第7話



コルセットの留め金が壊れてしまった。


すでに秋の気配も間近で、恋に狂った鹿の声がしじまを裂いて聞こえる夜。ランプの灯りの横でアガットは身繕いをして、というかこの山間の家ではそのくらいしか夜にできることがなかったのだが、その途端であった。――困った。さすがに下着をミゲルに買ってきてくれと頼むのは気が引ける。服なら三枚ももらったのだが。


ミゲルはあれから三度ここを訪れて、色々と置いていってくれた。小麦粉の袋とイーストの小瓶が来たときは嬉しかった。粥にする大麦の袋も。それから医薬品の種類と数が増え、酢の小瓶、いくつかの種類の酒、砂糖の袋が追加された。清潔なガラスの瓶が何本か、なんとか割れずに届き、これで冬に備えて保存食が作れるようになった。


今日は松ぼっくりでジャムを煮た。レオが撃ち落とした鴨はおいしかった。


「犬がいるといいんだが。雪山になればミゲルも登ってきづらくなる。食糧をもう少し貯蔵しておきたい」


とレオは難しい顔で考えこんだ。かたわらに積まれた図面や書籍の山は大きくなるばかり。


そのレオの前に、明日からコルセットなしで出ていかなくてはならない。


アガットはどうにか留め金の機嫌を直せないか努力してみたが、縫い目ではなく金具自体がイカれてしまったのだからお手上げだ。念のため身体に当ててみると、衣服の生地を突き破りそうなほど壊れた金具が突出するし、肋骨の隙間から肺に刺さるよう。


仕方がない。アガットは諦めて寝ることにした。簡易寝台は思った以上に快適だったが、なかなか眠気は訪れなかった。


さて翌朝、起き上がって身を包むコルセットをつけない衣服の感覚は奇妙だった。袖のないワンピース型の下着の上に、ウエストがくびれたドレスの縫い付けが直接あたる感じがする。身長が小さい瘦せ型のおかげでなんとかウエストは入ったが、胸がもう少し大きければ困ったことになっていただろう。アガットは生まれて初めて、肋骨の浮いた子供のような体型に感謝した。……そうね、胸がないんだから潰す必要もなくて、むしろコルセットがない方が楽かもしれない。


念のため、えんじ色の服の上に灰色のストールを羽織る。三つ編みを頭に巻き付ける。髪の色が灰色だから、まるで消えかけの火みたいだ。灰の方が多いくらいの。


「おはようございます」


とアガットは挨拶する。


「おはよう!」


と、溌剌としたレオの声が表から返ってくる。素振りの音はもう慣れっこだ。


朝食の支度のため、小麦粉をこね始めた。発酵時間が少なくて済む素朴な丸パンを整形し、スープを準備する。取っておいた鴨の骨で出汁を取った汁の中に、小さな野ニンジンを刻んだのを入れて煮る。膨らんだパン生地を竈の中に渡した網の上に並べる。


昨日、レオは帰り際に小さなころころした青い色の卵を渡してきて、


「野良のサラマンダーの卵だ。どうかな、食べられるか?」


と言った。


サラマンダーは炎の精霊の一種だから、冬でも火の加護がある卵を産む。冬山で遭難者などがこれを食べて生き延びたという話も聞くが、はたして味はどうだろう。


アガットは熱したフライパンの上にクレソンを丸く、ふたつぶん並べ、その中央に卵を割り入れた。


「あらっ」


黄身の色が真っ赤だった。ぱらぱらと塩をふりかけ、アガットは首を傾げながら料理を終えた。


サラマンダーの目玉焼きの味は、あえて言わないでおこう。


朝食がすむとレオはどこかに出かけて行った。狩りに行くと言っていた。


「今日は大物を狙ってみようと思う。鹿がとれたらいいんだが」


と笑っていた。


いくら魔法があるとはいえ、ひとりで鹿がとれるものだろうか。シャヴァネル家の派閥に残った者、あるいは支援者と森の中で会合でもするのかもしれない。――ああ、いらない好奇心を捨てなければ。


アガットは川で衣服を踏み洗いし、狩猟小屋の屋根から木に渡らせたロープに干し、家の中と外を掃除して、塵を出す。外に出て野草を集め、大き目のテーブルクロスを引いたところへ並べて下処理をする。ついでに薬草もいくらか採取しておく。


秋も深まる中、小鳥だの野鼠だのも太るのに大忙しだ。同じくアガットも額に汗して働いた。働いている間は気が紛れていい。


コルセットがないのも忘れ、暑くなったのでストールも家の中に置いてきた。夢中になって働いていると、ふと気づくとすぐそこにレオがいた。木にもたれてアガットの姿を観察している。


「手早いな。それに熱心だ」


「おかえりなさいませ」


アガットはついちらりとレオの腰を見てしまった。手ぶらである。ああ、と彼は苦笑いした。


「魔法の調子がよくなくて。少し休んだらもう一度出るよ」


「射撃魔法は専用の道具が必要になるほど高度な魔法だと聞いております。素手なのに、レオ様はよくとってきてくださっておりますわ」


アガットがにっこりしたのは保身ばかりではない、実際に道具――魔法銃がないのを不審に思っていた。このくらいなら聞いてもいいかと思ったのだった。


レオはからから笑って天を仰ぐ。


「しまったなあ。きみは策士で頭がいい。そんなことまで知っているなんて。――その通り、魔法銃がないと俺の魔法はそこまで飛ばないんだ」


「まあ」


「知ってるかい?」


レオの目がぱっと輝いた。


アガットはノシャ草のすじとりをしながら、下草の上によいしょと座ったレオの金色の前髪をつくづく眺める。ほんとうに黄金のような色だこと。ちょっぴり伸びてきて、もさもさしてるけど。


「通常、銃は小規模爆発魔法のかかった爪くらいの大きさの魔石が銃身に埋め込まれて、それで弾を打ち出すんだ。ところが俺の魔法銃は少し違う。大きさはちょうど俺の腕の長さに合わせて作られている。重さは通常の銃の二倍くらいだ。魔石も大きい。山脈の向こうの国から特別に輸入された白銀の石で、男の拳ほどもある」


レオは拳をつくり、それを反対の手のひらに打ち付ける。パシン、と小気味いい音がした。


アガットが手を止めずにうんうん聞いているのをどう思ったか、レオは少し早口になった。


「私があれを担いで陣頭に姿を表せば、歓喜せぬ兵はいなかった。銃身に金で刻まれたシャヴァネルの大鷲はそれは美しかったことだろう!」


前から感じていたことだったが、レオの一人称は俺と私の間を忙しなく行き来する。速く大人になりすぎた、レオの忙しないどころではない人生の象徴のようだった。


「それは今、どこにありますの」


「わからない」


レオの眉がへにゃりと下がった。


「公爵家のどこかにはあるのだと、思う。屋敷は封鎖されたそうだが、中のものは接収されたのか。泥棒でも入っていたら一巻の終わりだ。父祖伝来の宝物が……いや、よそう」


レオは無理をして笑顔を作った。


「私の子飼いの者たちはどうなったことやら。今は一刻も早く情報がほしい」


その心配そうなまなざしは、嘘ではなさそうだった。そうだろう。そうして人心を掌握しなければ、公爵家のお坊ちゃんが兵を率いることなどできまい。


さて、とレオは立ち上がった。


「銃がなくとも狩りくらいできる。早く行かなくてはきみに愛想を尽かされてしまうかもしれないからな。鳥くらいはとってこよう」


「お気をつけて。いってらっしゃいまし」


アガットも立ち上がり、礼をして彼を見送った。


――その日の食卓には小鹿の肉が並んだ。生まれたはいいが何かに躓いて死んでしまった新鮮な死肉を、運よく見つけたのだとレオは笑った。

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