第9話
秋の深まる山の中は紅葉色に染まっている。アガットは足を取られながら山頂へと進む。風は冷たく、日差しは暖かい。汗が滲む額を拭った。
ミゲルが持ってきた衣服のうち、黄色のかわいらしいドレスは一張羅に取っておいて、袖口だけ白い事務服とえんじ色のワンピースを交互に着ていた。今日は前からの事務服の方を着て、とにかく服を破かないように気を付けながら山を登る。
一応、獣道が続いていた。ここを辿れば針葉樹の林に行き着くはずだった。
苔むした岩の表面に滑りつつ、ほとんど四つん這いになって上がりきると、丸い広場のように平たい空間が広がっている。真ん中に一本の木が立っていた――ヤドリギだ。他の木に蔓を巻き尽かせ、その栄養と周囲の日光を奪って成長する木。ヤドリギはすでに枯れたオークの木にとりつき、青々と葉を天に向かって茂らせていた。
少し、根本で休憩させてもらうことにした。
王都から逃げ出した日からひと月が経とうとしていた。レオとの会話も増え、ごく気軽に笑い合えるようになった。今のところアガットは麓の村には降りていない。金銭的な問題は解決したのだが、とうの小銭を持ってきたミゲルが、
「ここがシャヴァネル領の一部だということは皆、知っております。目立つ真似は控えた方がよろしいでしょう。せめて年を越すまでは」
という。
このあたりのことに詳しくないアガットとしては従う他ないし、レオも異存はないようで、
「ではしばらく、お前の持ってくるものを頼りに暮らすとしよう。大昔の塔に閉じ込められた王妃のように」
とけらけら笑ってミゲルと肩を組むのだった。
誰も彼もこの隠れ潜む生活がそう長くは続かないだろうと踏んでいる。もうしばらくして状況が変われば、レオはシャヴァネル公爵の名を名乗り国王に挑むのかもしれない。外国へ亡命するのかもしれない。何かしらの波が起きたとき、アガットはそれを切り抜けられるだろうか。
「さて、」
と呟いて腰を上げた。持ってきたテーブルクロスを広げ、今日はこれにとれるだけ実りを包んで持って帰る予定だ。
ままごとのような生活だが、アガットは楽しかった。夢見ていた新婚生活とはずいぶん違っているけれど。それに、レオがどう思っているかはともかく。
――音が、した。
聞き間違いではなかった。アガットは顔を上げた。金属と金属がぶつかる音だった。
彼女は落ち葉の上を走った。ガサガサと高鳴る足音が、妙に耳につく。つんのめりかけながら前へ進み、広場から少し離れた先に小さな崖があった。下から見上げる、その上にレオがいた。
金髪が日光に映えて輝くよう。剣を抜いた姿は俊敏に見えるが、素人目線だからわからない。
レオと切り結んでいたのは黒髪の男だった。ごく普通の、チュニックとズボン姿の若い農民に見える姿をして、まるで暗殺者には見えない。けれどその手に持った両刃の剣は明らかな殺意をもってレオを襲う。
「あぁっ!」
アガットは悲鳴を両手を口に当てて押し殺した。テーブルクロスを放り投げた。なんとか登れる小道を見つけ、崖の北側からぐるっと回って近づく。
「レオ様!」
か細い声だった、ちっとも夫である人に届きはしない。剣戟の音は大きく、レオが劣勢なことは苦しそうな息の音でわかった。黒髪の男は息を乱してすらいないのだ。
――アガットはレオの道連れで死にたくなかったが、あの頃憧れた男の子が殺されることも望まない。
男たちの決闘の場に細い、小さい、痩せたアガットが青ざめた顔で躍り込んだものだから、彼らの苛立ちは相当なものだったろう。
「――戻れ!!」
とレオは絶叫した。下から見たときは気づかなかったが頬の皮が一部べろんと剥がれて、ひどい横顔だった。
剣と剣が合わさる。二人の周りの空間に金属の粉のにおいが漂う。黒髪の男はアガットに目もくれない。迂闊に近寄ったらレオにとんでもない迷惑をかけることになるのは明白だった。
アガットは身を翻し、高度の高い森の中へ走り込んだ。
――ヤドリギがあった。ということは、あるはずだ。このあたりに。
倒木があったアガットは這いつくばってその下を探した。事務服の袖口が土に汚れ、ボタンが飛んでなくなるのも気にせずに。
「あった」
震える声で自分で自分にそう言って、手当たり次第に丸いきのこをかき集める。
シロキリタケは丸い真珠のように白いきのこで、袋の中で胞子を作る。一つは女の手に収まる程度。てっぺん部分に銀貨ほどの穴が開いており、ちょっとの衝撃でそこから胞子がぶわっと飛んで繁殖するのだ。
アガットはきのこを腕いっぱいに抱えて戦地へ駆け戻った。レオの金髪が見えた、と思った矢先、彼ががくっと体勢を崩すのが見える。黒髪の男が鋭利な刃物を後ろに引いて、刺突の構えを取る。
切っ先はレオの首を狙っていた、ように思われた。アガットの目が確かであればだが。
「レオ!!」
火事場の馬鹿力。
アガットは力いっぱいに真珠のようなきのこを投げつけた、暗殺者に向かって。普段ならそんなに飛ぶはずない飛距離をきのこは飛び、衝撃によって煙幕のような胞子をぶわっと吐き出した。
シロキリタケの胞子は噴水のようにぱっと周囲に飛散し、白い霧のようにあたりを漂う。アガットはいち早く鼻と口を覆ったがそれでも遅く、咳き込んだ。レオの短い悲鳴が聞こえた。目を開けていられなくなるほどの痛みに涙が出る。
土地によってはこの煙が目に入れば盲目になると噂されるほど、シロキリタケの胞子は粘膜を焼く。
「ゥ――ッ」
とレオではない男の声が聞こえ、続いて彼は小さく何語かわからない言葉で悪態をついた。
空を斬る剣の音が聞こえ、アガットは慌てて後ろに下がる。慌てすぎて転んで尻もちを打った。いつも聞いているレオの素振りの音だった。
白い胞子の霧が晴れるとそこに黒髪の男はもういない。アガットはげほげほ咳をしながらレオに近づいたが、そこでもレオは身体を九の字に折り曲げて同じように苦しんでいる。
「アガ……ット、お前、げほっ。これ、何だ? 何した」
「ゲッホッ。きのこっ、の胞子」
「胞子ィ⁉」
結局、その場で二人揃ってしばらく悶える。目からも鼻からも口からも液体が溢れ、額には脂汗、背中まで冷や汗が伝う。
シロキリタケの胞子のいいところは、すぐに風に乗って消えてしまうほど細かく効力も持続しないという点だ。やがて咳は収まった。目はまだ腫れぼったく、鼻水は止まらないけれども。
「……毒か?」
と、レオはぜいぜいしながら言った。さっと腕で隠したが、アガットは見た、口の端からよだれが垂れているのを。
「いえ、効力は強いですが一時的なもので、そこの森から、……ハアッ」
アガットは喉のくぼみが見えるところまで襟をくつろげた。もうお作法にかまっていられなかった。シャツ一枚の姿のレオも同じく第一ボタンをはずし、どっかりと後ろに手をつく。
「助かった。詳しいんだな」
「実家が薬屋で」
レオは頷いた。
アガットが自分の失態を悟るより先に、すでにレオは体勢を立て直していた。剣の切っ先は下を向いて、けれどいつでもアガットへ向くことができる角度。
「実の母親を殺した家の話か?」
「……なんのことでしょう?」
風が吹いた。強い冷たい風だった。
アガットだって聞こうかと思った、それはそうと、レオ様はこんなところで何をしているんです? 獲物を探すなら、もっといい森が下にあるでしょう。こんなわざわざ、人の立ち入らぬ鬱蒼とした森までこなくても。
レオは肩をすくめ、剣を収めた。身軽に立ち上がり、すると肩からポタポタ血が垂れる。彼はアガットに手を差し出した。大きく乾燥した剣ダコのある手。
「来い。いったん戻るぞ」
「いいんですか?」
と聞いたのは、まあ当然のことだろう。アガットはどんな顔をしていたのだろうか、レオは困ったような顔をした。べろんと剥がれた頬の皮が痛々しい。筋肉の一部まで露出してもなお、血筋の恩恵を受けた美貌は麗しい。
「お前は私の妻だからな、夫婦は同じ家に帰るものだ。怪我の手当てもしたい。もう隠さなくていいから治療なりなんなりをしてくれ、早く」
アガットはその手をとって立ち上がった。胸のどこかがすっきりしたような、もやつくようなくすぐったい気持ちだった、そんなことを感じている余裕などないはずなのに。
「……参りましょう」
「ああ」
それでそういうことになった。獣道を下る道すがら、お互いに無言だった。
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