第3話



「そもそもの発端は魔王による人間界への侵略だった。我々は善戦したが、劣勢だった。そこに現れたのが勇者ジュリアンだ。元は農民のせがれにすぎなかったが、聖剣を抜いて勇者の称号を得た」


アガットは頷く。膝の上で手を組み合わせる。


「魔物は強く、無限に湧く。人ならば手打ちにするだろうというほどほどのところがないのだ。条約も協定も期待できん。我々は死ぬために戦っていたようなものだった。――彼はそこに現れた」


レオは顔をこすったが、それは表情を隠そうとしている仕草のように見えた。


「彼は強かった。私たちではできないようなことをやってのけた。聖剣の一振りで千単位の魔物が吹き飛んだ。大砲よりも銃よりも、彼は頼りになった……エレオノーラ姫が私を捨てて彼を婿にしようと考えたとしても、私は文句を言うことはできない。ジュリアンは神に選ばれた者なのだ」


レオの表情は迷子の子供のように見える。ぽつねんと家の中に一人佇む孤独感をアガットは思い出していた。


「私は十八の頃から戦場しか知らぬ。歴戦の古強者に比べれば微々たる経験だが、兵を率いるすべを覚え、魔物を殺すことができるようになった。ときには、人も」


「え?」


「魔物にやられてもはや助からぬ者もいた。せめて楽にしてやるのが戦友のつとめだ」


「そんなことが、あったのですか。存じませんでした」


アガットは首を横に振る。芝居も新聞も華々しいダキネラル将兵の活躍を声高に喧伝するばかり、そこまで具体的なことは、さすがに知らされない。


「そうだ、後ろにいる者はそれでいい。きみたちを悲惨な目にあわせないよう、私たちは戦ったんだから」


レオは薄い笑みを口元に浮かべる。それは自らの義務や境遇に陶然としている殉教者のようにも、その不遇さを乗り越えた者の自負にも見える笑みだった。


「兵たちは徐々にジュリアンを慕いはじめた。私たち上級貴族は魔物に対して決定的な手を打てず、消耗戦を仕掛けるしかできなかったのだから、彼らの信頼を失うのも当然だ。戦うからには華々しく勝たなければならなかったのだ、私たちは。――そして、ジュリアンが魔王を倒した。知っているだろう?」


「はい。つい先月のことです」


「陛下のお喜びようは、たいへんなものだったと聞く。そして私たちに失望なされたのだ。何年も戦っても魔物を退けることさえできなかった騎士団と軍、神に選ばれた少年と――そして後者を選ばれた。勇者ジュリアンがエレオノーラ姫の婚約者に内定されたのは、先週の御前会議でのことだ」


「はい」


と頷きつつ、アガットは手のひらに汗をかいている。そんな重要なことを、自分ごときが聞いてしまっていいものか戸惑う。彼女は本当に、ただの子爵令嬢だったのに。


「私たちは邪魔になった、ということだ。きみも聞いただろう、シャヴァネルを呪う民の歌を」


その酷薄で自嘲的な笑みは、少年の頃のレオとは似ても似つかない。アガットは無意識に足の指をぎゅっと丸くした。みぞおちが冷たくなっていく。


「魔物との戦の全責任をシャヴァネルに押し付け、勇者ジュリアンを旗頭に国の再興を目指されるおつもりだろう。自らは権力の座についたままで。そんなことがまかり通ってたまるかとも思うが、実際に通りつつあるのだから仕方がない」


「はい」


アガットは頷いた。


「とても……残念に思います。公爵家の皆さまの国家へのご献身は誰もが知るところでありましたのに」


「私はこんなことでは屈しない。いつか必ず王都に返り咲く。再び私を閣下と呼ばせてみせる、勇者ジュリアンにさえ」


彼は拳を握りしめた。アガットのことは視界に入っていない。


その悔し気な表情冴え美しく、紅潮した頬、神様が注意深く削り上げたに違いない大理石の彫刻のような額や鼻や顎の線。けぶる睫毛の向こうに煌めく目! アガットは小さく息を呑む。これほどに美しい男がこの世にいて、アガットがその傍に侍ることができるというのは、なにかの間違いに違いない。


アガットは美しいものが好きである。美しい男や女、己を着飾る意思をなくした老人やまだ持たない子供、人によって作り上げられた教会のシルエット、野の花の自然な曲線、宝石、海、山、森、渓谷や雪原……。アガットは自分が美しくないことを知っている。だから、美しいものの傍にいたいし、所有したいのだ。


「アガット。あなたは……あー、」


レオはくるりと軍隊式に踵を起点に方向転換をして、アガットの目の前に仁王立ちした。アガットはボウルを赤ん坊のように抱えたものの、もう彼の勢いや高貴さからくる突拍子のなさ、抑えても朗々と通る声に慣れはじめていた。


「つまり、私は反逆者なのだ。今も国王陛下に追われている。きみの、テミア家の名前を用いて身を隠すことにしたのはリュドヴィックの提案だったが、それを承諾したのは私だ」


ダキネラル帝国の教会には、とある魔道具がある。どんな片田舎の崩れかけであろうと、すべての教会に備えられる記録簿だ。はるか古くからの呪いのような魔法で、現在の魔法使いでは解けない強力な強制力を持つ。


記録簿にはすべてのダキネラル人の血筋が、神話の時代にさかのぼるまで記載されている。祖父母や親兄弟の名前、結婚相手から、父親がこっそり作った愛人とその息子の名前と生まれ年まで。それを偽装することは誰にもできなかった。


教会の教えは言う。


――神は血筋の正統をこそ重んじられる。


――正統な夫婦の間に生まれた正統な嫡子のみが、家とその名誉を紡いでいく。


それこそが教会の権力の源だった。教会は記録簿を独占し、いざというときに使う。教会に不利な法律を制定しようとする国王がいれば、必ず出生の不義を取り沙汰されるというのは有名な話だった。


婚姻証明書や離婚証明書が教会に届くと、自動で記録簿に記録される。そしてその記録簿を閲覧できる権利は教会の聖職者に限定されていた。強い魔力を持った聖職者であれば、記録簿の記載からその者がどこで何をしているか探ることができた、索敵の魔法を利用することで。天の神がダキネラル人の行動を見るという神の目をお借りすることさえ、神の使途である教会の人間ならば許されるのだった。


アガットはサインした婚姻証明書を思い出した。レオはシャヴァネルの名前を捨ててテミアに婿入りしたことになっていたから、今は法律上テミア家の一員だ。


ゆえに国王陛下がレオの行方を探そうと記録簿を見ても、そこにあるのは戸籍を離脱したという一文のみ。レオの現在の名前――レオ・クロード・ドゥ・シャヴァネル改め、レオ・クロード・ドゥ・シャヴァネル・テミアといったところだろうか、それを知りたければテミア家の方の記録簿を閲覧せねばならず、そしてアガットを除く家族たちはおそらく国外逃亡したあとだ。うまく物理的な足跡さえ隠せていれば、誰もシャヴァネル公爵家の貴公子がどこへ雲隠れしたかわからないだろう。


なるほど、王都を抜けるときリュドヴィックはお祭り騒ぎの間を縫ってせわしなく幻覚魔法を二人にかけたが、それはとにかく見た目を誤魔化しさえすれば勝算があると考えてのことだったのだ。


「今の私には家もない。爵位も、付き従う兵もいない。何も持たない私に、きみが従わねばならないのは不憫ですらある。きみが名前を貸してくれたおかげで私は生きていられるのだから」


レオは籐椅子に座るアガットの前に膝をついた。正式なプロポーズの姿勢だった。


「え……っ、閣……っ、レオ様!」


「どのような事情で結婚するのであれ、妻のことは愛そうと決めていた。改めて、アガット、これからよろしく。私もまたきみを愛することができるよう、努力しよう」


レオはあの甘い笑みを浮かべた。学院で多くの令嬢の心を掴んだ、誰にも優しい有能な好青年のほほえみだ。二階の教室の窓だとか、図書館の本棚の影から覗いたのでなく真正面からそれを見たのは初めてだった。アガットは頭がくらくらした。


「どうかきみも、そのように思ってくれるよう願う」


と、アガットにとっては命令と同義のようなことを言う。


レオは跪いたままアガットの手を取った。


手の甲にくちづけが落とされるのを、アガットは怯えるような高揚するような気持ちで眺めていた。レオの金髪が天使の輪のように光を反射して、それは美しかった。



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