第6話



食事もとらず服も乾かさずに寝入ったのだから、当たり前のことである。


「申し訳ありません……」


と、げほげほ言う喉の奥からアガットは言ったけれども、


「気にするでない。ミゲルが悪い。私も、話し込んでしまって……きみのことを思い出さなかった。すまない」


こちらが慌てるほどの恐縮ぶりで、レオの方が辛そうでさえあった。


不幸中の幸いというべきか、ミゲルはいくらかの食糧や衣類、医薬品、それから簡易寝台を持ってきてくれていた。


小さな鉄鍋は薬を煮出す用のものだったが、レオはそれで粥を作った。干し肉と干し貝と、それから少々というには行き過ぎた量の塩。


組み立て式の寝台は速やかに組み立てられ、厚手の毛布が敷かれてほどよい硬さの寝場所になった。発熱したアガットはレオに支えられながらよろよろとそこに横たわる。


「食べらるか。ん?」


と聞かれ、まるで幼子のように木の匙から食べさせてもらう。アガットは恐縮したが、たちの悪い風邪のせいで熱は上がり通しに上がり続け、手が震えてどうしようもなかったのだった。


「食べられるな。よし。ならば回復できるだろう」


「ありが、」


げほげほ咳き込む。


「ああ、無理はするな。喋らなくていい」


と、レオは兄のようにアガットの世話を焼いた。彼には何人かの異母きょうだいがいたはずだが、ともに暮らしていたりもしたのだろうか。


丸薬を飲み、粥を食べてアガットは本格的に寝付いた。


レオの世話は大したものだった。てきぱきとアガットの汗を拭き、なんなら着替えまでさせたし毛布も換えた。


アガットが固辞しようとすると、


「戦場では負傷兵の傷口からうじを取り除きもした。私に任せておけ」


と胸を張る。


「女は軽いな。やりやすくていい」


とまで言うのだから、もはや置物のように、世話され慣れた馬のようにしているしかないアガットだった。


ようやく起き上がれるようになったのは三日目のことだった。


濡らした布で身体を拭き、さっぱりした身体で清潔な服に身を包み、アガットはようやく人心地ついた。えんじ色の長袖のワンピースドレス、裾は踝までを隠す清純な婦人用である。楽なサンダルに履き替え、髪も整えた。川で洗いたいところだが、病み上がりにそれはやめておくべきだろう。


居間まで出ると、そこは様変わりしていた。具体的にはローテーブルの上に何かの図面やら巻物、本がうず高く積み上げられ、床にまで散らばる。脱いだままの革靴は一応油は塗ったのだろうが籐椅子の下に転がっていて、同じく脱ぎっぱなしの高価な上着は椅子の背もたれで皺が寄っていた。


アガットは眉を寄せた。戸口の柱に寄りかかるとひんやり冷たかったので、また熱でも出たのかもしれない。竈のところは無事だったのが幸い、彼女はフェンネルのお茶を淹れる準備をすると、さっきから素振りの音がする表へ回った。


「レオ様」


と声をかけても彼は集中しているのか目を向けない。アガットからは背中だけが見える。


惚れ惚れするような筋肉の盛り上がる背中だった。相応に鍛えられ、上下に剣が降られるたびに深い陰影が落ちる。後ろを刈り上げられた金髪が汗で束になり、踊るようだ。


「レオ様!」


「ん? アガットか。もういいのか?」


「はい、すっかり。ありがとうございました。お手を煩わせましたこと、恥ずかしゅうございます」


礼をするアガットに、これまでのレオだったら軽く頷いて素振りに戻っただろう。彼は公爵家の子息であり、アガットは子爵家の令嬢にすぎないのだから。だが彼は思い直してアガットに向き直った。


「ああ。熱がぶり返さないよう気を付けなさい。ところで――もう働けるか?」


「はい。すぐにでも」


「それじゃ、食事を頼むよ。三日間麦粥ばかりで飽きてしまった」


あはは、と彼は腹を抑え明るく笑った。アガットは頭を下げる。


「かしこまりました。なんとか工夫いたしましょう」


「ああ。明日になったらなにかとってくるよ。鳥か、魚でも」


アガットは竈の前に引き返した。裏の水瓶にはたっぷり水が入っている。桶と柄杓に修理されたあとがあった。


時刻はすでに夕刻だった。朝から起き上がれないことはなかったのだが、今までゆっくりさせてもらってよかった。名誉挽回のためアガットは腕まくりした。


まず、保存食の確認。干し肉はまだ二束、干し貝も一束半ある。塩の小袋一袋。期待した砂糖はなかったが、はちみつの小瓶があった。油の瓶。強い酒の瓶。いずれも厳重に布でくるまれている。干し野菜と干しきのこ。――山の中で完全に自給自足などという状況にはならなさそうで、アガットはほっとした。


ともあれ、今日の分は野草を使うことにする。新鮮なものの方が何よりおいしいから。


ボウルを片手に表に出た。レオの風切る風体はかっこいいが、それはそれとして仕事は仕事である。彼の方も視界をよぎる妻に目を向けることもない。


河原にクレソンが自生しているのを見ていた。アガットは跪いてボウルいっぱいに摘んだ。戻りがてら、ところどころ広葉樹に混じる松の木にまつぼっくりがなっているのを見つけて胸が高鳴った。暇があったら、そして砂糖があればジャムができる。


ヤブガラシは花が咲き、葉は全体に固くなりつつあった。これも新芽や若葉なら食べられるのだが、今は諦めるしかなさそうだ。


家の前まで戻り、相変わらずのぶおんぶおん言う音を聞きながらコケモモを摘む。その根元に生えるタンポポの葉を数枚ちぎりとった。


野草をよく洗い、よけておく。雑穀と麦を洗い、フライパンに油を敷き、炒める。干し肉を並べ、水を入れる。


沸騰した水がなくなるまでの間にローテーブルの上やら籐椅子をざっと片付けてしまう。本や巻物をいったん壁付けの棚の上へ、と思ったらそこにはミゲルが持ち込んだらしいレオ用の短剣やその吊り帯、金細工のブローチなどが無造作に転がしてある。アガットは諦めて部屋の隅に書物を積み上げた。


フライパンから湯気が出て、雑穀が炊きあがった。レオの口にあうよう塩を多めにふりかけ、柔らかくなった干し肉をいったん取り出してちぎる。


平皿にほかほかと湯気の立つ炒めた味付け雑穀を盛り付け、横に青々しい野草をサラダに見立てて盛る。棚にしまった香草の小瓶から粉唐辛子を取り出し、油、塩と混ぜる。酢が欲しいところだったが仕方ない。


「できましたよ」


と表に声をかけるとレオはすぐにやってきた。心なしかはずんだ足取りである。部屋の中がきれいになっていることにも気づかない様子だった、仕方ない、大家のご嫡男なのだもの。戦場へいくまでボタンひとつ自分でとめたことのなかったご身分だ。


籐椅子に腰かけてとった夕食は、アガットには久しぶりに味のついたものに感じられた。レオはときどき麦粥に味付けを忘れたのである。


「ん。うまい。口にあう」


黙々と木の匙を口に運ぶところを見るに、レオの口にもあったようだ。


「きみはすごいな。少ない材料だったろうによく作ってくれる」


と、使用人が気を利かせたのを褒めるように言うのだった。


「家族の食事も取り仕切っておりましたもの。継母――義理の母が寝付いてからは」


「テミア子爵夫人はご快癒なされたのだろうか?」


「いいえ。――最後に会いましたのはひと月も前になりますが、骨が軋んで熱が出て、つらそうで……見ていてこちらも辛くなりました」


「そうか。今頃は外国で、水もあわないだろうに心配だ」


「その通りです。とにかくみんな、無事でいてくれれば」


レオは早くも食べ終わった。残念ながらおかわり分はない。明日はもっとたくさん作ろう、とアガットは決心する。


「ダキネラル人は毒殺好きだ」


やがてぽつりとレオは言った。


「宮廷人は怪しい星占術や錬金術師を使うし、街の薬屋でさえしかるべき頼み方をすれば毒が出てくるという。ご母堂にその可能性はなかったのか」


「まさか」


アガットは口元に手を当てて微笑んだ。


「ありえませんわ。テミアは小さな家ですし、シャヴァネル公爵家に臣従しておりましたが腹心というわけではございませんでした。そもそも誰も継母を殺す意義がありませんもの」


「そうか。それでは、気の毒なことだ。……お父上は書記だったか」


「はい。公爵様の財務のお手伝いをさせていただいておりました」


「それでは父上について外に出向くことも多かったろう。兄弟は?」


「まだ幼い弟妹がございます。継母が生みましたので」


「きみが戦争の中、ご家庭を支えていたのだな」


レオはふいに目を潤ませる。


「なんと……立派なことだろう。ご家族はどれほど助かり、心休まっただろうな。まるで芝居の演目になるような忠節ぶりだ。きみが男なら部下にほしかったな」


なんだろう。どこか……どこか……。


(しらじらしい)


とアガットは思った。病気の間、彼はなんのためらいも見せずにアガットの胸元をはだけ、乳房の下の汗を拭うことさえしてくれた。さすがに下半身は自分でやっても羞恥心はあった。そうして強制的に皮膚の接触があったからだろうか。


(嘘ではないけれど、本人も本気で言っていると信じているけれど、心底からの本心じゃない)


皮肉げなところなど何一つない、本当に心底驚嘆したといわんばかりの初々しい表情。胸に当てられた大きな長方形の爪の乗った手。


だが学院図書館の二階の窓から眺めたレオの笑顔は、もっと溌剌としていた。魔術剣技の優勝旗を掲げる彼の誇らしげな様子は本当に嬉しそうで、高等部の少女たちの母性を刺激した。今の彼に似ているのは、そう――凱旋将軍となったときの冷静な、厳めしさを装うには年齢の足りない若々しい雄姿。あれに近い。


(やっぱりこの方、貴公子なだけあるんだわ)


仮面が本性だと本人さえ思い込んでいる。


アガットはつつましやかににっこりした。終わった食器を片付ける作業にかかりながら、


「お褒めいただけるほどのことじゃありませんわ。私しかやれる人がいなかったんですもの。それだけですの」


レオの微笑みときたら。アガットが二十六歳ではなかったらあっという間に恋に落ちていたところだ。


彼女は恋のひとつも知らぬことはレオに憧れた十六歳の学院生徒の頃から変わっていなかったけれど、幸いにして下級貴族として上級貴族の屋敷で働き、汚いものをたくさん見た。地位と名誉を笠に着てメイドに迫る管財人や、うっかり口にした一言が原因で鞭打たれた小間使い、足を折るはめになった小姓。経験が短慮を諫めてくれる。自惚れた行動を取れば、のちのちそれが自分にどう跳ね返ってくることか。


慎重になることだ。アガットは自分で自分を律しようと頑張る。自分の中に青い炎があることを知っている。今はちっとも燃えていない、熾火の段階だ。けれどしかるべき状況に放り込まれたら、瞬く間に燃え広がってアガット自身を焼き尽くしてしまうだろう。


長生きしたいなら、もっと控え目になることだ。


レオの優しさと高貴さにほだされすぎてはならない。



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