第14話



「母上、ご機嫌伺いに参りました。お元気ですか――」


とレオが扉を開けて入ってきたのは突然であり、ノックもしない気安さがアガットには珍しかった。あの美しい公爵夫人と彼は、気の置けない親子なのだ。


「あ、まだ危険ですから入らないでくださいまし」


と、アガットはバルコニーから部屋の向こうのレオへ声をかけた。赤子をあやしながら。


それにしてもこの子はいい子だ。見ず知らずの他人に抱き上げられても泣きもしない。


レオは美しい顔が固まり、彼は目を見開いて絶句した。背後に従うミゲルは半ば剣を抜いた。


ここは使用人さえあまりに通らぬ大司教邸のはずれ。台所がついた簡素な一室はアガットの生まれた薬屋より広く壁がない。だからきのこの煙はよく広まった、遮るものが何もないのだから。


死屍累々、の有様である。


公爵夫人はソファの上でもんどりうった姿勢のままこと切れている。喉元を掻き毟った指先は血でどす黒く、吐いた血も同じかそれ以上に黒い。


侍女どもは若いぶん体力があって、走り回って苦しんだ者さえいたからあちこちにぶつかり、ドレスを乱して死んでいた。吐いた血の中に倒れ伏す者、同僚の背中を殴った姿勢で死後硬直しかけているもの。


――まだ改良の余地がある、とアガットは室内を見回して思う。思いついたときは完璧な毒だと思ったのだが。


気づいたときには頭の上から影が落ちていた。顔を上げる。レオの冴え冴えとした緑の目が、ほとんど黄色に近くなって目の前にある。


「わ!」


レオの大きな手がアガットの手首を掴み、もう片方の手が赤子を取り上げた。ふええ、と泣き始めたのをミゲルに手渡すと、レオは改めてアガットを捕まえ、引き寄せた。ちっともロマンチックではない乱暴な、捕縛と言っていい動きだった。


「痛い痛い!」


「何をした!? きみがやったのか!」


恫喝である。


「そうですよ、私が殺しました。いっ、ちょっとレオ様ほんとうに骨が折れます」


袖口に仕込んだ毒を出そうかと思ったが、アガットは思いとどまった。どうしてだろう。今までこのように行動を途中でやめることなど、なかったように思うのだが。


「閣下、許可を」


「下がれミゲル。リオンを安全なところへ」


「しかし!」


「下がれ!――妻がこのようなことをしでかしたと人に知られたら、私の名誉は地を這うぞ。人殺しの魔女を身内に引き込んだとシャヴァネルの名まで汚される。決して人を寄せるでない」


アガットから目を離さずにレオはそう言い放つと、指先に魔力を込めた。彼のお得意の狙撃魔法だ。首の詰まった社交服の襟から宝石を外し、ぱちぱちと魔法式が起動する音と火花を飛び散らせながら、アガットの緑の目のまん前に突き出してくる。


「妙なことをすれば殺す、アガット。わかったか?」


仕方なくアガットは頷いた。


「はぁい」


人を舐めた態度である、とレオでなくとも思ったことだろう。ミゲルは射殺しそうな目で彼女を睨む。


「行け、ミゲル!」


忠実な従僕は去った。


アガットとレオだけがバルコニーに残された。中庭に面したそこは見られる危険性の少ない場所ではあったが、念には念を、氏族と家の名誉を守るためレオはアガットを室内へ引きずり込む。毒によって死んだ者特有の死臭の満ちる部屋へ。


レオは壁にアガットの小柄な身体を押し付けた。太い左腕がぎりぎりと首を締め上げ、右腕の指にはぱちぱち音をたてる魔石が。それはアガットの頬のすぐそばにある。


「アガット。この状況について説明してくれ」


声は底冷えするように冷たく、目の色はもう緑に戻らないのではないかというほど黄色い。知らなかった、激昂するとシャヴァネルの人間は黄色の目になるのか。それは――悪魔の一族と噂されるのも納得できる。


「アガット!!」


「アシャ草からは神経毒を抽出できます。覚えてらっしゃいます? 黒髪の、農民みたいな恰好の暗殺者。御身をギリギリ追い詰めていましたわね。あのときシロキリタケの胞子でお救い申し上げました。ちょっと閃いてしまったの。この二つ、合わせたらすごそうよねえって。試したくなってしまったの」


話すうち、アガットにもゆるゆるとレオの怒りの理由が理解できた。そういえばそうだ……人というのは母親を慕うものなのだった。


「お母上様を殺してしまって、ごめんなさい」


なのでアガットは静かに謝った。これで殺されるかもしれないと思い、けれどそれは悲しいけれど誇らしいことなのだった。父親だとアガットが思っている人と同じ、毒の地獄へ行けるのだから。


レオの手の力はびくともしなかったが、黄色くなった目にわずかな緑色が戻った。困惑、思惑、レオは鼻に皺を寄せる。そんな顔してもこの男は綺麗だった。


「……なぜ殺した? 母上がきみに何をした」


「え? いいえ。なんにもされておりませんわ。ただ、気に入らなかったの」


ぱちぱちぱち。一度静まった火花が再び爆ぜる。


「ふざけているのか? なんの政治的な意図もなく、シャヴァネル前公爵夫人を殺しただと? 侍女どもも上級貴族の娘だ、こちら側のな。お前は我が方についた貴族の女を殺したのだぞ!」


「それは……申し訳ございません。理解が及びませんでした」


「なんだと?」


アガットはへどもどした。


「レオ様の勢力を削ごうなどとは考えていなかったのです。そればっかりはほんとうです。ああ……なんてこと。なんてことしてしまったの、私」


それは実の母の死体を見下ろしたときと同じ感情だった。あのときは薬屋の父が、痩せ細ったとはいえ暗器を使い慣れた荒れた手で頭を撫でてくれ褒めてくれたので、嬉しさに押し隠されてしまった感情……。


かつてアガットにあったもの。レオの中にもあったもの。それぞれの理由でなくしてしまったもの。


「勢いで人を殺しちゃ、いけなかったんだわ」


「――私の目を見よ。嘘偽りなく話すと誓え」


「はい、レオ様」


「お前は私の知っているアガットではないかのようだ。だが心臓の魔力波は同じ。すり替わったわけでもあるまい」


「ええ、私は――アガットです。アガットはひとりきり……」


「なぜ殺した」


もう一度、同じことをレオは口にした。先ほどは彼らしくもなく焦っていたから、つい主題が流れるような言い方をしてしまった。


今は彼は落ち着いて、ゆっくりした貴族らしい口調で、格下の相手を睥睨しなんの恐れもなく詰問する。


「答えよ」


「この人たちは生きていちゃいけないと思ったから」


「……なに?」


「だって生きてちゃいけないわ」


アガットは子供のように繰り返すと、言葉を探して首を傾げる。ちっとも乱れていない灰色の前髪がさらりと揺れる。


「この母親がいては、レオ様、あなた国王に即位できませんわよ」


レオの手がかすかに緩んだ、その隙にアガットはこっそり息を深く吸い込んだ。室内の刺激臭は薄れ、アシャ草の毒もきのこの胞子も風に消えた。


レオは彼らしくない動揺を目に浮かべ、母の死体を振り返った。


絶世の美女。生まれながらの貴婦人。公爵夫人となってからは永らく子に恵まれず、遅く生まれたレオを宝物として可愛がってくれた人。


そして彼の背中を押して戦場へ送り出し、自分は運命の恋人と次の宝物を見つけた人。


「母は……私の誇りだった。決して声を荒げたことも、理不尽を言ったこともない。常に他の模範だった。私の努力を見守ってくださった。いつも美しく、社交界を牽引しシャヴァネルを盛り立ててくださった方だぞ。私の……私の戦う理由は母上だった! それをお前が! お前が!?」


「でも邪魔だったでしょ?」


アガットは緑の目を瞬かせる。レオの目は見開かれたまま、真正面から視線が絡み合う。


「彼女のことを思えば足がすくんだでしょ。舌が凍ったでしょ。彼女の幸せを見ていられなかったでしょう」


ころころころ。小柄な令嬢は溌剌と笑う。この部屋の今には似つかわしくなく。


「子供を見捨てて次の子供を作る母親なんて死ねばいいのよ!」


レオはアガットの頬を張った。平手だったのはせめてもの理性だろうか、拳を握る暇もなかったのだろうか。


アガットは歯を食いしばらないように注意した、そうすると欠けてしまうことがあるから。殴られるのは慣れっこだった、それが日常だった頃があった。……普通の人になろうと決意していた時期が、彼女にもあったのだ。殴られても我慢していた時期が。


レオの平手に鋭い痛みが混じった。見ると鋭い裂傷が三本走っている。まるで爪で強くひっかいたような。


アガットはべろっと舌を出した、桃色だがぶつぶつと不健康な粒のある舌だった。彼女の素手の手を掴むレオの手がぴりぴりと痺れ、頬を張っていた方ではない手にもいくつかの裂傷が口を開ける。思い出したようにいずれの傷からも血が垂れた。ゆっくりと細い赤い筋が肘まで伸びていく。


レオはアガットを解放した。アガットは痛そうに頬を擦りふくれっ面している。


「これは何を?」


「カルダリムという草の効能です。摂取するとその者の身体の端の方に集まって、魔力に触れると細い筋になって空気中に飛散しますの」


アガットは耳朶と手首を擦る。そこにはレオの傷とまったく似たような裂傷ができていた。あまりに傷口が鋭すぎ、あとから血が流れるところも同じ。


同じ緑の目をした二人のダキネラル人は見つめ合う。


「母上たちを殺したのも毒か?」


「はい。アシャ草は乾燥させると毒に転じます。シロキリタケの胞子と合わせたら飛散するかと思いまして、胃の中に入れてましたの」


アガットは口元を抑えた。


おえ。


粘土にくるまれた棒状の、女の小指ほどの小さなかたまりが現れた。魔法のように彼女の手の中にある。胃液のにおいがレオの鼻に届く。アガットはレオの目の前でそれを折るふりをして見せ、


「折れば胞子が爆散し、合わせておいたアシャの毒もまた飛散しますの。赤ちゃんを巻き込むわけに参りませんでしたから、上に投げるようにして使用しましたわ。思った通り、胞子は傘状に皆さまに降り注いで。――ふふっ」


毒殺鬼はにこにこと笑った、小さく大人しく害はなく取るに足らない女そのものに。


「とってもすっきり致しました」


レオは怒り狂うべきだった。目の前の女をもっと痛めつけてやるべきだった。しかし彼の脳裏にひらめいたのは、何の躊躇もなく戦場へ行けと言った母の姿、父の厳しさは憎しみの裏返しだったのかもしれないと気づいた日のこと、両親の結婚前から存在していた母の愛人の顔。


「戦場で潔く戦って散るべきです」


と言った母の陶酔した目は息子を見ていなかった。一人息子さえ国に差し出したらどれほどの賞賛を受けるだろうという皮算用。本能はすでに自由になった暁に手に入るだろう素晴らしい未来を見据えていた。


母は美しく麗しく努力家で不幸でおしゃれで自分より周りに尽くし、その見返りをたっぷり受け取ることだけを考えて生きてきた人だった。


「――ははっ」


今、彼の背後で母は死んでいた。かつて彼にしなだれかかってきた金髪の侍女も母とともに死んでいた。


レオが血の流れる片手を眉間に当てて黙り込んでしまうと、アガットは次の言葉を待ちながら死体を振り返る。口だけでも動かしてやりたい、


――ざまあみろ。


と。


だって彼女らはもう死んでいるのだから。口も動かせず、アガットを嘲笑することもできないのだもの。


社会的に破滅させてやれば十分だとか、幸せになるのが最大の復讐だとか、神の名のもとに許してやれば自分の魂も救われるだとか、過度な復讐は復讐者の名誉まで傷つけるだの恥をかくだの。どうせなら拷問してから殺したい。じわじわ苦しめてから。家族もやっちゃってから、それを見せつけてやりたいから。生き恥を晒させてから。そんなこと言っているからいいようにやられるのである。


――死だ。


絶対の勝利とはそれしかない。こちらが生者で、あちらが死者となること。敵に死を与えることこそすべてを解決する唯一の手段である。


――死は、死である。暴力という言葉さえ生ぬるいほど、圧倒的な勝利。


アガットはレオの手の傷を撫でた。彼はびくりと反応し、やがて硬い手の向こうから緑の目が覗く。


「大丈夫ですか? お母上はもう死んでしまったのですから、悔やんでも仕方ありませんわ」


アガットは目を細めて笑う、いつも通りに。


「私を処刑して気が済むのでしたらお好きにどうぞ。もうお仕えできないのは寂しいですが、地獄の底からお見守り致します」


死を恐れることのない者の言い分だった。そんなことを言える自分が、アガットは不思議だった。レオの緑の目に酔ったのかもしれない。とうとう、絡めとられてしまったのかも。それでもいいとさえ彼女は思った。


「――っは、ははは……っ」


レオの頬が意思とは関係なく緩んだ。彼自身さえ気づかなかった願望が、このとき表に浮上してきたのだった。


「母上はもういない……」


「はい」


「私はもうリオンに立場を脅かされる心配を、しなくともよい」


「よい乳母夫婦に預けておやりになったら? それとも私に任せてくださいます?」


アガットはぱっと顔を輝かせる。


「子供を育てるのは初めてです。楽しみだこと」


レオはそんな彼女の頭をくしゃりと撫でた。狩猟小屋にいたときさえしなかった慈愛ある手つきだった。この女には過去も未来も、今も自分もないのだとようやくわかった。


――私が理性を持たない化け物だったらどうするのです、と彼女は言った。


なんのことはない、あれは本人すら自覚していない自己紹介だったのだ。


死体は腐臭を漂わせつつあった。暑い時期でもないのに、体内に入った毒が先に腐敗している。戦場ではない戦場で発生する匂いだ。


「私はもう母上が夜に何をしているのか気にしなくていいし、罪悪感に苛まれることもない」


はっきりとした声音でレオは言う。アガットの頭を抱き寄せ、なんの抵抗もみせない妻の首の骨を折ることができる距離のまま、中空を見つめる。


「罪悪感?」


「私が生まれたせいで母上は公爵家から逃げられなくなったのだ」


「ふうん」


アガットは頷いた。


「それで?」


「――それだけ」


「人は誰しも望まない場所に生れ落ちて必死に生きているわ。今いるここが嫌だと感じてからが本番よ」


くくっとレオの喉が鳴る。彼は肩を震わせて笑った、死体の山の中央で。妻となった女を片腕に、母親の死体を振り返る。


「私はもう苦しまない! すべきこと、したいことをしていいんだ!」


何かが吹っ切れたようだった。うむうむ、アガットは首をこくこくさせる。レオは腹の底から低く笑った。それはいつまでも、腕に抱えられて筋肉の発する熱にうだるアガットが飽き飽きするまで続いた。


「私は――解放された。王になるぞ」


レオは呟く。細かい笑いの振動がアガットの鳩尾に響く。


「私が王になるんだ」


レオのぎらぎら夏の山の色に光る緑の目が、アガットの頭を通り越した先を睨みつけていた。

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