第5話




ぱしゃんと水が跳ねた。アガットは淵のところの冷たい水を避けて、川のごく浅いところで髪と身体を洗った。石鹸も何もないが、今日はいい天気なので服も身体もすぐ乾くだろうことが救いだった。


アガットがぶるっと身震いしたのは、雪解け水の混じった川が冷たいばかりではない。


――もしも今ここで誰かに襲われたら、抵抗もできずに死ぬのだろうな、と思っただけで。


アガットはざぶんと水に潜った。肌を刺す冷たさに頭の芯が現れていくよう。


(用心するに越したことはないわ。私が死んだらレオ様の素性が教会記録簿から明らかになって、そして暗殺者が差し向けられるのよ。用心するの。用心するのよ、アガット。決して気を抜かないで)


水の中で流れに逆らいながら、アガットは自分に言い聞かせる。


(私がシャヴァネル家の貴公子の人生に関わらせていただけるなんて。素晴らしいめぐり合わせじゃないの。できるだけのことをして差し上げたいわ)


息が続かなくなり、アガットは水面に上がった。先に叩き洗いをしておいた自分の服は、川べりの大きな岩に広げて干してある。コルセットも一緒に。


(でも――誰かの巻き添えで死ぬのはいや。たとえレオ様の巻き添えだって、まっぴらごめんだわ)


成り行き上選ばれた名ばかりの妻であることは自覚している。その地位に見合うだけの働きはしたい。でも、死にたくない。命がけで貴公子を守れば死後人に褒めてもらえるかもしれないが、名前が残ったって名誉がもらえたって、死んでしまってはしょうがない。


(私は普通に生きていきたいだけ)


ただそれだけだから。


アガットは決意を新たに河原に上がると、灰色の髪から水気を絞った。青味がかった黒が薄くなったような灰色は、水に濡れると一層色濃く、黒っぽく見える。


髪をまとめ上げてしまうと狩猟小屋に戻った。濡れた服とコルセットももちろん回収して。丸裸の前を隠しただけだから、羞恥心にカッカと頬が赤かった。


レオとは今朝に取り決めをした。今日のところは川を上流に辿って山頂の方を見てくると彼は言った。


「お昼には戻ってこよう。そうだな、太陽があの山の真上にくる頃。きっとそのくらいには服も乾いているだろう? 午後に私が川に入るから、きみは食事の支度をしてくれるといい」


とレオは言い、もっともだとアガットも頷いたのだった。女の自分に先に入浴の権利を譲ってくれたのが嬉しかったし、ついでにしてくるのだろう食糧の調達も楽しみだった。まだ暮らし始めて幾日も経っていないのに、レオはすっかり頼れる男だった。身分を思えば驚くほどの生活能力だった。それが戦場で磨かれたものだと思えば悲しいやら嬉しいやら。


アガットはなんの警戒もせずに狩猟小屋の扉を開いた。外された閂がかたわらでごとんと音を立て、少しずれた。


居間には人がいた。彼は振り返った。


「きゃ……!!」


とアガットは悲鳴を上げそこね、バタン! と扉を閉じる。家の中で閂が床に転がる重たい音がした。


「きゃ、きゃああああああ……!」


と、尻すぼみになる声のまま、へなへなしゃがみ込んで身体を隠す。素っ裸である。かろうじて胴体部分は腕にかけた服で隠れていた、と、思いたい。


扉の向こうから、レオではない声がした。


「む。失礼を。ご婦人が……そのような恰好で。自分は裏手に回りますゆえ、入ってこられよ」


と言ったきり、のしのしと家の中を突っ切る足音。


竈の横の通用口から、水瓶が置いてある家の裏にその人は回ったようだった。それきり、何の音もしなくなる。


アガットは半分泣きになりながら家の中に飛び込んだ。レオでさえ両手で持ち上げなければならない閂を、腰だめに無理やり持ち上げて設置する。もはや着心地などかまっていられず、濡れたままの服を身に着ける。その間、目は通用口から離さない。


――はあはあはあ。


アガットは肩で息をする。喉が引き攣れて痙攣未満の震えが止まらない。


(み、見られ……)


がたがた震えながら通用口へ。戸の向こうに人の気配がするか、しないかさえわからない。ひとつ確かなのは、ここの戸には鍵がないということだ。


最初のパニックが過ぎると、アガットはがたがた震えながら通用口を凝視する。その場から動けなくなってしまった。


「――だ、誰。入ってくる、つもり?」


礼儀も何もあったものではなかった。


戸の向こうから、低い、ごろごろいうようなダミ声で返答がかかる。


「テミア子爵令嬢でいらっしゃいますね。大変な失礼を致しました」


はあああ。かくんと膝が折れそうになる。アガットはごわついた服の不快感に耐えつつ、ええ、と声を上げた。ここで安堵して黙り込んでしまったらどうなることか。


「そう。そうです! アガット・ド・ブルーニ・テミア」


心臓がばくばくと暴走をはじめた。アガットは必死に息を吸い込む。


「申し訳ございません。混乱させてしまいましたね。自分はミゲルと申します。ミゲル・ディ・バラスコ。シャヴァネル公爵家に、いえレオ様にお仕えしております従僕です。主人を追ってまいったのところ、こちらを見つけたため上がらせていただきました。人の気配がなかったもので……。こうなるとは思いもよりませんでした。ご婦人に恥をかかせてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」


アガットはなんとか落ち着いた声を取り戻そうと努力した。湿った服の上から太腿を青痣になるまでつねって、意志を総動員して息を落ち着けた。


膝がとうとう落ちて、竈の熾火の前にどさりと崩れ落ちる。真っ赤に燃える熾火の色が目の端に映る。


「シャヴァネル派の方なんですね……?」


ようやく出てきた声は情けなくか細い。


「はい、そうでございますよ。――ところで、閣下はいずこですか? 道中もお会いしませんでしたので、心配しております」


というのはどう聞いても紳士らしい抑えた声で、少なくとも今すぐ戸を破られる恐れはなさそうだった。


アガットは胸に手を当てながら声を絞り出した。


「山頂の方へ、お上りになると……今日は川魚をとってみるのだと、今朝方おっしゃいました」


「なるほど。上でしたか。これは盲点でした。私は下から登山してきたもので」


おどけたような声である。男が図らずも女の裸を目にしたら当然声に滲ませるような色、すなわち嘲りやからかいや、知っているぞと念押ししたり、人に言いふらすことをにおわせたりするような色がまったくなかった。


アガットはだんだん身体から力が抜けるのがわかった。


「それでは、これより私は主人を探しにまいりますれば。重ねて謝罪申し上げる、レディ・アガット。お騒がせして面目なく思います」


そうして重量感のある足音が、再びのしのしと家の周りを大回りに回り、アガットはその人が立ち去ったのを知った。


しばらく動くことはできなかった。けれど午前中を無駄にすることはできず、朝食のコケモモを入れたボウルを洗ったり、落ち着くためにフェンネルのお茶を淹れたりした。


コルセットがぎちぎちと胴を締め上げ、濡れた衣服が乾いていくに従って皮脂のいやなにおいさえ感じるようだった。不快さはお茶ではかき消せない。


アガットは裏庭に回り、水瓶にもたれて日光を浴びた。これでなんとか乾いてくれればいいのだが。手に持ったカップが何度もお腹にぶつかった。


知らない男が、いくら夫となった人の配下か友人だとしても、また戻ってくるかもしれない状況で再び裸になることはできなかったし、自分用の部屋だと言われた何もない小部屋は日当たりが悪い。アガットはじっとすべてを我慢した。


少し太陽が動いたあたりで、男二人の話し声がする。気の置けない、楽しそうな笑い声が混じっていた。


河原へ向かう道のちょうど反対側、山頂へ上る細く急峻な道を進んでいるようだ。声でレオとミゲルだろうと分かった。アガットは家の中へ取って返し、閂を外して二人が入れるようにしてやった。だがまだ顔を合わせる勇気はないので、裏に引き返す。


やがてぼそぼそと低い声の相談が居間のほうから聞こえ、足音がこっちにやってくる。


「あー、――アガット? そこにいるのか?」


気まずそうなしょんぼりしたレオの声に、アガットは顔を上げた。


「すまない。きみには負担をかけてばかりだな。ミゲルにはよく言っておく。我々は軍隊上がりだからどうにも無骨者で。部下がきみの名誉を損なったこと、帝国騎士として心から詫びよう。申し訳ない――」


身分の高い方からの謝罪を受け付けないという選択はない。アガットは裏返った声で、


「いいえ。気に――しておりません」


と返したが、水瓶の影に隠れて言うにはなんとも説得力がない。レオは見えていないだろうに、眉が下がるのが見えるようだった。


「謝罪もいただきました。不用意に中に入った私も悪いのですから」


それに、誰もいないと思っても素っ裸で歩いた女が本当に少しも悪くないわけはない、と心の中で付け加えた。


「本当にごめんよ。私とミゲルは外で少し話をするけれど、そんなに遠くには行かない。戸口は閉めておくから。好きなときに自分の部屋に戻ってくれ」


「はい……」


と、足音が遠ざかっていった。


アガットは座り込んだ。服は日光と体温で徐々に乾きつつあった。はあ、とため息ひとつ。いくらなんでも思い描いた結婚生活と違いすぎる。


この事務服は古着で手に入れたので袖口がほつれたりボタンがとれたりしやすかった。真っ黒に近い焦げ茶色で、スカートの裾と袖口と襟だけが白い。分厚い生地はのりを利かせるとぱりっとする。アガットには少し大きかった。その分スカートの裾が貴婦人のそれのように足首まであるところを気に入っていて、乾いた泥を落としてもしみが残ったのが残念だった。


ぽかぽかする陽だまりに座り込んでいると、だんだん気持ちが落ち着いてきた。


アガットはこっそり家の中に戻った。閂がかけられないオークの扉に張り付いて、外の気配を伺う。二人は言葉通りさほど遠くに行っていないようだった。おそらく、ここでした方がいい話なのだろう。


扉を通じてレオとミゲルの声が漏れ聞こえた。


「……それでは、国王陛下はシャヴァネルの残党狩りを命じなかったと?」


「はい。それはもう、不気味なまでのお優しさで。王家への恭順を示さずシャヴァネルへの忠誠を主張した氏族でさえ、許されております」


「妙だな」


「妙です。宮中から何人かの使用人が暇乞いをしたとの報告も。あの薬屋も消えました」


声は低く、打てば響くように息が揃っている。アガットは扉の脇、居間の壁にもたれて座った。もしも私がどこかの間諜だったら筒抜けだけど、いいのかしら。


あるいはその脇の甘さが巡り巡って、アガットに公爵夫人の称号を授けてくれたのかもしれなかった。


「母上は」


「ご無事です。疎開の名目の元、別荘にて大人しくされていらしたことが功を奏したのでしょう」


「ならばいい」


安堵した声だった。


「我が家はどうなっている」


「閉鎖されたままです。使用人たちは解雇されました。……下級貴族たちには捕らえられた者もおりますが、大半が釈放されております」


「そうか」


しばし間を置いて、


「アガットの家族の安否はわかるか」


まあ。アガットは目を見開いた。レオが本気でそのことを気にかけてくれているとは思っていなかったのだった。てっきり上級貴族の処世術の一環かと……。


「いいえ。調べますか」


「頼む。――部下の所在を把握し、できるだけ逃亡を助けよ。号令の下すぐにでも動けるようにと。それから……」


そこから話はアガットには手に余る内容に入ってしまい、彼女は音を立てないように自室に下がった。


衣服の不快さ、なんだか寒気がすること、髪の毛の重さに気を取られながらアガットはひとり、考える。


(レオ様に縋って生きるのはあまりに危険すぎる。たとえそれが教会や世間の言う妻の通常の生き方なのだとしても)


腰まである青黒い影を持った灰色の髪を手で梳いた。


(国の陰謀だとか、シャヴァネル家再興のための戦いだとか。そんな中で役立てる女ではないわ、私は。どこかで逃げなくては。どこかで解放していただかなくては……)


アガットは髪がパサパサに乾くまでそうしていた。


(どうしよう。どうしたらいい?)


やがて日が暮れて、主従は家の中に入ってくる。


同じような話し合いが居間の籐椅子の上で一晩中続けられ、アガットはそれを聞くうちにとろとろと眠ってしまった。眠りは深く、この家に来てからはじめてぐっすり眠れたといっていい。


目が覚めると風邪を引いていた。


「アガット? おはよう。開けてもいいか。ミゲルは早朝に出発したよ、彼にやってもらいたいことがあ――どうしたの」


レオは呆然と立ちすくむ。アガットは壁の隅でそちらを見上げ、力なく手を振った。ひどい咳が漏れた。

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