第10話


愛国心はいつだって何かの代わりだ。ダキネラル人は魔物の襲来によって破壊されたあらゆるものごとを惜しみ、慈しみ、裏返しに魔物を憎んでいる。その憎悪は永遠に尽きることはないだろう、ダキネラル帝国そのものが国をまとめるため、奴らへの憎しみを煽るのだから。


魔物と魔王を打ち払ったのは勇者ジュリアンで、王都広場に立つのは彼の銅像であるらしい。けれどその前に一人ひとりが盾となって国を守ってくれた騎士団への敬意を人々は忘れていない。若くして団長の重圧に耐えたレオについても同様に。アガットだって間違いなくその一人だ。


――だから、レオに聞かれたことは正直に答えよう、とアガットは決めた。


傷の手当を終えて、居間の籐椅子にそれぞれ身を沈めている。竈では火が燃え、ちょうどいい熱気がこちらまで伝わってきた。人心地ついたような雰囲気だが、レオの緑の目は新春の萌えはじめの森のように色素が薄い。


「はじめにミゲルがここに来たとき、奴は周到にきみの情報を調べて持ってきた。私の周囲に得体の知れない者がいてはならんからな」


ぽつりとレオは言い放つように言う。アガットは腰の裏に入れたクッションにもたれかかってそれを聞く。


「リュドヴィックが選んだのだから、少なくとも山奥に軟禁されれば泣き崩れて働けなくなるお嬢さんではないだろうと思っていたが。――驚いたよ。きみの背後には何人もの死があった。何かの間違いかと、たまたま不幸が続いただけだろうと思いたかったが」


「リュドヴィック先生はご存じなかったのかもしれないじゃありませんか」


アガットがレオに明確な口答えをしたのは、はじめてのことである。


「あの場で捕まえることができて、国と公爵家へ忠誠心のある、いなくなっても問題ない娘を適当に選ばれたのでしょう。レオ様がお姿を隠されるための花嫁です、下級貴族であれば誰でも条件に沿いますもの」


怒るかしら、とちらりと見上げてみたものの、レオは柔和な張り付いた微笑みを崩さないまま。ただ目の色だけがいつもと違ってらんらんと、黄色が勝る新緑の色。


「言い逃れるのか?」


「そんなつもりじゃ、」


「二度は言わない。私からの質問に言い逃れをするか、アガット?」


彼女は諦めた。


「私の――背景をご存じだったのなら、それでなお、お仕えさせていただけたのはどういうわけです? お命が危ないとは思われなかったのですか」


「やっと認めたな」


とレオは肩をすくめる。


「血生臭い過去のある者には慣れている。それに、どうやら意味もなく薬殺を繰り返したわけではなさそうだと見当がついたから」


レオは自分の膝に肘をつき、斜めからアガットを見つめた。自分が見通されていくまなざしだった。アガットは何故か、身体の中が洗われていく感じがした。


「産みの母親は平民で、テミア子爵の愛人だったな?」


「ええ。腹の中の私と一緒に父に払い下げられたのです」


「結婚してからも母親は子爵と逢瀬を重ねた。生まれてすぐに死んだ弟は子爵の種だった」


「そこまでお調べがついているのですか」


アガットは苦笑した。家の恥、恥辱、人によっては一生をかけて雪がなければならない恥部だ。しかも主君筋の貴公子にそれを知られるとは。いっそ清々しい気持ちだった。


「それでは、レオ様はあそこで間諜からの報告を待っておられたわけですね」


とふてぶてしく肘をつくことさえする。


「公爵家の情報網はまだご健全。ああしてこそこそと、レオ様は世間の動きを知っていらっしゃる」


「そうだね。あの暗殺者は迂闊だった。これでいいか?」


レオは美しくにっこりした。母親の話をしたからだろうか。アガットはふと、絶世の美女だという彼の母、公爵夫人の話を思い出す――彼女もまた国王陛下の愛人で、レオ様とエレオノーラ姫は異母きょうだいだ、という噂は本当なのだろうか?


「母親の病は急だった、テミア子爵夫人、きみが継母と呼ぶ人と同じに」


「それだけで私が毒を盛ったとは決めつけられませんわ」


「それしかないんだよ。他人で彼女らを殺したいほど憎んでいた人は他にもいただろうが、実行に移せる手管が傍にあったのはきみだけだった。薬屋の父親に製薬を学び、学院で植物学を学んだきみしか」


アガットは肩をすくめる。破れかぶれだった。この期に及んで彼女は――レオには何もばれることなくこの狩猟小屋の生活を終えられると思っていたのだった。ほんの数か月の甘い夢を味わえると。憧れの貴公子の隣で。


「薬屋は死んだね」


「ええ」


「それも、きみが殺したの」


「いいえ」


アガットは緑の目でまっすぐにレオを見据える。深い濃い森の色で。


「父は唯一私を愛してくれた人でした。彼は病死です、天の神の鉄槌を受けて」


棚のランプの灯りを受けて、レオのまっすぐな額の線やすっきりした鼻梁が獣の輪郭のように映える。


「そうして子爵家に?」


「ええ。子爵の娘であることに変わりはないですもの。この顔が」


アガットは小さい、取り立てて特徴もない、平均的なダキネラル貴族の顔をレオに突き出してみせる。


「証拠なのですって」


「どうやって家を掌握したのだ? きみが家に入った頃にはすでに継母が男の子を生み、実権を握っていたはずだ」


「どうって――」


アガットは再度、苦笑する。まったくこの学院の王子様ときたら。


「傍付きのメイドを殺して、異母弟の全身をじんましんまみれにしてやりましたの。そしたら大人しくなりましたよ」


レオは絶句した。どうやら本当にこの美しい男の中にはある線引きがされているようだった――戦って憎んで実行に移すのは男の性質で、女は愛し慈しむ性質しか持たないのだ、と。


若いからだろうか? それともあまりに戦場が辛すぎて、夢を見てしまったのだろうか。


「レオ様こそ私をこんなに喋らせて、口封じに殺されるとは思いませんの?」


「子爵家のお前が、公爵家の私をか……?」


「私が理性を持たない化け物だったらどうするのです」


レオの顔を見てアガットは呆れ返った。


「そういう人間はげんにおりますよ。見えないものを信じすぎてはなりません、レオ様。権威やしきたりが実際に壁となって侵入者を拒むわけではありませんわ。猟師はこっそり上がってくるし、あの暗殺者は御身に斬りかかったではありませんか」


レオの顔が屈辱に歪んだ。


「権威が力を持つのはその背後に騎士たちが、軍人や兵士や魔法使い、間諜や暗殺者がいるからですわ。結局のところ、すべてを決めるのは……」


暴力です、とあやうく本音を言いそうになって、


「剣と名誉です」


「なるほど。――一理ある。私は世間知らずだったようだ」


レオの中で目まぐるしく考えがうつろうのが目に見えるようだった。足を組み替えるのさえさまになる男だ。アガットはなんとなくスカートの皺を伸ばした。


「毒と薬の知識はいかほどだ?」


「そのへんの暗殺者には負けませんわ」


アガットは胸を張る。


「軒先に干してあるノシャ草だって使い方次第では毒ですからね」


「……私を殺そうとしていたのか?」


「え? 主君筋のご嫡男を殺したりはしませんよ」


二人はしばらく見つめ合った。やがてレオは大きなため息をついた。


「アガット」


「はい」


「俺はきみを殺さない。害さない。俺は今すぐ飛びかかってきみの首の骨を折り、殺すことができるが、それをしない。きみが妻だからだ」


「……はい」


「俺はきみに対して生ずる夫としての義務を果たす。愛することさえ。今そう決めた」


レオの目の色は徐々に濃く、通常の緑に戻りつつある。


「俺を毒の危険から守れ、アガット。剣と名誉がすべてを取り繕うと信じるのなら、その剣の一振りにきみがなれ、我が妻よ」


レオは明らかな意図を持ってアガットに微笑みかけた。捕らえたドラゴンや虎の牙を丸め飼い馴らし手なづけ、懐柔し篭絡し誑し込み、自分だけの愛獣にしようとする狩人の目――


(――冗談じゃない!)


とアガットの本能が毛を逆立てる。けれど彼女は動くことができないでいた。それほどまでにその目は、レオの優し気なで流麗な昔から支配者側にいた血筋の目は、魅力的だった。レオは魅惑そのものだった。


古くから彼らはこうして他者を操り、愛し、破壊して手足のように使ってきた。それは分かる。どれほど危険かも。


でも、抗うことはできない。


アガットの震える手に、籐椅子のひじ掛けごしにレオは手を伸ばす。少しだけ荒れた、大きな爪のついた温かい手がアガットの冷えた小さな手を握る。水仕事でかさかさに乾いた手が、少し前まで毎日丹念にクリームを塗り込んだ手に包まれる。


本当に愛されていると錯覚しそうになる体温。


アガットは黙り込んだ。それが彼女にできる唯一の抵抗だった。レオは目を潤ませてそんな妻を見つめ続ける。どちらも一歩も引くことはない。


ここが運命の分かれ道だと、互いに自覚していたから。



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