなっちゃいけないって、そしたら生き残れないって、父さんは教えたはずだが――」


そして彼はダキネラル人の緑の目を和ませて、


「ま、死人が言ってもな。やりたいようにやるがいいさ。お前の人生なんだからな」


と笑うのだった。


――任せておいて、父さん。私は失敗なんかしないわ。今はただレオ様の傍にいたいの。ここがとてもいいところだから。後のことは……後に決める。


それで彼女はそのようにした。


真冬までの短い期間。失敗は許されなかった。


ロカの諜報網を駆使しなるべく多くの情報を集めた。着々と毒物を集め、自室と自分の身体に保管した。メイドと侍従を捕まえ懐柔し、あるいは脅迫し噂を流し、それがどのくらいの速さで自分の元に戻ってくるかを計った。


自ら夜の街に繰り出して、薬屋に入り浸り噂を聞いた。ときには変装して酒場に入るなどという立場にそぐわない行動さえ取って、少しずつ少しずつ手駒を増やしていった――国王に娘を殺された元メイド、流れの占い師だが元は将軍の小姓をしており耳を切られて退職した男、故郷の貧民窟を潰された元王都民、氏族長の私生児、領地を取り上げられた貧乏貴族の娘、母が貴族に弄ばれ見持ちを崩した娼婦……。


皆、国王とその一派に恨みがあった。彼らに足りないのは資金と、他人と協力するための人脈、そして取り纏め役だけだった。


ある日の昼下がり、大司教邸のみごとな薔薇園で大聖堂の掃除婦との密会を終えたアガットがやれやれと肩を擦りながら出てくると、そこにはミゲルが大柄な身体を誇示するように仁王立ちしており、


「シャヴァネル公爵家に属さない派閥を作り、何をなさるおつもりです、奥方様?」


と静かな低い声で問う。恫喝じみて聞こえるのは気のせいではない。


アガットは肩をすくめ、


「何もかも旦那様のためですわ、侍従さん。自由に動けるのは今くらいですもの。頑張っておこうと思いましたの」


ミゲルは酷薄に鼻で笑った。レオがアガットの衝動性にある種の敬愛じみた憧憬を持っていることを危険視しているのは、この男ばかりではない。シャヴァネルの御曹司を慕って大司教邸に集った騎士たちもまた、この小柄な名ばかりの公爵夫人を警戒していた。アガットは高貴な身分に立つにはあまりに……。


「あなたが頑張るべきはもっと他にあるように思われますが」


「まあ。レオ様のお言いつけ通り動いておりますのに」


「閣下がどのようにお命じになったかは存じませんが、貴婦人の仕事は別にあります。他家との交流を持ち、家を盛り立て、慈善活動に精を出し、何より子を産まねばなりませんでしょう。我らの阿児はまだですか?」


「王都に行ってから考えますわ」


とアガットは言い返したものの、まだ若いだろうに老人のような言いぐさで責めてくるミゲルのことはいっぺんに嫌いになった。レオの腹心だからこそ、裸を見られても許してやったというのに。


実際、王都に出向いたレオがどのように遇されるかアガットには見当もつかない。シャヴァネルが集める兵力はそれなりの数に達しているようだった。今は各地の領地に戻り、あるいは王都に詰めている騎士団からも、レオの実績や人柄を思えば味方になる者も多いだろう。


何せ実際に長年戦場で活躍したのはレオの方。勇者ジュリアンは彗星のように現れあっという間に魔王を倒したが、それならなぜもっと早くに世に出てきてくださらなかったと詰る声もまた、この世にはあるのだから。


さっさと退散しようとするアガットの背中にミゲルは声を投げかけた、ため息交じりの。


「レオ様なら今でもエレオノーラ姫とひそかに手紙のやり取りをされ、以前と変わらずご懇意です。うかうか立場にあぐらをかいておられると、ひっくり返されますよ」


アガットはミゲルを振り返った。逞しい男は肩をすくめて、彼女の横をすり抜け立ち去った。

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