第4話



人生は驚きの連続だ、驚いているうちに過ぎると言っていたのは誰だったか。


夏の終わりの風は火照った首筋に心地よい。彼女は額から落ちてきた汗をぬぐった。


狩猟小屋の裏には枯れた井戸があり、もう水は期待できないが桶や柄杓が手に入った。まだ壊れていない水瓶もあったので、今日のアガットの仕事は取り急ぎそれをきれいにし、飲み水を貯めることだった。


何年も家の中の仕事しかしていなかった腰が、腕が、びきびき音をたてている。コルセットが苦しく、けれど淑女たるもの外すわけにもいかないので四苦八苦していた。


小屋から下ったところにある小川はささやかだが清潔で、水の中に魚影も見え隠れする。アガットは一抱えもある桶に水をたっぷり汲むと、荒縄を使って背中に担ぎ上げ、ひとまずの家までの坂道を登り始めた。


王都から逃げ出した夜から二夜がたっていた。


肉体労働はいい。その間、頭を働かせることができるから。アガットは自分なりに今の状況を整理してみる。落ち着いている、とは言い難いが、少なくとも取り乱してはいない。


掛け声とともに、最後の難所、ぼろぼろになった倒木を乗り越える。中身が空洞になるくらい朽ちているものだから、そのうち焚き付けにでも使おう。


当面、心配しなければいけないのは食糧のことだった。二人は文無しだったのだ。麓に村はあっても、そもそも顔が知られてはいけないからレオは買い物にいけない。


正確にはレオの上着のポケットに何枚かの金貨があったのだが、


「庶民は金貨なんて見たことがない者も多いですもの。使えませんよ」


「なんだと」


ということが発覚したのだった。


「戦場では物売りもいましたでしょう。交渉なさったりしなかったんですか?」


「そういうのは侍従がやってくれたので、私は関与しなかったな。あれがほしい、というと買ってきてくれるのだ」


などというやり取りもあって、アガットとしてはちょっぴりダキネラル帝国軍への敬意が目減りする事態となった。この口ぶりではきっと値切りもしていないどころか、高貴な血筋の権威を示すため、色を付けて買い取っていそうだった。


アガットはテミア子爵家の令嬢だったが、育ちでいえば庶民みたいなものである。学院には通わせてもらっても、社交界デビューしたわけではない。継母に代って家計を任され、毎日のように値上がりしていく必需品と倹約に頭を悩ませてきた。下級貴族なんてそんなものだ。


人が――レオが思っているほど馬鹿ではないし、二十六歳になるまでそれなりに世間に揉まれてきたと自負している。


結婚についても、貴族というものはこういうことだとわかっているつもりだ。突然、娘が母親から引き離され見知らぬ男と同居することを強要される。そこからゆっくり、互いに歩み寄って婚家に根付いていく……。


「ここは婚家というほど婚家らしくはないけれど、でも、いいところだわ」


と、アガットは口に出して言ってみた。彼女の身分では手に入れることは難しいような籐椅子に座ることできて、竈には煙突までついている。長い間放置されてきたのに煙突は詰まっていなかった。煙の吐き出し口に金網がついていて、小鳥が巣を作ったり小動物が侵入することを防いでいたのだった。


狩猟小屋は小さく、粗末だったが、時間をかけて丁寧につくられたのがわかる頑丈だった。


アガットは小さく笑った。ここはまるで彼女の夢を体現したかのような家なのだと、たった今気づいたから。


(いつか離婚するとき、レオ様は法律の通りにしてくださるかしら?――年金と住む家と、侍女はいてもいなくてもいいけど、小さな畑くらいつけていただけたら生きていける)


毎月入ってくる年金を頼りに生活するのは、存外悪くなさそうだ。そのとき王都がどうなっているか――はたまた、テミア家が国王陛下に許されているのかいないのか、家族がどうなっているか、にもよるだろうが。


アガットは桶の中身を水瓶にあけた。これで瓶は満杯になり、料理にも飲み水にも十分に使える。よし、と腰に手を当てたところで、


「アガット? どこにいる?」


と、声とともにレオの足音がした。相変わらず鋲が木の床にこすれて音が出るのだった。


「裏です。お帰りなさいまし」


とアガットが竈の横の通用口から顔を出すと、レオは自慢げに右手を突き出す。


「まあ」


彼の手に首を捕まえられているのは、一羽のりっぱなガンだった。食いだめていたらしく太っている。この二日というものコケモモしか食べていなかったから、アガットはすっかり躍り上がった。


「素晴らしいですわ、閣下!」


と、思わず呼び方が昔に戻るくらい。


「弓も銃もないというのに、よくお取りになりましたね。――ああ、お得意の魔法でしょうか?」


「ああ。私の射撃魔法は狙いを間違えさえしなければ百発百中なのだ。正確さにかけては隊でも右に出る者はいなかった」


と、レオは得意そうに水瓶のそばまで寄ってきた。今にもつらつらと狩りの様子を並べ立てそうである。


「さばくのは私がやろう。あとは好きにするがよい」


「はい、お任せくださいまし。どんな調理がお好みですか?」


ううん、とレオは考えこんだ。すぐに顔を上げて、


「脂が滴るの!」


なんとも若者らしく言い切った。


アガットは微笑んで竈の一画(どうもここを台所とは呼びたくない、台所のミニチュアのような場所なんだもの)に下がり、包丁を研ぐ準備をし始めた。


古いフライパンがあるのでそれでどうにかできるはずだった。塩がないのは痛いが、骨を割って髄液を出せば塩分が出るはずだ。


肉が食べられるとは思いもしなかったから、浮かれていた。レオが魔法も使えれば剣もたつ、万能の貴公子だというのは聞き知っていても、ここまでやってくれるとは思わなかった。


――戦場で彼は、さぞかし苦労したのだろう。


普通、貴公子のする狩りとは馬に騎乗して猟銃や弓を持ち、猟犬を従えて行われるものだ。戦場では食料が行き渡らないこともよくあったと聞く。彼は生き延びるため、なんでもやって、覚えたのだ。


レオは実際、とんでもなく手早い仕事ができる猟師だった。あっという間に羽根を毟られ首と足を落とされたガンを、はい、と渡されて、


「いつできる?」


と真顔で聞かれる。


「お腹が減ってるんですか?」


「うん」


彼は子供のように頷いた。


「少しかかります。そういうものです」


「そういうものか。……うん。わかった」


兵のどうしようもない退却を責めない王のように、彼は素直だった。


「じゃあ頼むよ。待ってる」


「かしこまりました」


アガットはガンの肉に包丁で切り込みを入れて、ディルの葉っぱをそこに入れた。野生のにんにくを探したが見つけられなかったので、香りはディルと肉のそれでいくしかない。


太い背骨に思い切り包丁の刃を叩きつけ、どうかこのガンが若くて脂っけと塩っけたっぷりの個体でありますようにと願った。


下処理が終わったガンをまるごとのまま竈の中に吊るし、その下にフライパンを敷いた。熾火を火かき棒でかき立てる。鳥にじわじわ火が入り始めると、ポタポタ肉汁が垂れてくる。木の大きな匙でフライパンの中の肉汁をすくっては、ガンにかけた。だんだん皮がパリッとしてくる。


内臓はすべて取り除かれているから、身に火が入れば出来上がりだ。肉の焼ける匂いを嗅いでいるとパンがほしくなってきたが、ないものねだりでしかない。


ふと、玄関口の方から薪割りの音が聞こえてきた。アガットはもう少しで笑い出すところだった。


学院時代のレオには男女問わず取り巻きが数多くいて、おべっかを使うだけでなく彼の汗を拭いたり、芝生に座ろうとするレオがまるで令嬢であるかのように、彼のお尻に自分のハンカチを敷こうとする者までいたのだった。


――その彼が、薪割りをしている。率先して、自ら考えて動いている。


アガットはレオのことをますます好ましく思った。愛しているわけではなかったが、彼の世話をする役目が与えられたことに生き返った心地がした。


コケモモの実をフライパンに入れる。グツグツと果実と果汁が煮詰まってくるところに、鳥の脂が落ちて混じる。


だんだん日が落ちてきたので心配になってきた。レオが手元を狂わせて木っ端が目に入ったり、自分の足を切り落としてしまったりしたら。しかしわざわざ大声張り上げて子供にするような注意をするのもまた、躊躇するのだった。


幸いなことにすぐに薪割りの音が止み、レオが玄関を閉めてしっかりと閂をかける音がした。


家の中は暗くなり、彼は壁に備え付けの燭台に火をつけて回る。マッチもロウソクも備蓄はなかったから、手に入れる手段が見つかるまでは節約しなければならないだろう。


アガットは無心に動かしていた手を止めた。グレイビーソースというべきか、煮詰めた果実と肉汁はトロッとしている。皮は匙でこするとパリパリした手応えがあって、どうやらこのあたりで完成と言っていいようだった。


アガットは一番大きな古い皿に鳥を盛り付け、見栄えがいいようにその周りにソースを注いだ。ふわんと香る匂いは食欲をそそるが、調味料がなかったのがどう出ることやら。


ともあれ、よし、と彼女は頷いて、


「出来上がりました。お運びします」


と儀礼的に声をかけ――ぎょっとした。目を見開いたまま固まった。


レオは上半身が裸だった。ズボンにはベルトさえ嵌っていない。脱ぎ捨てられたチュニックが、なんとなく彼の座る方、と位置づけられた籐椅子にぽんと放られていた。


「できたか! うまそうな匂いだ」


と彼の方もアガットに背を向けていたところだったから、マッチ片手に振り向いてびっくりした様子になった。アガットが驚いていることにレオは驚き――やがてその顔にぱっと理解の色が浮かんだ。


四年間の青春を軍務に捧げ、それはもちろん軍隊では裸も猥談も珍しいことではなかっただろう。けれどもそのすべてはアガットに縁遠いものである。貴族令嬢が男の裸の上半身を見るなんて!


アガットは皿に目線を移した。


「すま、すまない、アガット。しばらく待ってくれるか」


「……はい」


互いに裏返った、消え入りそうな声だった。レオが服を着る慌てた衣擦れがやけに大きく響く。


アガットがもたもたと皿を上げ下げしたり、手の位置を変えたりしている間に、彼はどうにか対面を整え終わったらしかった。


「もう大丈夫だ。こっちに来てもいい」


「は、はい」


ロウソクのぼうっとした灯りの元、浮かび上がるレオはきっちりとチュニックを着付けている。


アガットは慎重に鳥をローテーブルまで運び、取って返して金の(金の!)フォークとスプーン、それから取り分け用の小皿を二枚持ってきた。


「すまな――」


「何もおっしゃらないでください」


籐椅子についてカトラリーを差し出しながら、アガットはぴしゃりと言い切った。自分が思ったより尖った声が出たものの、貴族令嬢としての対面を保とうとするあまりだと思ってほしい。


しばらく互いに何も言わなかったが、気を取り直したレオは自前のナイフを腰から抜いて鳥を切り分けた。小皿に乗せ、スプーンでソースも掬ってトロトロと上からかけた。


「はい」


と皿をアガットに差し出す。


「……どうも」


とアガットは受け取る。それが謝罪の代わりになった、おそらく教会法廷では認められないだろうが。少なくとも場の雰囲気に緊張はなくなった。


彼が自分用の小皿を作る間、アガットは遠慮なく肉に齧りついた。


――ものを食べるにあたって、空腹は最高の友達だ。自分が今まで調理したどんなものよりもおいしく、かぐわしく感じられた。


「うん、うまい」


とレオも目を輝かせる。


「ええ、思ったより。鳥が太っていましたから」


「きみの腕がいいんだろう。ええと、肉厚なのにちゃんと火が通っている」


レオはごく生真面目に告げた。アガットはいつもの癖で生焼けの部分があったのかと思ったが、……どうやらこの人はそういう嫌味を言わないらしい、ということがわかってきた。


だんだんお腹がくちてくるに連れて、アガットは大胆になっていた。言葉はごく簡単に、するんとこぼれた。


「お口に合いましてようございました」


何と言うべきか悩むこともなかった。心からそう思ったのだった。


レオは破願した。今まで見たどんな笑顔とも違う、少年じみた溌剌とした笑顔だった。


「うん。きみの家ではいつもこういうものを食べていたのか?」


「いいえ。とくにここ最近は、肉などまったく。そうですね……こんなにお肉を口にできたのは、一年ぶりでしょうか」


レオは苦笑して眉を寄せる。


「流通が止まっていたせいだろうな。田舎から牛や豚の肉が都市部にいかなくなっていた。魔物どもが街道に出たせいで」


アガットは後悔と安堵を同時に味わった。貴公子に軍の責任を思い出させてしまったことをまずかったと思い、言わないでおいたことをやはり口にしなくて正解だったとほっとした。家族たちが肉を食べられなくなったのは去年のことだが、アガット自身はそのずっと前から肉や魚を口にさせてもらえなかったことを。


「あ!」


と、レオは唐突に声を上げる。


「俺はこういうところがいけないのだな。――違うんだ、気を使わせたかったわけじゃない。力足らずだったことを悔いているだけで、あーっと」


アガットはわざと声を立てて笑った。父もたまにこうして自分の言動を恥じることがあったが、それを口に出して言えるだけ、レオは誠実だと思った。


「ええ、わかります。ご自分の経験からおっしゃったんでしょう。私もよくやります」


「ん。そうか。ならよかった……きみも?」


「ええ。つい口を滑らせてしまいますの」


「きみのような人でもそのようになるとは、意外だ」


ごくごく純粋な敬意が浮かぶ、いっそきょとんとした、と言っていい顔でレオは微笑んだ。


高貴な貴公子、貴婦人はこのように人間として魅力的である。計算ずくなのか、あるいは人の心を掴む言動を無意識にやってのける能力を父祖から受け継いだのか。これに巻き込まれ、絡めとられてはいけなかった。平民や下級貴族が上級貴族の一人に心酔しきっては、ろくな結末にならない。よくて捨て駒にされるだけである。


アガットは、いつかレオと離婚するつもりでいる。彼の魅力に抗い、最後には離婚して――どこかでひっそりと暮らしていく未来を得ることができさえすれば、アガットの勝ちだった。


彼女は自分を哀れに見せかける女に見えないよう、気を付けながら話した。


「普段は家にいたの?」


「ええ。家の中のことを担当していました」


「貴婦人の仕事だな。尊いことだ。家計を預かり、家族の世話をする。確か、子爵夫人がご病気だったとか」


「はい。思ったより病が重く、私が代わって家政を取り仕切るようになりました」


「そうか……。そのような家庭はたくさんあったのだろうな」


いつの間にか食事は終わっていた。後半に至っては食べた記憶もないほど会話に気を取られていたのだった。


アガットは女がよく浮かべる場をとりつくろうための笑みを浮かべたまま皿を回収し、水瓶のところへ行って洗い始めた。


思えばアガットもそうだが、レオも着た切り雀でろくに身体も洗えていないのだった。明日あたり、恥を捨てて川へ行こう。



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