第16話


毒や暗器や暗殺者を売る裏町は歓楽街や人の知らない魔法の通路の奥ではなく、ごく普通の街並みの中に存在している。昼間は薬を売るまっとうな薬屋が、夜になると裏口を開けて毒を売る。特定の娼婦に特定の金貨で支払いをすれば案内してもらえる小太りな占い師が、暗殺者の元締めだったりする。


大司教邸をひそかに出発した馬車は、乗る者の指示通りに街の中を進んだ。紋章も何もついてない、乗合馬車によく似た簡素な馬車だった。よくあることである。高貴な方の秘密のお遊びは。


アガットはシュテド・リの街に出るのは初めてだったが、そうした街の掟は王都アヴァトグルニオンと変わりないようだった。なんなら王都の方がレベルが高い。石畳が敷き詰められた白い道はさすが教都というべき清らかさだったが、その白さはどことなく俗悪な、完璧に模造された名画の模造品じみたものを感じさせるのだった。


(シュテド・リは悪のいる隙間ひとつない麗しの都と聞いていたのに)


王都とは比べものにならない、聖女の君臨する罪なき都。大聖堂の尖塔が汚い屋根に隠れて見えなくなり、ロンドリオネア大司教邸の大理石張りの壁ははるか背後。


アガットは御者に合図して馬車を止めた。昼間の間はさぞ賑やかな市場がたつのだろう大通りの一画で、歓楽街や小さな店々が並ぶ裏通りに入るにいい塩梅の場所だった。


「朝になる前には戻ってくるわ。待っててちょうだい」


と言い置いて迷いなく光の少ない方向へ歩き始めたアガットに、ジョシュアは迷子の子供のように縋りついた。


「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。勝手に行かれては困ります。僕が先導しますから」


「必要ないわ。こういう通りのことはわかってるもの」


「そんなことあるわけないでしょ! 女の人が!」


と言うなり、アガットの手にあるランプを奪おうとする。発光呪文をかけられて一晩で死ぬ代わりにいっそう強く長持ちする光を宿した蛍虫が、ガラスの中で点滅した。


「およし! 旦那様がお預けくださった魔法具ですよ。粗末に扱ってはなりません」


と、咄嗟にレオの威を借りたのは正解だったようで、若者はぐううと黙り込んだ。青色の目ばかりは怒りを宿し、成り上がりの子爵令嬢ごときが偉そうに、と雄弁に語る。


アガットは少し肩をすくめ、先を急いだ。


教都シュテド・リの夜の裏通りはアガットの目から見て、どうしてもあと一歩足りなかった。


例えばあの男娼はあまりに明かりの下に出てきすぎて品がないし、坊主頭を頭巾に隠した聖職者らしき客は値段交渉で声を張り上げる切羽詰まり具合がなんともわびしい。あんな小さな薬屋に上等のトトニカの根が入るわけないのに、偽造丸わかりの入荷印を看板横に小さく掲げている……。


アガットはいらいらした。彼女の育った王都の裏通りの薬屋は当然のように夜の商売もこなしており、幼い頃、薬屋の父が怪しげな客にぼそぼそと毒の効能を説明するのをベッドの中から聞き耳立てるのがひそかな楽しみだった。それがはじまりで毒殺の手段と美学を学び始めたようなものだ。


十歳にはもういっぱしの夜遊び人で、というのも夜になると母親が子爵と死産した弟につける予定だった名前を呼びながら地団駄踏んで家の中を徘徊しては父の商売を邪魔し、アガットを寝られなくしたからだったが、娼館の裏から商売女たちの艶やかな姿に見惚れたり、路地裏で暮らす子供たちと仲良くなったりした。父の跡をつけて裏路地で行われる秘密の取引を覗き見したのもその頃だった。ばれて大目玉を食ったが、特殊な用語や身振り手振りを交えて行われる人を殺せるもののやり取りは、幼い胸を大いに弾ませたものだった。


シュテド・リの夜にはあの頃のアヴァトグルニオンの夜にあった粋なやり取り、文化のようなものがかけらもない。兼業や正業として暗殺を請け負う男女は見ればそれとわかるものだが、彼らの目にも光がない。


聖職者が集まった陰謀渦巻く街なのに、せっかくの人材を宝の持ち腐れだ。


それ以上にアガットの癇に障ったのは、二歳児のように後ろからついてきてはねえ、あれは何ですかこれは何ですか、そもそも貴婦人というものは家の中で大人しくしておくべきなのに、どうしてあなたという人はそうではないんですか閣下の顔に泥を塗って、ときゃんきゃん姦しいジョシュアの方だった。


あまりにアガットが先や横ばかり見て、後ろの自分を振り返らないからだろう、とうとうジョシュアはこういった。


「あなたは母親に薬を盛って、動けないくらいの病気にさせたんでしょ。よくもそんなことができましたね。騎士団はあなたのことなんて認めてない。レオ様にはもっとふさわしいご令嬢がいるんですからね!」


してやったりという声音である。


アガットはすっかりジョシュアに立ち向かう気力などなく、というか言いぐさがあんまりにも子供じみていて滑稽で、ついつい、


「あの女が盛った薬のせいで私の弟は死産だったんですもの。正当な復讐です」


と、大ウソをついた。実際、テミア子爵夫人たる継母にはそんなツテも度胸もありはしなかった。


ウソは貴族のたしなみであるが、どうやらジョシュアはそれを見抜く技能もないらしい、えっと呟いたきり棒立ちになった青年を放っておいて、アガットはようやく見つけたさらに細い裏路地へ。中途半端に空いている扉の隙間から身体を中に滑り込ませた。


店内は薄暗く、懐かしい薬草と毒草の匂いがした。カウンター代わりの整列棚の向こうには腰の曲がったローブ姿の老婆がいて石臼を磨いており、混み入った演出にアガットはふっと笑い声を漏らす。慌てて入り込んできたジョシュアが、店内の雰囲気に絡めとられている。


「いらっしゃい」


「こんばんは、おばあさん。水銀の粒を見せてくださいな」


アガットは幼い少女じみた高い声で笑いながら言った、王都にいた頃培った会話の記憶を頼りに。ジョシュアが話そうとする隙など一秒だって与えない。


老婆は黙って棚板の上に紙箱に入った水銀を並べたが、アガットは首を横に振る。


「これじゃないわ。本当の水銀よ。まあるい粒の。同じ大きさの」


「そんな上等なもの、こんな小さい店にあると思うのかい。ものを知らない娘だね」


「あら? でも、ここを紹介されたのに」


「……」


アガットは棚板の上のランプを指さした。老婆は少しだけ黙ったが、結局水銀粒は出てこなかった。しばらくぽつりぽつりと天気の話があり、結局アガットはト・ウェーの葉を買って店を出た。ようやく口に収まる程度の大きな葉っぱで、歯で嚙んでいるうちにエキスが出て頭痛薬になる。


「あれでよかったんですか?」


と、耐えかねたジョシュアが話しかけてきたのは馬車の姿が見えてからだった。案外気の小さい子なのかもしれない。


「世間話しただけじゃないですか。お茶会と変わらない」


「あらあら。世間話は大事だし、ご令嬢方のお茶会も重要ですよ。ああして親睦を深め、いざというときに助けていただくの」


「はあ? 何言ってるんですか。レオ様は言ってましたよ、いざというときすべてを決めるのは剣と名誉だって!」


ふふふん、と鼻息まで聞こえてきそうなほど誇らしげだった。アガットたちの姿を見つけた御者が黙って馬車の扉を開ける。馬はとにかく静かで、ひょっとして眠たいのかもしれない。


アガットは笑いをこらえて馬車の席に座る。狭い、一列席の馬車なので隣にジョシュアが滑り込む。彼はそういう点では礼儀正しく、アガットの揃えたスカートに触らない位置で足を止めた。


「――それを、レオ様がおっしゃっていたの?」


「そうですよ。ああ、女の人にはわからないかもしれませんね。僕たち男は戦場の固い絆で結ばれているんです。いざというときの剣と名誉の力のことだって知ってます。僕たちは、」


アガットはこらえきれず吹き出した。


「ああ、ごめんなさい。うふふふ」


「はあ? なんですか。無礼な人ですね。僕は侯爵の息子ですよ! 成人すれば伯爵位を継承するんです!」


「あはははっ、ごめんなさい。――ええ、お詫びしますわ。ジョシュア様。思いがけない言葉だったから、つい。緊張していたのかもしれませんわ」


剣と名誉の比喩は教会の説法によく使われる神の書の中の言葉だが、なんといってもごく最近それをレオに伝えた覚えがある。


ジョシュアの方は腹に据えかねた様子でアガットを睨んだものの、貴婦人が謝罪したというのに許さないのは騎士ではない。


「……許しますよ」


「ありがとうございます」


それでその後、馬車の中に会話が芽生えることはなかった。なんとも若い、気持ちのいい子だとアガットは思った。二度と一緒に出掛けたくないわ。

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