第12話


マドレーヌが焼き上がった。アガットは窯の蓋をとり中身を確認する。しっとりしたバターの香り、じゅくじゅくと生地の表面は茶色く、焦げる直前のいい塩梅の色をしている。


「ふふっ」


と軽い笑いも漏れようものだ。


この部屋は狩猟小屋より大きいし、台所と呼べる場所もある。だがアガットはどうも、あの山中を懐かしく思う。あそこは静かで、鄙びて、寂しかったが心が静まった。


ロンドリオネア大司教邸の、ひっそりとした北の区画にその部屋はあった。


ダキネラル帝室には都がふたつある、と言われる。国王が宮殿を構える王都アヴァトグルニオンと、大聖堂と聖女を擁する教都シュテド・リである。中でも六人の大司教とそれを束ねる聖女は国王に匹敵する権威を持つとされ、信仰を同じくする国に対してならその威光も通じるから、人々が戦争の折に逃げ込むのはアヴァトグルニオンではなくここシュテド・リであるとも言われていた。


ロンドリオネア大司教はレオのシャヴァネル公爵家と縁深い貴族聖職者で、というかレオの大叔父にあたる人である。シュテド・リのほぼ中央、大聖堂のかたわらに等しい場所に位置するロンドリオネア大司教邸は、その主人の高貴さと清らかさを象徴するかのように大きく新しく神々しい。


メイドがいて侍女がいて、侍従も執事もいるのだから生活に困ることは何もないのだが、そうするとアガットは暇である。なにせきちんとした上級貴族の令嬢のような教養も社交のすべも持たない。そもそも見張り役のような侍女が数人、今も台所の続きの部屋で品よく座り、裁縫に精を出している。


貝のかたちの型をえいっと裏返し、そうするとマドレーヌはころんころんと外れた。バターをたっぷり使えたから、ちっともひっつかないのだった。


アガットは台所のテーブルの上の大皿にお菓子の山を放置した。お菓子の山を冷ましておくためだ。うんっと伸びて、頭にかぶった頭巾も取って、髪の乱れを撫でつける。一日分の仕事を終えた気分だった。


「あなたがた、マドレーヌを召し上がる?」


と彼女は続きの部屋に声をかける。ピンク、黄色、オレンジ、緑。鮮やかなドレスを身に纏った美しい侍女たちは、判で押したような美貌をほころばせ応えた。


「ご遠慮いたしまーす!」


それでアガットは再び台所の小さなスツールに座ってときを過ごすのだった。


――当たり前の話であるが、侍女たちのご実家は上級貴族である。侯爵家だったか、伯爵家だったか。大司教邸に侍女奉公に上がるのだから、その程度の身分があるのは当然である。一方アガットは下級貴族。しかも血に由来のない成り上がりの子爵家の娘。見下されるのは当たり前だった。


レオとの婚姻について人々は、その必要性を理解している。貴公子がいっとき国王陛下のお怒りから身を隠し、ご寛恕願うための方便。そう、噓も方便だ。


アガットが大司教邸に居住して許されるのは、レオとの婚姻関係があるから。本来なら大司教様のおわす聖なる場所に、主従契約を結んだメイドでもない下級貴族が立ち入ることは許されない。


つまりはこういうことである――事情は分かったわ、でも不敬を働いてなお分を弁えずヘラヘラして何様のつもり?


よって、自分よりはるかに身分の高い侍女たちにアガットはくすくす品よく笑われて、台所の熱い空気が冷めていくのを感じるのだった。読書なり刺繍なりしてもよかったが、翌日には本も布も燃やされるとわかってはやる気も起きない。


侍女たちの毛並みの良さときたら大したもので、決して表情を崩すことなくアガットの言葉を受け流し、赤ん坊か犬にでもするかのように優しい声をかけてくる。アガットが一声でも大きなすさんだ声を出したなら、あっという間に上級貴族令嬢に暴行を働いた頭がおかしい下級貴族の出来上がりだろう。


三週間。ここに来てからレオには会えていなかった。


生まれてから一度も王都を出たことのなかったアガットは、初めてのシュテド・リを楽しみにしていた。けれど外へ出してもらえたことはなく、壮麗な教会の街並みを眺めることはできていない。


大司教邸はそれは壮麗な建物だが内情はかなりきな臭く、民心を集める説教坊主やらレオを中心に国王と勇者ジュリアンへ反逆を試みる勢力やらそれを諫める国王派の聖職者やら、混み入った政治を操る側の事情が入り組んでいた。


アガットが途方に暮れることなくいられたのは、かろうじて菓子作り程度なら食材を融通きかせてもらえ、また時折訪れるミゲルを通じてレオに完成品を贈らせてもらえるからだ。侍女のみならず侍従にさえ鼻で笑われる、おそらくレオ本人の元に菓子がいくことはないのだろう徒労だったが、やることがあるというのは気が紛れた。


「離婚はいつかしら? ああ、シャヴァネル閣下の本当の花嫁が早く見たいわ」


「きゃあ。聞こえてしまうわ。下級貴族よ。殴りかかってくるわ」


「そうしたら執事を呼んで、鞭で叩いてもらうわ」


「メイドたちに針を刺させましょうねえ」


と、聞こえよがしな侍女の声さえ小鳥のさえずりのようなものだ。


アガットは菓子の山にかかる乾燥防止の濡れ布巾をつっついた。心の中に青い色の衝動が目覚めつつあった。


ノックがされて、来訪者の存在が告げられた。


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