第9話 レオポルドの手

「あの女なら下だ」

「下?」

「あぁ、酒場での商売の許可を得たそうだ。ここの宿泊客相手に、商品を売りつけると言っていた」

「なるほど」

 頭の中に、RPGの酒場の一角で絨毯を広げて品を並べている、アイテム屋や武器屋の様子が浮かんでいた。


 この隙にレオポルドと共に逃げてしまおうか、そんな思いが頭をかすめる。

(でも、この世界のことを理解してないままパティから離れるのは危険だよね)

(だけど、理不尽に借金で縛られるのは気分悪くない?)

(理不尽じゃないよ。レオポルドに必要なものを一式用意してくれたんだから、対価はちゃんと払わなきゃ)

(分かってるけど! こっちの弱みを握ってニヤニヤしてるあの様子が気に入らない!)

(お気持ち!? レオポルドがお腹いっぱい食べた肉料理の代金も支払ってくれたんだよ?)

(それは感謝してるけど!)

 私はぱたぱたと頭上で手を振り思念を振り払う。

「レオポルド」

「何だ?」

「もし、私が二人で逃げようって言ったらどう思う?」

『けもめん』のレオポルドは、責任感の強い真面目な軍人だ。

 推しと見た目そっくりの彼が「借りはきちんと返さねばならない」と言ってくれれば、納得してこの場に残れる気がしたのだ。

 だが。

「自分は、アリスの望みに従う」

 選択を押し付けた結果、まさかの逃亡ルート!

 あっさりと受け入れられると、逆に罪悪感が湧いてくる。

「あ、でも、パティは一階にいるんだよね? 見つからずに逃げるのは難しいかな?」

「ならば」

 レオポルドが窓を開ける。

 朝の光が彼の見事な逆三角形フォルムを浮かび上がらせる。

 澄み切った空気がサラッと室内に流れ込み、カーテンを揺らした。

 彼はこちらをふり返り、艶やかな漆黒の手を差し出す。

「自分が貴女を抱いて、ここから飛び降りよう。さぁ」

(ふわぁあああぁああ!?)

 レオポルドが、私を抱いて窓から飛び降りる!?

 何というドキドキのシチュエーション!


 私は引き寄せられるように、ふらふらと彼の元へと足を進める。

 そして大きな漆黒の手に、自分の手を滑り込ませた。

 その瞬間、体に電流が走ったかのような衝撃を覚える。

(ひゃあ!?)

 むっちりとした肉球が、私の指を包み込んでいた。

「えっ、ちょっ! てのひら、見せて!」

「てのひら?」

 レオポルドは私の目の前で。指をそっと開く。

(ほわぁああ……)

 てのひらに大きなものが一つ。そしてそれぞれの指先に一つずつ。

「肉球だぁ……」

 漆黒の海に浮かぶ銀色の島のようなそれを、私はうっとりと眺める。

「あの……、触っても?」

「構わないが」

 許可を得て、私はレオポルドの肉球にそっと触れる。

(あぁ……!)

 リーンゴーンと頭の中で祝福の鐘が鳴り響く。金色の光が射し純白の羽根が舞い散る。

(ぷにっぷにだ……!)

 みっしりとした手ごたえ。程よい弾力。至高の触り心地。

 私は肉球をふにふにと押し、縁に添ってマッサージするようになぞる。

 その時、レオポルドが微かに息を飲んだ。

「あ、ごめん。痛かった?」

「い、いや、その」

 片方の手の甲を自分の口元へ押しあて、レオポルドは照れくさそうに私から視線を外す。

「少々、くすぐったいと言うか……」

(あ)

 うっかり猫の肉球でも触っている気になってしまっていたが、相手は成人男性型の獣人だ。元兵器だけど。

「ご、ごめ……!」

 セクハラしてしまったかと焦る。

 手を引こうとしたはずみで、彼の中指の先にキュッと圧力をかけてしまった。

 その瞬間、シャキッと鋭い爪が姿を現す。

「うぉ?」

 私が指先から力を抜くと、レオポルドの爪は人間のものに近い長さへと戻る。少々尖ってはいるが。

「……」

 私はもう一度、レオポルドの指先を軽く押しつぶす。

 先程と同様に、ナイフの切っ先のような鋭く長い爪が現れた。

(これって……!)

 鼠型魔獣ユズオムの額の石を次々と断ち割った、あの時の爪だ。

「どうなってるの、これ?」

「さぁ、自分には何とも」

「収納型なのかな?」

「恐らくは」

「でも爪の長さと指の長さが合ってないよね」

「確かに」


「何やっとんねん、二人で手ぇ取り合って」

「わっ!」

 気が付けば、パティが横から私たちのやり取りをのぞき込んでいた。

(帰ってきちゃった~!)

「お、お帰り、パティ。商売は終わったの?」

「おぉ。思てた以上に魔石ケントルハンターが泊っとったからな。儲けさせてもろたわ」

 そう言ってパティはにやりと笑う。

「ウチがおらん間に逃げ出すんちゃうかと懸念してたけど、素直に待っとったようやな」

(ぐうっ!)

 逃げ出そうとすることは予測されていたか。

 レオポルドの手に完全に夢中になっていたため、機を逃してしまったと言えば、彼女はどれだけ笑うだろうか。



「ほれ、下でマスターに作ってもろたから、朝食にすんで」

 パティはテーブルの上に、肉と野菜を挟んだパンらしきものを置く。

「えっと……、こちらの代金は?」

「ん? 自分らが食べた分は払ってもらうで」

(ですよね!?)

 しかし食べないわけにはいかない。私も、レオポルドも。

(ぐぅう、必要経費がガンガン借金に上乗せされていくシステム! 花魁おいらんかな!?)

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