第13話
シャヴァネル公爵夫人は絶世の美女と名高い貴婦人だ。こうして対面してみてもレオを産んだとは思えぬほど若々しく、流行の形に金髪を結い上げ髪用の粉飾粉を散らし、やはり流行りのドレスを着こなして腰をコルセットで締め上げていた。公爵夫人は侍女を二人連れていた。侍女二人はアガットの前のソファに座った夫人に背もたれごしに肘や手をかける。公爵夫人にまとわりつくように陣取り、アガットは蔓性の大きな花を思い出した。
「あなたがレオのお嫁さんなの。そう。あの子ったらぜんぜん言わないものだから。うふ」
と夫人は言う。鈴を振るような美しい声。発声は婉然とした赤い口紅の唇からころんと転げるよう。
「あたくしは構わなくてよ。子爵の娘が公爵家の嫁でも」
背後に控える、という形になったのは不服だろうが、とりあえずアガット側の壁に並んだ色とりどりの侍女たちから、か細い悲鳴が上がった。
アガットはコルセットに締め上げられた胴体が悲鳴を上げるのを感じる。来ているのは与えられた深紅のドレスだが、服に着られているような状態だ。苦労して腕を動かし、口元を隠す。
「そんな、奥方様。もったいのうございます」
公爵夫人の後ろの侍女二人がきゃぱぱぱっと笑い転げた。
「私よりもっとふさわしい方がいらっしゃるのは、わかっております」
「いらっしゃるだってー!」
「わかっておりますう。わかっておりますう」
侍女二人は踊るように体を動かし、アガットの顔真似らしいことをする。
公爵夫人は年若い侍女を叱ることもせず微笑んだ。衰え知らずの美貌だが、ほのかに口元に線が見える。ぱっくりと空いたドレスの衿ぐりは広く、喉のくぼみに垂れるダイヤモンドのネックレスから胸の谷間に収まる真珠の数珠に負けないほど肌はなめらかに白い。
「あたくしは夫に恵まれませんでしたから、レオのことをそれは大事にしてきましたわ。あなたにもぜひ、あの子を夫として盛り立てていただきたいですわ」
「はい」
「はいだってー!」
「ぷっ。ひゃい! ひゃい!」
「あたくしはずっと不幸でしたわ。あの子の成長だけが唯一の楽しみでしたわ。でも今はやっと解放されて、自由で幸福なの。自分の力で掴み取った幸福は甘露だわ! あなたもあたくしのように賢いのでしょうね? レオに助言してやってくださいましね」
「奥方様! ああ、そんなの子爵の娘には無理ですわ!」
「そうですわ! この人そんな教養ありませんわ!」
侍女ふたりはよよよと泣き真似すると、声を揃えて、
「なんておかわいそうな奥方様!」
――アガットとしては、愛想笑いじみた形で口をひくつかせることしかできない。
上級貴族から命令され、仕事したことはある。けれど考えてみれば、レオを除いて彼ら彼女らと個人として話したことなどない。王都学院の生徒だった頃だって、建前上は生徒は平等だったがそこには確かな身分による格差があった。
「ああ、ああ。あたくしったら! いいのよアガット。気にしないで。あたくし、あなたのこと娘だと思ってあげるわ。なんでも聞きに来なさい」
呼び捨てである、当然のことではあるが。
アガットは自分の中の青い炎を宥めようとした、そのとき思い浮かべていたのはレオの顔だった。癇癪を起して彼の顔を潰すわけにはいかない。
「奥方様のこと、ただの義務を果たしてきただけの公爵夫人だと思ってるでしょ」
と憎々し気に声を上げたのは金髪の侍女である。向かって左の方だ。
「違うわよ。そんなはずないでしょ。奥方様は愛を知る女なのよ! レオ様がお美しいのだって奥方様に似たからよ! いつでもお美しくいようと努力なさって。奥方様は毎日努力のかたまりよ!」
「そうよそうよ。奥方様はずっとずっと我慢させられてきて、シャヴァネル公爵家のため犠牲になられてきたのだわ。はばかりながらも公爵様がお亡くなりあそばして、やっと女の喜びをお掴みになったのよ!」
栗色の髪の右側の侍女が目に涙をためてアガットを睨んだ。
「まああ、あなたたち、恥ずかしいわぁ」
公爵夫人は上半身をくねくねさせた。それは目を見張るほど優雅な動作だったが、首から肩にかけてじわっと深い皺が寄った。アガットはぎこちなく彼女から目を逸らす。その一本皺の周りには無数の細かいちりめん皺が一緒になって寄り、公爵夫人が身体を起こしても皮膚の上から名残りが消えなかった。
「フンっ。奥方様もあたしたちもアンタなんかに愛嬌振りまかないからね。何? 同じ女だから優しくしてくれるとでも思ったぁ?」
「なんで奥方様があんたなんかに笑ってやらなきゃならないわけぇ? 調子乗るんじゃないわよ」
と、侍女たちは姦しい。アガットは顎の下に指をあてて苦笑いし、背後の色とりどりの大司教邸の侍女たちに睨まれているのを背中で感じている。
と、そのときぱたぱたと軽い足音がして、カリカリ部屋の扉が開かれる。公爵夫人は天使像のように麗しく破願した。金髪の侍女が速やかに扉へ向かい、小さな男の子を抱き上げて戻ってくる。
「ママー」
「あああん、あたくしの小さなかわいい坊や。寂しくなっちゃったの?」
と、母親というよりは祖母のような慈しみの仕草で彼女は子供を抱き上げた。レオに、いや公爵夫人その人にそっくりな子だった。
「まあ」
とアガットはますますびっくりする。確か公爵夫人はもう四十を超えていたはずだが、子供はどう見ても二歳に満たなかった。
公爵夫人は途端に目を吊り上げてアガットを見た。睨む、という仕草さえ、彼女が行えばただのこちらの勘違いかと錯覚するほど優雅なのだった。
「あたくしのかわいい宝物に何か思うところでもおあり?」
「いいえ。利発そうなお子様ですね」
「そうでしょぉ。あたくしの生きる喜びそのもの! あたくしのきらめく星、月、珊瑚の枝よ!」
と、おそらく我が子なのだろう子供に頬ずりをする。美しい幼児はキャッキャと喜び、侍女ふたりも同じ声音で笑い声をあげた。
彼女たちはアガットを、というよりその背後の貴族子女たちに向かって流し目をくれると、
「うふふふ。奥方様はまだまだもっと産めるわぁ」
「きゃっ。行かず後家が睨んでるう」
と楽しそうにお互いの肘を握り合う。
ダキネラルでは教会法に基づき男女ともに十五歳から婚姻が可能である。それなりの実家を持つ娘、器量よし、歌や踊りや刺繍が上手いなどの技能持ちは十五になったと同時に結婚し、そもそも侍女にならない。大司教邸に努める侍女たちは婚期が遅れることが多いといわれるが逆で、侍女になるくらいしかできない実力と身の上だから、侍女をしているわけだ。
「レオ様は――どう思っていらっしゃるのですか。その子のことを」
と、アガットはぽつりと言った。公爵夫人は幼児のふにふにした頬を摘まみ、あやしているというか、幼児で遊んでいるというか。
「応援してくれているわよぉ。あの子はいい子ですもの。あたくしは義務を果たしたのだから、ゆっくりなさってと言ってくれるのぉ。うふふっ、あたくしそっくり!」
彼女の夫はすでに亡い。息子が反対しないというのなら、多少の逸脱は目をつぶってもらえる身分だ。何しろ彼女は跡取り息子の母親で、高貴な生まれの女性であるから。
「左様ですか」
アガットは口元を抑えて目をつぶった。二人の侍女が勝ち誇った笑い声をあげた。
「あなたにあたくしのように義務を果たすことができるかしらあ? あたくし、今ねえ、とっても幸せなの。義務を果たして、愛する人に愛されて、子供を産んで。あなたがあたくしのように素晴らしい幸福を得られることを望みますわぁ」
「レオ様はあなたを幸福にしなかったのですか?」
アガットは顔を上げ、にっこりした。もう箍は外れた。
公爵夫人は絶世の美貌をきょとんとさせる。
「あたくしはレオを愛したわ!」
それだけですべては解決だろうと決めてかかる口調だった。自分のことを一切の瑕疵のない宝玉であると信じられる者だけが発することのできる言葉だった。貴族らしくおっとりした口調、才気と美貌に恵まれ、とびきりおしゃれで、優しい麗しい妖精のような奥方様。
色とりどりの侍女たちはすでにアガットではなく彼女の味方で、ざわりとアガットへの非難の声を漏らす。
ぽんっと間抜けた煙の音がした。誰かがえ? と呟いた。
悲鳴が上がった。
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