第8話


小鹿といえど四つ足はやはり肉も食いでがあった。だがそれも数日のうちに尽きて、次にレオがとってきたのは大きなマスだった。魚の肉は焼けばほろほろに、煮込めば栄養そのものの味のスープになった。


小さなリスしかとれない日もあったが、兵の中にいた狩猟民族に教わったのだというひき肉団子をレオがアガットに教え、二人で苦労して小さな獣の皮を剝ぎ、包丁と小刀を使った。トントンと単調な音が響く中、レオは老人のように戦場での思い出話をアガットに語り聞かせた。それは存外面白くて、そういえばレオは小論の発表コンテストでも優勝していた、とアガットは思い出した。


――記憶の中の王子様と、目の前の落ちぶれてシャツを着まわしている男は、やっぱり同一人物なのだ。


風に混じる冬の気配が徐々に強くなっていった。事務服の上に羽織ったストールごしにさえ冷気が染みこみ、アガットは毛織物の上着をしぶしぶ着るはめになった。寒さには無敵といっていいものの、重たくてちくちくして乾かないからめったに洗えない、おばあちゃんのひざ掛けみたいな灰色のそれだ。灰色の髪のアガットが着ると、確かに老け込んで見えた。コルセットをつけていない胴体を覆ってくれるのはありがたかったが。


再びガンの肉が食卓を賑わした日。付け合わせのコケモモのソースをかき混ぜながら、レオは麓の村の猟師に出くわしかけた話を始める。


「お姿を見られはしなかったのですか」


「ああ、そこは問題ない。私の索敵は大したものなのだ」


「どなたに言われましたの?」


「ミゲル」


「じゃ、眉唾に伺いますわ」


「言うようになったな、妻よ」


と、いつの間にかこんな冗談も口にできるようになっている。


「これから下の方へは行かないようにする。なに、このあたりはシャヴァネルの領域だから、平民は入ってこないさ」


レオは品よく眉をひそめた。


「以前なら領域を犯した民など撃ち殺してやれたのに。今は正体がばれてはならんからな。不自由なことだ」


アガットは背筋がぞくっとした。彼女は幼い頃、下町に面した薬屋の裏道で、平民の子供と転げ回って遊んだ。彼らのことを人間だと思っている。しかし――レオのような上級貴族にとって、平民は口をきく道具か動物の一種でしかないのだった。


領主である貴族には領地の境界を守る不可侵の権限がある。たとえばこの狩猟小屋はシャヴァネル公爵家の持ち家だから、この家が建つ土地より標高が高い場所へ昇ることはしきたりにより禁じられている。もし禁を犯したところが見つかれば、レオの言う通り平民など殺されても仕方がない、貴族の権威へ挑戦したと見なされるからだ。


迷い込んだ無関係の人間によって居場所がばれることを、レオがさほど警戒していない理由がそこにある。同時に、暗殺者による襲撃も。場所がばれないだろうという推測だけではない、王に最も近しい血筋の男を暗殺などという卑怯な手管で取り除こうとする敵がいるなど、思ってもいないのだった。


――彼はシャヴァネル公爵家の権威を信じている。貴族の名誉を愛している。国王陛下に疎まれる立場になってなお。


「そう心配した顔をするな、アガット。我が家は永遠に安泰だし、見下されるような立場には決してならない。なぜなら私が生きて、今、ここにいるからだ」


レオは緑の目を夏の森の色に潤ませ、にっこりした。家畜の品種改良のように美しい者を何代にもわたって掛け合わせた末の美貌。


「私が、正統な継嗣が生きている限りシャヴァネルは不滅だ。たとえ今の名前が何になっていようとも、記録簿に記された出生が私の永遠の立場を保証する」


自信満々、を行き過ぎて、妄執や妄信といった言葉が似合うほど。現実が見えていないわけでもない。レオはアガットに決して弱味を見せようとしないのだった。それは彼女が女だからなのか、そこまで信用されていないのか。


彼女は微笑んで目を伏せお茶を啜り、返答を避けた。脳裏によみがえるのは、テミア子爵家の初代である父親、つまりアガットの祖父のことをひたすら誇張して讃える父の姿だ。大した血筋でもないくせに、彼は自分が貴族であることに執着していた。


「レオ様、教えていただけますか? レオ様はこの後、どのようにしてシャヴァネル公爵家のお立場を回復なさるおつもりです?」


アガットは慎重に言葉を選んだ。


「私と離婚なさって、元のお血筋に戻るおつもりなのですか」


レオはぽかんとした。


「そんなことはしない。夫が妻を離縁していいのは条件が限られている。子を産めないとき、明らかな不貞があったとき……それさえも女の方が高貴であれば見逃されることさえある。知っているだろう、両親の血筋の正しさこそが子供の正しさを保証するのだから」


「それでは、どのように」


「どうって――ああ、きみは知らないのか。私はまだ公爵の爵位を襲名していない。公爵を名乗ることさえ陛下にお認めいただければ、私が公爵家の血筋であることは自明の理だ。確かに教会はテミア家に婿入りしたならシャヴァネル公爵を名乗る権利はないなどと介入してくるかもしれないが、それは鼻薬でなんとかなる話」


(なんと、まあ……)


アガットは目をつぶった。口元に苦笑が浮かんだ。


「尊い方々は、教会の権威に縋らない権威付けを確立しておられるのですね」


「うん?」


レオはピンとこない様子である。


騎士団は軍の一部であり、独立した勢力である。そのあたりの指揮系統や区分けは曖昧だ、騎士団長と軍の司令官の爵位の差や序列でどちらが場の指揮を取るか決まる。それと同じに貴族には教会法に則らない独自の裁定基準があるようだった。


――その身体に流れる血が唯一の頼りであり、教会記録簿はそれを保証する手段に過ぎないのだ、という。


(だからお義母様は私のことなんて最初から見下してらしたのね)


アガットの母親は平民で、彼女は半分平民だから。


長年の疑問が解けたような気持ちだった。


(まあでも、あの人はもう病気だし。そして私は健康だわ)


アガットは目を開けてにっこりした。レオもつられたように微笑んだ、彼は場の雰囲気を乱さないし、アガットを不愉快にさせたりしないし、アガットを傷つけない。妻として尊重してくれる。生活を送る上でできることをしてくれる。それは本当にありがたい、得難いことだ。格下の貴族令嬢など穴だと思っている上級貴族の子弟もいるのだから。


レオと一緒にここにいられれば、アガットの胸の青い炎はずっと燃えないままでいてくれるだろう。でも。


「レオ様は公爵閣下になられるのですね」


「そのために生まれてきたからな」


レオが百点満点の血筋持つ貴公子であり、アガットが半分平民の子爵令嬢である以上、いつか必ず破綻は訪れる。


アガットはそれを確信した。


――ミゲルが知らせを持ち急いで山を登ってきたのは、その日の夕方だった。


シャヴァネル公爵家の廃絶。名誉の剥奪。先祖伝来の墓所の放棄。そして新たな公爵位の設立と、それを賜った勇者ジュリアンが浮いたシャヴァネル公爵家の名誉と領地を継承するという報告を持って。


最悪の報告を聞いたレオはしばし無言で立ち尽くし、たまたま手にしていた陶器のカップを力任せに砕き割った。



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