第15話
――アガットは離婚したかったはずである。しかしながら今、この状況はどうしたことだろうと彼女は首を傾げる。
(お手当もらって田舎に引っ込むはずだったのに)
田舎の屋敷の奥深くこもって、毎日使用人だけを相手に、時には一日口をきかず過ごす日々。それさえ手に入れば、きっともうアガットに向かってくる敵はいなくなる。だから人を殺さずとも生きられるようになるはずだ……。
「困ったこと。思っていたのとずいぶん違う人生だわ」
呟く彼女の足元に、どしゃりと死者の男が崩れ落ち痙攣する。
男は大司教の手の者で、今日ルシオーネから帰ったばかりだと言っていた。レオの元に手土産の酒(聖職者の一党がそれでいいのだろうか)を持ち込み、ぜひとも知見を伺いたいとやってきたのだが、夕食の席についた男が袖の中に何かを仕込んでいるのをアガットは見つけ、
(あっ)
と思ったときには、彼より素早くスカートの裾に隠したロインヌの粉末をそのワインの中に入れていた。
男はすぐに苦しみ始め、レオとアガットが見守る中どしゃりと絨毯の上に倒れた、という経緯であった。
「……私の身が危険だったのか?」
「ええ。先に駆除いたしました。いけませんでした?」
「いや。よくやった」
アガットはまだ痙攣を続ける男の袖口を探り、そこに水銀の粒があるのを見てなるほどという顔をする。
夕暮れ時が終わり、するするとやってきた宵闇が窓の外をどんどん暗くしていった。あらかじめ焚かれた松明によって室内は明るい。分厚い絨毯にタペストリーは神話の一説を表し、真っ白なテーブルクロスが敷かれた食卓は古く重く厳めしい。その上の燭台は純金製。お皿とカップはもっとも価値のある白陶器。カトラリー類は銀。
ようやく異変に気付いたらしい騎士たちが扉を開け乱入してくる。
「閣下、いかがしました!?」
「大事無い。――アガット、それはなんだった」
「水銀毒です。致死量ではないようですが、十分お命に関わります」
アガットは明かりに粒を矯めつ眇めつし、
「オーレアット・コット産ですね。こんな真珠のような揃った粒はあそこの魔導工場でしか作れませんわ。入手経路は限られております。裏の薬問屋のうち特殊な筋からしか仕入れられません」
レオは頷いた。
「ロカを呼べ。アガットと話させよ」
別室で待機し、そうして引き合わされたのは間諜を束ねる密偵頭だった。そうした生業の者たちにありがちな、誰の印象にも残らない人畜無害な顔と中肉中背の身体をして、まるきり大司教邸の召使いの一人にしか見えない。彼は非常に腰が低く、騎士たちならしないだろう角度まで膝を曲げてアガットに挨拶した。
「お初にお目もじつかまつります、奥方様。裏方役の自分がご尊顔を拝謁できるとはまこと、天の神の巡り合わせと感涙でございます」
「やめてくださいな。元はあなたと同じ身分の者です」
アガットは首を横に振り、ロカを観察した。彼は両足に均等に体重をかけ、身のこなしはいつでも逃げられる兎のような俊敏さと用心深さが染みていた。
水銀粒をアガットはロカに提示し、その入手元と問屋筋の確認を行った。大筋、思っていたのと変わりはなかった。裏社会の薬や毒の入手ルートはそうそう変わるものではない。彼らは商人であり、浮き沈みの激しい貴族や氏族長に臣従するわけではないからだ。
ロカは話しやすく、アガットに服従する様子を見せたが、アガットはその忠誠じみたおべっかや卑屈なまでの慇懃さを受け取らなかった。ただ淡々と、自分の知っていることを並べ、ロカの知識を乞うた。そして彼の手段と人脈を使わせてくれと頼み、快諾されると、
「ありがとう。あとは私がやります。ご苦労でした」
と貴族らしくなく微笑んだ。おや、とロカはまばたきした。
「よろしいので?」
「ええ。あなたが動いてはシャヴァネル公爵家が動いたと知れてしまうでしょう? 私が動くのなら、夫の心変わりに動揺した新妻が泣きながら怪しい界隈を訪ね歩いていると思われて終わりですからね」
とは半分本当、もう半分はロカの対面を気にしたのである。密偵たちには特殊な絆があり、互いを家族と呼び合って一生を共にする集団さえあるほどだ。確かに頭であるこの男はレオに臣従を誓っているが、それはつまりシャヴァネルが彼ら一群の雇い主であるというだけの話。妻の立場にすぎないアガットが賢しらに彼らを利用しようとすれば、取り組み中の仕事には支障が出るだろうし彼らの誇りを傷つける。
ロカは小さな、善良な目を眩しそうにぱちぱちさせると、
「奥方様は身を挺して旦那様にお仕えしておられるのですねえ」
と感心したように言う。アガットは苦笑する。
「ええ、いつの間にかね」
本当に、いつの間にか。早めに離婚して年金で悠々自適に暮らす予定だった。レオの魅力に嵌らないようにしようと思っていたのだ。笑うときに左目の下瞼だけきゅっと上がるところだとか、恥ずかしいときは右手で左手を撫でるところだとか、書類に集中するとつい猫背になってだいたい三枚目あたりで気づいてしゃきんと背筋を伸ばすところだとか。そんなところを可愛いと思うはずではなかった。
――レオもまた母親に捨てられた子供だったと知ったからだろうか? それとも彼があまりに賢くアガットを追い詰めたから、何かを勘違いしてしまったのか?
わからない。わからないけれどもアガットは、レオの道行きに付き合ってもいいかと思い始めていた。持てる力、毒の知識やその活用方法や暗殺方などといったもろもろを、実践できるのが楽しかったというのもある。
ロカが下がるとアガットはレオと騎士たちがいる部屋へ戻った。今後の報告をしておこうと思ったのである。だが彼女を迎えたのは複数の鍛えられた男たちの冷たい目線で、おお、怖い。そういえば暗殺者だの間諜だの、それも毒を操る女とくれば、それは確かに騎士という身分の男には嫌われる。男の腕力を用いた真正面からの華々しい決闘を否定する存在だからだ。
「毒の入手元に見当がつきました。背後関係を探れるだけ探ってまいります」
アガットは騎士たちを無視してレオに頭を下げる。夫である人は椅子に浅く腰掛け、警備の図面だろうか、何やら高級そうな紙を片手に少しばかり眉を寄せた。
「それは安全か? 騎士を連れていくがよい」
「いいえ。目立ってしまいますもの」
「だが公爵夫人が供の一人もつけないというわけにはいくまい。――ジョシュア、ついていけ」
と騎士の中の一人に手を振る。進み出てきたのはまだ若い短い砂色の髪の、少年という印象が強い青年だった。ダキネラル人には珍しい青い色の目が湖面のようだ。がっしりとした身体つきに似合わない緊張した面持ちで、素直さと繊細さが同居した顔をしている。
アガットは騎士に一礼した。角度かスカートの広がり具合か、とにかく何かが気に入らなかったらしいレオの周りの騎士たちの中からざわりと不満の声が漏れる。
「それじゃ、まいりましょうか」
とアガットは笑う。時刻はすでに宵の口を過ぎて夜。貴婦人が出歩いていい時間帯ではないが、
「こうした仕事は夜の方が動きやすいですからね」
こういう理由があるのだった。
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