第18話
婚家の中で唯一の味方であるはずの夫に叱られるということは、新妻にとって地面が割れるほどつらいことである。この二人の場合、少しばかり事情は普通と異なるが、まあロンドリオネア大司教邸はレオの縄張りであるわけだし、似たようなものだろう。
「私はそなたを愛しているよ、アガット。そなたは大切な我が妻だ。大事にすると誓った。けれど――誰が母上の件の後始末をしたのかもう忘れたか、アガット?」
「……はい」
アガットはひれ伏したかったが、下手に身体を動かすことはできなかった。レオから感じる威圧感はそれほどとんでもなかった。
女たちが殺された一件は敵の襲撃ということですまされた。唯一、『前公爵夫人お気に入りの幼い侍従』を『バルコニーであやしていた』アガットだけが生き残り、その他は手際のよい暗殺者によって毒を盛られ殺された、ということになっている。
誰がそうしてくれたのか? 毒殺者が思う存分才覚を発揮できるよう、舞台を整えてくれるのは誰か?――アガットが本能のままに暴れた結果を隠蔽してくれたのは?
「すべてレオ様のお力です」
「よろしい。そこはわかっているのだな。ならば先ほどのきみの口の利き方、私の妻としても暗殺者の一人としても不適格だとわかるだろう」
「おっしゃる通りです」
「推測を話してくれるのはありがたい。私はきみたちの報告をもとに判断するのだから。けれど個人の感情を仕事に差し挟むのはいただけない。――私はきみを愛している。命を救われ、感謝もしている。でも、妻だからといってなんでも許すわけではないよ。覚えておいて」
「ええ、レオ様」
「おいで」
アガットは素直にレオの膝の上に乗った。これは彼が好む遊びのひとつで、学院時代は指をくわえて見ているだけだった恋人同士の戯れを真似たものである。
「私たちはもう自由だ。そうだろう?」
「ええ。もういじめてくる人はいませんわ」
「きみは私が自由に気づくのに貢献してくれた。己に翼が生えていることにね。そしてその結果、私が恐れていたことは何一つ起こらなかった。それは喜ばしいことだ」
公爵夫人の美貌に忠誠を誓った貴族が離反することも、暗殺者が入り込んだのはレオの権威不足であると指摘する声も上がらなかった。レオはこれまで、いつだって追い立てられるような気持ちで生きてきたが、今となってはどうしてあんなに焦り怯えて暮らしていたか不思議なほどだった。
もはや彼のやることなすことにため息をつく父も、何かと言えば厳格な公爵家のしきたりにいじめられていると嘆く母も、この世にはいない。二人の外面の良さを褒める周囲に合わせる必要もない。
もういない。彼らはもう死んだのだ。――もう何もされない。
悲しいは、悲しい。人の情として、神の教えを鑑みれば、その感情は確かに彼の中にある。けれどそのすべてより安堵が勝った。
レオはにっこりと笑い、アガットの頬を指の節で撫でた。
「かわいそうなメイドを手駒にしていないで、私のために働いてくれ」
「あら、ばれてましたの」
アガットは無意識に桃色の舌で下唇を舐める。いけない。ここで言われるとは。
あのねえ、とため息交じりの夫の声が耳朶を打つ。
「ロカはじめ間諜どもは私に忠誠を誓っているのだよ。告げ口は彼らの本能だ」
「そういえばそうでしたわねェ」
アガットは降参、と両手を挙げた。怒られたことはどこ吹く風、気持ちは数秒で切り替わり今は楽しくて仕方がなかった。今度はもっとうまくやろう。
「でもあのウイ・トチャの粉末がなければ、御身はマリティアを飲んでいましたわ」
「だがそれを買いに行かされたメイドはその日のうちにドブ川に浮いていたよ。かわいそうだとは思わないのか」
ん? と頬をくすぐられ、アガットはきょとんとした。
「もし私とお立場が逆でしたら、レオ様は後悔なさいまして?」
次にきょとんとするのは夫の方だった。彼の精悍な美貌が笑み崩れ、低い笑い声がアガットの胃まで揺らす。彼女はころころとレオの首に抱き着いた。
彼らは決して褒められた夫婦ではなかったけれど、互いにたいして奇妙な尊敬があった。よく生き残ってきたね、という。
「私は大義のため以外にメイドも従僕も捨て駒にしたことはないよ!」
「まあ。それを仰るなら私だって大儀のため、毒を得ることに全霊を注ぐのです」
「へえ? どんな? 私のそれより有意義かい?――あのぼけた国王を弑逆し、勇者を追放して若い私が実権を握るという夢よりも?」
レオの低い声がアガットの耳の中に直接注ぎこまれると、彼女は背骨がゾクゾクして腰をくねらせる。
「ん。……生き残るためですもの」
「そうか」
「毒がなければ私、すぐにやられちゃうもの」
「それは、そうだね」
おかしそうな笑い声に気が狂いそうだった。アガットはレオに合わせてくすくす笑った。幸福感が胸を満たしていく。おかしいことだ。自分を膝に乗せるこの男は、ただ口の堅い娼館で同じことをすれば高くつくからという理由でそうしているだけかもしれないのに。貴公子の魅力にいかれてしまってどんな罪でも率先して犯し、結果斬り捨てられた哀れで愚かな妻という立場に成り下がる可能性は高いのに。
――それでも。アガットは幸福だった、ああ、もう認めてしまった方が早いのかもしれない。
大昔、母親に殴られ罵られ、薬屋の経営はカツカツで、それでも学院に通わせてくれた育ての父の期待に応えたくて植物学を学んだ女の子は、家に帰りたくないので図書館と夜遊びに時間を費やしていた不良娘は、金髪の貴公子の愛情が嬉しくてたまらないのだった。
「冬になれば、」
と彼は囁く。
「王に直訴に参る。きみも一緒に来てくれるか?」
「ええ、喜んで」
今はほとんど初冬である。凍った川を、王都アヴァトグルニオンと教都シュテド・リの間に横たわる凍てつく大河を渡り、レオに従う軍勢とともに王都に入る――それを想像するとアガットはぞくぞくする。見知らぬ未来に、こんなことがあるとは思わなかった夢に驚愕する。
「それじゃ、それまで仲よくしよう、アガット。我が妻。私の小さな奥さん」
レオはとろけるような微笑をその美貌に浮かべた。小娘なら、二十六の女だって間違いなくめろめろになってしまう笑顔だった。
「私のために力を奮っておくれ。期待しているよ」
それでアガットは、頷くより他はなかったのだった。
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