第11話


ミゲルが息せき切って山を登ってきたのは翌日のことである。このところ連絡役の彼の仕事も途切れがちだったから、何が原因かは明白だった。


「閣下! ご無事で……」


と白い息を吐き、荷物を家の前に捨てて駆け寄る従者をレオは両手を広げて迎え入れ、そこからはしばらく忙しい男同士の絆の確かめ合いがはじまる。


アガットはその間に持ってきてくれた物資を家に入れ、見分し、またお茶も沸かした。


冬になればここは雪山となる。ミゲルが昇ってこられず、食糧が不足する可能性がそこはかとない恐怖となっていたから、食べ物が増えるのは大歓迎だ。


ちょうどお茶が入ったあたりでミゲルが居間に入ってきた。籐椅子二つに座って情報交換に入った彼らの前にフェンネルのお茶を出し、自室に下がる。


……なんだか悪口を言われている気がする。


まあ、しょうがない。言われて仕方ないことをしたのは事実なのだ。


アガットは産みの母親のことを愛していたが、彼女が愛していたのはテミア子爵だった。あの軽薄な男のどこがよかったのかいまだに分からないものの、それでも確かな愛が彼女にはあった。妊娠したので先代テミア子爵夫人、つまりアガットの祖母に子爵家を追い出され、よってアガットを憎んでいた。アガットの養父となった薬屋のことも同じくらいに恨んでいた。


幼い女だった、と思う。貴族の愛人になるような女がみんなああだとは思わないが、それにしても。


薬屋の父はあらゆることを教えてくれた。自分が培った理論も知識も何もかも。――おそらくは、退職金をもらって薬屋を開く前、彼は毒殺に関わるどこかの使用人だったのではないか、とアガットは予想している。昔のことなど何も話してくれないまま父は死んでしまった。最後の最後で、


「天の神は見ていなさるんだなあ、たくさん殺したから――」


と内臓が腐った病の人間に独特の息を吐き、それをアガットはいやだとも思わなかったけれど、


「こんな汚れた男を看取らせて、ごめんよ」


とまで言った。それで彼はアガットの特別になった。


肉体関係こそなかったもののとくに母が死んで二人暮らしだった最後の日々、精神的な恋人のようなものだった。アガットにとってはじめての愛する人の喪失だったから、その死は堪えた。


十五歳で引き取られた先のテミア子爵家では、継母がその若さと美貌で子爵を骨抜きに、子供も産んで名実ともに支配者となっていた。彼女は子爵に惚れていたので、自分より先にその子を産む名誉を手に入れた前の愛人を許さなかった。もちろんその半分平民の汚い娘も。


アガットは女なので、これまで二十六年生きてきて大抵のいやなことは女にされた。男は彼女があまりに取るに足らないので相手にしなかった。


十五歳のアガットは人間というものを頭の先からつま先まで憎んだ。


自分が、歪んでいて頭が悪くて衝動的で、手にする知識に酔っている女であることをアガットは知っている。いつかしっぺ返しがくることを予期している、だって神の教えはそういうものだから。


――負けてたまるか、と思って生きてきた。


実母に鞭で顔を殴られて奥歯が欠け、鼻血を出した夜に砒素入り鼠捕りに手を伸ばしたときも。


毒草が手に入らないので、子爵家の古い棟の壁紙を剥がして骨組みの鉛入り接着剤を手に入れ、赤ワインと混ぜて継母に飲ませたときも。


――女の争いに巻き込まれて浅はかに死ぬ不名誉を恐れていたら、やられっぱなしで人生を破壊されるのだ。


――恥をかきたくない、ですって? 生まれてきて、生きなければならない時点で恥さらしに人は生きている。


そういう人生観。


手の中に力がある。奮って何が悪い? 暴力から逃れるため、傷つけられた腹いせのために使って何が悪い? やり返さなければ永遠にやられ続けるだけだ。それに――父さんも私が母さんに毒を盛るのを止めなかった。


自分より立場が上の女の捌け口になって毎日惨めに暮らすことの辛酸を、アガットは舐め尽くした。


もう二度といや。アガットは賭けに出て、そして勝った。


そこからは坂道を転がるように。平民の血を馬鹿にする女がいれば毒を盛り、殺さないまでも七転八倒させてやり。お尻を触ってきた男の犬を殺し息子を苦しめ、嘆く姿を笑ってやった。そういう人生だった。


いてはいけない人間に罰を下している気分。悪いことを、いつか天の神様に罰される行いをするとすっきりした。自分に力があることがわかって嬉しかった。アガットは今の自分に満足している。居間にいる男たちがどう思うかは知らないが。


「アガット、ちょっと来てくれ」


とレオが呼ぶ。今日の会話は周到なことに防音結界魔法が使われており、それまでの会話の内容はアガットの耳には届かなかった。自分が警戒の対象になったということか。


言われた通り出ていくと、ミゲルのまなざしが鋭い。レオに向かって礼をするアガットに、金髪の貴公子は笑いかける。


「冬になって川が凍ったら王都に陳情に行く。きみも一緒に来るんだ」


「閣下、」


「しつこいぞ、ミゲル。アガットは私の妻だ。妻を山の中に置いて私だけ都に上るわけにもいくまい?」


てっきり毒殺について問い詰められると思っていたから、アガットは内心、目を白黒させる。


レオの頬は不自然に上気していた。目がきらきらして、本当に楽し気である。


「出発はすぐだ。そのつもりでいてくれ」


「かしこまりました」


アガットは淡々と返答する。


政治がどうなっているのか、姿を現して本当に安全なのか、今度は人間同士で戦争になるのか。聞きたいことは山ほどあったがそれはアガットが耳にしていいものではないし、二人とも知らせようとはしないだろう。


段々居心地がよくなっていた狩猟小屋とも、どうやら別れを告げなければならないようだった。



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