第24話 炎の河/ほんとうのこと、すべて
炎の河にいた。農場の裏を走る川の水が、すべて炎に成り代わっているのだ。あり得ない光景だった。現実ではない、とヴァネッサは悟った。それでも火炎の熱さで息は苦しく、あえぐようにして身体を前へ進めた。
けれど不思議に歩みは遅い。足を引かれているような感覚を覚え振り返った。右足にやせ衰えた女がしがみついていた。声にならない悲鳴を上げ、ヴァネッサは銃を撃った。撃ってから気づいた。あれは母だった。ダイアナだった。死骸は瞬く間に灰になった。ヴァネッサは愕然と目を見開いて、しばし立ち尽くした。私が殺した。私の罪だ。罪だ――ヴァネッサは逃げ出した。その頃には、ただの少女に戻っていた。無力で無知で無垢な少女に。
川岸で誰かが呼んでいた。お待ちよ、と彼女は言った。懐かしい声だった。皺だらけの、救いの手が差し伸べられた。マザー、とヴァネッサは泣きながら掴もうとした。空を切った。
マザーは頭から炎の中に落ちて、やはり灰となった。
背中のほうから、怨嗟の声が聞こえた。人のものではない、意味のない獣の唸りが、いくつも重なって、弾きそこねたヴァイオリンのような不協和音と化して襲いかかってきた。見たくない、見てはいけないと思いながら、目線は肩越しにそちらへ向いている。
炭になった、影のような無数の死体。這い寄る影たちだった。ヴァネッサはもはや悲鳴を上げることさえできなかった。そのくせ、あれが何か、何者だったのか、痛いほど理解していた。自分が殺してきた者たちだった。あるいは、救えなかった、見殺しにした誰か。
おまえのせいだ、と穴蔵のような目が言っていた。報いだった。生きようとしたばかりに。己の悪性を、今ここで突きつけられていた。
逃げたい。ただその一心で、岸へとたどり着いた。腕を伸ばして、しかしその上から影が差した。
「やあ、かわいいネッサ」男は言った。顔のない男だった。「どこへ行こうというんだい。僕から、逃げられるとでも思ったかね」
叫んだ。あらん限りの力で走り出した。背中から粘りついた笑いが追いかけてきた。また川の中を無我夢中で逃げた。肺が千切れるほどに。あれに捕まってはいけない。絶対に。死よりも惨たらしい
だが、足は不意に止まった。背中から誰かがヴァネッサを抱いていた。ひどく柔らかい感触に、一瞬、安堵を取り戻す。
クレアが隣で笑っていた。
「もういいの、ネッサ」彼女は笑った。寂しく、晴れやかでさえあった。諦念を湛えた、彼女らしくない微笑だった。
「行きましょう、一緒に」
駄目だ、とヴァネッサは吠えた。そんなものではないはずだ。君は、この先に行かなくちゃいけない。海を目指すんだと叫んだ。何も成していない。まだ終わっていないはずだ、と。
意に反して、身体は岩のように重くなっていった。炎の中に沈んでいった。肌が焼けただれ肉が焦げ嫌な臭いを発し、ついに骨ばかりになっていく自分を、ヴァネッサは唐突に俯瞰で眺めていた。不思議にクレアは美しいままだった。どうしてだ、という問いにクレアは答えず、粘りつくように笑った。その顔が、みるみるうちにケリーへと変わっていった。
目覚めた時、ここしばらく見慣れた天井があった。オーカー家に戻ってきている、とヴァネッサは気づく。だが意識はまだ曖昧なままだった。今がいつかわからなかった。最後の記憶は、辛うじてキャンディにしがみついた自分だった。逃げ切れたのか、と乾いた唇が呟いた。安堵に力を抜きかけた時、思考が転がった。
(そうだ、クレア、君はどこに……)
途端に覚醒した。ヴァネッサは跳ねるように起き上がりかけ、脇腹の痛みに呻いた。撃たれたことをようやく思い出した。どこからどこへ弾が抜けたかはわからないが、少し動くだけで内臓がかき回されるような気分の悪さを覚えた。
「ああ、起きた。死んでなかったんだ」
ベッドの脇で嘲るような声がした。ジョーが見下ろしていた。今しがた部屋へ入ってきたらしい彼女に、ヴァネッサは少しも気づくことができなかった。
「あんたは死に損なって、ここまで、家まで戻ってきた。手綱握ってくれた姉さんに感謝しなよ。それと禁酒同盟にも。医者を連れてきてくれた」
「クレアは、どこにいる」
「ワニの威嚇みたいだぜ、あんた」ジョーは肩をすくめる。「まずお礼だろうよ」
「クレアはどこだ! 生きているんだろうな!」
怒鳴って、それがまた傷口に響きヴァネッサは身体を折った。使い物にならないと歯噛みした。それでも虚勢を張った。脂汗を拭い、ジョーを睨みつけた。
「無理をしなさんな。あんたにもう用事はない」
「私のほうがある。君は姉さんを守ってと言った。まだ契約は続いている」
ジョーは残忍に笑った。
「ヴァネッサ、クソったれな契約は終わりだ。あんたは肝心な時クソの役にも立たなかった。それでも500ドルは手に入ったんだ、いい仕事だろ?」
「金はどうでもいい。クレアをここに連れて来るんだ」
「別に姉さんをどうこうするつもりはねえよ。ただあたしの邪魔さえしなけりゃいいってだけ。じきにすべて上手くいく。スタンリーと愉快な仲間たちは肉片になるさ。ま、残りわずかだけど」
肉片になる、その言葉がまざまざと昨夜の光景を蘇らせた。マキシム機関銃を振り回す男と、狂喜の表情が現れた。ヴァネッサは生唾を飲んだ。その名を口にするには勇気が必要だった。ためらいながら、ジョーに問いかけた。
「君は……やってしまったのか。奴と、ケリーと組んでしまったのか」
「そうとも」ジョーは晴れやかに笑った。「彼はあたしの望み通り、もしかしたらそれ以上のことをしてくれる。だからあんたは寝てるといい……」
「駄目だ、ジョー。あの男は裏切る。必ず。私の時もそうだった。キャンプを壊滅させたんだ、最後に残ったミッドナイトの皮を剥いだ、拷問にかけた。あれは人を笑いながら切り刻むことのできる男なんだ! あいつだけは駄目なんだ!」
「ヴァネッサ、あんたは誤解してるよ」
「違う、君こそ……」
「いいから話を聞きなよ」ジョーは低い声で遮る。「あんたは彼をヤバいやつみたいに言うが、全然違う。力仕事は先に立ってやってくれるし、エスコートもできる。見ての通り銃も大したもんだ、頼りになる。なにより」
ジョーは煙草に火を点け、薄い笑いを浮かべた。
「なによりね、ヴァネッサ。彼はあたしを見てくれる。あたしを正しいと言って後押ししてくれるんだ。組まない理由がないだろ?」
馬鹿な、とヴァネッサは天を仰いだ。それがケリーのやり口だということは痛いほど理解していた。サンバルド・ギャングでも同じだった。当初は笑顔を絶やさず善人のように振る舞い、雑務もこなし、ヴァネッサとマザー以外を骨抜きにしていた。すべてが整ってから皆殺しにするのだ。よく太った鶏を殺すように。
ノックの音がして、外で誰かがジョーの名を呼んでいた。
「行くね」とジョーは背を向ける。「最後の仕上げをしないと」
ヴァネッサは手を伸ばした。届くはずもない。激痛に悶えた半端な口が、ジョー、と縋るように名を呼んだ。彼女は気にも留めず出ていく。扉は開け放たれたままで。その先に彼が立っている。ジョーは首元へ飛びつく。頬に口づけをする。女よりも滑らかな頬に。男は何かをジョーに囁く。笑みがこぼれる。嬉々とした表情の中に影が立ち上がっている。毒々しい色をした、力の影が。
ジョーはボールを投げられた犬のように走って行ってしまう。男がヴァネッサへと向く。扉が、後ろ手に閉まる。
ケリーは、道化師のように笑った。
「ネッサ、かわいいネッサ」
恍惚とした表情だった。大股で二歩、三歩と近づく。ヴァネッサは全身に虫が走る感覚を覚える。歯の根が合わない。
だが、ここは彼女の部屋だった。ヴァネッサは枕の下へ手を突っ込む。固く冷たい物を感じる。その感覚が正気を取り戻させた。ガンナーの意識が息を吹き返す。デリンジャーを引き抜き構え、ケリーの顔面へ引き金を引いた。
聞こえたのは、虚しい金属音だけだった。弾丸は撃ち出されなかった。ヴァネッサの顔色が一瞬にして青ざめた。不発かと一瞬思った。違う。はなから、弾など入っていない。
ケリーが、身体を仰け反らせて笑った。電話が鳴りだしたようなけたたましい笑いだった。ヴァネッサは呆然とそれを眺めていた。世界は薄膜を被ったようだった。
「ああ、本当に楽しい娘だ、君は」ケリーは涙を拭いなが言った。「ジョーが教えてくれたんだよ、かわいいネッサ。デリンジャーを隠し持つ癖があるとね。いや、しかし君はそうでないと。最後まで抗う気でいないと。だから生き残ったんだものな」
ヴァネッサの身体が痙攣した。ケリーは丸椅子を引き寄せベッドの脇に座った。ヴァネッサの手から優しく銃を引き取り、そのままに手を取った。
「やはりこの手だ。完璧だ、ネッサ。硬く、苦難を乗り越えてきた掌だ。誓うよ、誰の手袋を捨てたとしても、これだけは生涯持ち続けよう。ああ、心配しなくていい。顔を剥ぐことはしないさ。首から上は標本にしてもらう。宝物だからね。専門家が知り合いにいるから、任せておいてくれ。悪いようにはしないさ」
ケリーは顔を遠ざけ、今度はヴァネッサの全身を丹念に眺めた。爬虫類の目をしていた。それがヴァネッサを縫い付けた。恐怖が全てだった。指の一本も動かせなかった。
「そう硬くなっちゃ話もできない。僕は君に会いたかったんだよ、ネッサ」ケリーは一音一音を噛みしめるように語る。「君とマザーだけは僕のことをよく見えていた。だからね、この綺麗な瞳が忘れられなかった」
ケリーは煙草に火を点ける。りんごの腐ったような匂いがした。男は吐き出した煙を眺め、独り言のように呟く。
「あの日は晴れた夜だった。10人以上で包囲して、火を点けて確実に殺したはずだった。少なくともミッドナイトは仕留められた。だが、どうしても死体の勘定が合わない。どうしてだ? 記憶を探ったね、僕は。完璧主義だから」
ケリーが顔を近づけた。
「屈辱でもあり、嬉しくもあった。僕はそれまで一度たりとも、殺すと決めた人間を逃したことはなかったから。……だから、ネッサ。教えてくれないか。君はどこにいた。あるいは……誰の死体に隠れていたんだい?」
ヴァネッサの中で何かが弾けた。怒りに任せて掴みかかった。
「貴様だけは……殺す!」
「おいおい、話が噛み合わないぜ」
避けながら、ケリーは銃を抜いていた。ポテト・フライを差し出すように、ヴァネッサへ向けられている。
彼は呆れ声で、
「死にたいのか? まあそれもそうだろうね。ミッドナイトの死に様を見ていたのなら、当然だろう。だがネッサ、よく聞け」
「貴様の話なんて……」
そう言うな、とケリーは銃を収め、人好きのする笑みを浮かべる。
「君の過去は調べた。十分に。母親を殺したようだね?」
「黙れ、化物が!」
「その元凶がクラリス・オーカーだとしたら?」
思考が氷漬けになったように静止した。意識のない呟きがこぼれ落ちる。
「……どういう、意味」
ヴァネッサは心臓が脈打つのを覚えた。悪魔の言葉だ、聞いてはならないと本能が言っている。真実を聞かなければならないと理性が言っている。
ケリーは煙を吹き上げ、ゆっくりと、語り始める。
「農場が焼かれた、奪われた。それが君の、すべての始まりだったはずだ。ダイアナ・ミラーは身体を売る羽目になって病にかかる。だとすれば、だ。農場を襲ってくる誰かがいなければ、誰も苦境に陥る必要はなかったんじゃないかな?」
うるさい、とヴァネッサは呟いた。あまりに力なく。
男の言葉は、真実の一端ではある。その先に至るべきでない真実の。
「ネッサ。誰がやったか、知りたくはないか?」粘りつく声。「いいや、知りたくなくとも教えてやろう。よく聞け、忘れないように」
「黙れ!」
「君の父を殺し農場に火をかけたのは」
「黙って!」
「……ドミニク・オーカー。言わなくてもわかるかな? 君のクレアとジョーの父だよ」
目眩を覚える。全身から力が抜ける。
されどケリーは続ける。絶望を舐め回すように。
「ドミニクは長女が生まれ、裏稼業などやめてそろそろ腰を据えなければと思ったらしい。ちょうどいい場所はないかと探していたそうだ。なに、僕はドミニクと同郷だったらしくてね。伝手で聞いたのさ」
ヴァネッサは身体を抱いた。震えが止まらなかった。
すべてが符合する。どうして農場に来て懐かしく思った。川の記憶は。なぜダイアナはボナンザ・ヒルを目指したのか。荒れていたというクレアの父は。ケリーの囁きなど、馬鹿なと一蹴してやりたかった。しかし考えるほどに歯車は噛み合い回りだし、ヴァネッサを切り裂いた。
「……しかし、ネッサ、かわいそうなネッサ」男が、耳元に口を寄せて囁いた。「あの女がいなければ、君は母を殺す必要なんてなかったんだ。銃を持たず、大きな農場の娘として暮らしていただろうに。着飾って、今頃ボーイフレンドでもいたんじゃないのかな」
すべてを打ち砕く音を聞いた。ヴァネッサの瞳は、もう焦点が合っていなかった。意味のない呟きが唇から漏れていた。
ケリーは満足そうに口角を上げて立ち上がり、
「ネッサ、きみの銃は全て預からせてもらった。でも、それじゃあ心もとないだろう」
彼はサイドテーブルに一発だけ銃弾を置いた。
「この後クレアを連れて来させよう。僕は後片付けに行ってこなくてはいけないからね。なに、少しの辛抱だ。深夜には戻るよ。それまで一人より二人のほうがいいだろう? だから言っておく」
男の囁きは、猛毒を孕んでいる。
「絶対にクラリス嬢を殺すなよ、かわいいネッサ?」
それを最後に、ケリーは高笑いしながら去っていった。
彼は戸口でこう言いつける。
「自殺はしないように見張っておけ。もっとも、姉が生きているうちは死ねないと思うがな」
足音が遠くなっていく。馬のいななきと景気のいい空砲を、ヴァネッサは虚ろなままに聞いた。やがてそれは小さくなり、蹄の音も遠くなっていった。
ヴァネッサはベッドの上で額を抑えた。唇が色を失っていた。撃たれた箇所が染み渡るように痛みはじめる。やがて局所感を失って身体と溶けていく。内にこもるような痛みで身体が震える。その痛みで、埋み火だったはずの悪意が油と流れ落ちた。
炎が、燃え上がる。
やめろ、と自分を戒めた。クレアは悪くない。ケリーの与太だ。ただいたぶって楽しむための嘘に過ぎない。忘れたかネッサ、クレアを守ると誓っただろう、と。
しかしいつどう誓ったのかも思い出せなかった。赤く燃える農場の空と、母を殺した時に覚えた引き金の重さばかりが脳裏に蘇った。
何より、想像してしまった。こうはならなかった自分を。一人娘として育ち、当たり前のように温かいベッドで眠り、ドレスを着てダンス・パーティに行く。それもこんな田舎ではなく、ボストンやワシントンで。本を読みたくさんの友人と語り合う生活を。
それはクレアが語った、彼女が過ごした青春だ。
鼓動が早くなる。吐き気が胸まで上がってきている。感情の奔流がどこかへ押し流そうとしている。ヴァネッサはシーツを握りしめた。まだ耐えられると思った。ここにクレアが来さえしなければ!
何の予告もなくドアが開いた。誰かが乱暴に床へ投げ出された。彼女はドレスを着てはいたが、裾は泥に汚れ金の髪もほつれていた。やめろ、とヴァネッサは声にならぬ叫びをあげた。
クレアが顔を上げた。泣き腫らして目の周りが赤くなっていた。
「ネッサ……ネッサ……!」
彼女は意味もなく名を呼んだ。ふらふらと立ち上がり、首元へかじりついてくる。
「良かった……まだ、あなただけでも……」
くすんだ声が耳元でした。ヴァネッサは女の香りと温度を覚えた。心臓がひときわ強く打った。息が止まるような悪意が孵化する。この期に及んで私のことを気遣ってくれるのか。その純粋無垢さが
ヴァネッサはやっとジョーの気持ちを理解していた。すべてはここから始まった。巡ってここへ来てしまった。自分がいるはずだった場所に、いなければいけなかった場所に、奪われた土地に女がいる。私はなぜこうやっている。どうして父さんは死んだ、母さんをこの手で殺さなければいけなかった。それがなければマザーも死ななかったかもしれない、私は幸せでいたかもしれないのに。
視線が転がった弾と銃に流れる。ああ、と艶めかしいような吐息が漏れた。弾けるように動いていた。クレアの胸ぐらを掴み、銃を突きつけていた。
「ネッサ、何を……」
クレアは困惑していた。恐怖さえ訪れていなかった。混乱のただ中で、彼女は未だヴァネッサに救いを求めていた。それこそが、炎に油を注いだ。
「答えろ、クレア。お前がここに、この農場に来たのはいつだ」
「ネッサ、何を言ってるの……? 冗談、なの?」
「言え! いつだ! どうやってここに来た!」
「覚えてはいない、けれど……父は、わたしが生まれたと同時に……」
クレアはどうして、と哀願するような、縋るような眼を向けた。ヴァネッサはなお激しく首元を掴み上げた。
「親父の名前は!」
クレアはためらい、怯えながら告げる。決定的な一言を。
「ドミニク。ドミニク・オーカー……」
ああ、とヴァネッサは呟いた。クレアを突き飛ばし、その勢いで自らもよろめき、座り込んだ。翠の瞳から、滂沱と涙が流れ落ちていた。むせび泣いた。なぜ、とヴァネッサは呟いた。なぜ君なんだ。なぜ私はここへ来てしまったんだ。なぜ私は、君ではないんだ。
「クレア、覚えているか」ヴァネッサはうわ言のように呟く。「私の過去を」
答えはない。クレアは言葉を持たない。方向感覚を失った感情と、わずか一滴落とされた絶望が浮かんでいるだけだった。
平穏な生活があるはずだったんだ、とヴァネッサは呟いた。幽鬼のように彼女は立ち上がった。殺さなくて済んだはずなんだ、と掠れた声が言った。翠の瞳は深淵の淀みを湛えている。奈落よりも深く。
「君の父が、私の家族を殺した。私の人生を狂わせた。君が生まれたからだ」
「ああ、ネッサ……」
「わかるだろう。そこにいるべきなのは私なんだ。君じゃない。私は君だったはずなんだ。なあ、クレア。これは一体何なんだ。何もかも君に奪われた私が、君のために命を賭ける。こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか?」
だから、とヴァネッサの腕が緩く宙へ伸べられる。銃口が向く。外すわけのない距離だ。
「繰り返されるべきだ。私も、一発ぐらい殴り返す権利があるだろう?」
指は引き金にかかっている。クレアの茫と開かれた口が、何か音を漏らす。
乾いた銃声が響いた。
ヴァネッサは動かない。引き金を引いたままでいる。
脳裏にクレアのありとあらゆる表情が去来した。最初は怯え。力を前に何もできない小娘でいる彼女。あの夜のヴァネッサと同じ。次にたくましく前を向く、確かさを湛えた眼。酔漢に立ち向かい市長と渡り合い、スタンリーの脅しに屈しなかったクレア。それから、拗ねた顔。ジョーとヴァネッサの仲に嫉妬した、女の顔。
最後に、満面の笑みが立ち現れる。虹のような。ヴァネッサを救う笑顔。
ヴァネッサは立ち尽くした。右手から、重みに負けて銃が転がり落ちる。
意味のない吐息が漏れた。ヴァネッサのものではなかった。クレアは――大きく碧の瞳を見開いた。弾丸は壁に穴を開けていた。
外れた、いや、外した。己の意志で。
「ネッサ、どうして……」
馬鹿なことを聞くなよ、とヴァネッサは思った。ふらつくような足でクレアへたどり着く。取りすがるように、抱きしめていた。
「私は、君を……殺さない。殺さないんだ!」
出会ってしまって、殺意を抱いた。だが、出会ったから、殺さなかった。クレアの声を聞いた。彼女の生き方が私を変えた。力でねじ伏せようと、それはただ連鎖するだけだ。不毛な殺戮を呼ぶだけだ。教えられたことだ。そんなもの、終わらせなければいけない。
クレアの顔を間近に見た。長いまつげは濡れていた。言葉にしよう、とヴァネッサは思った。抱いた嫉妬と、暖かさと、失いたくないという痛切な思いを。
「クレア。君を、愛している」
愛している、とクレアは融けるように繰り返した。
「遅い、遅いわよ、ネッサ。わたしはね、ずっとそうだった。いつ言ってくれるかって思ってた」
「……本当に?」
「当たり前じゃないの」クレアは微笑む。「誰かのために一歩前へ出る優しさがあって、困難を力に変える強さがあって。そんな気高いもの、わたしは持っていなかった。少なくとも、あなたと出会う前のわたしには」
聞いて、ネッサと彼女は言う。
「あなたでなければいけなかった。『私は君だったはずなんだ』、そう言ったわよね。わたしもあなたに惹かれていた。わたしにないものを持つあなたに。違う道を歩いてきたあなたに。だから側にいてくれるだけで戦えた。あなたがわたしを信じてくれたから」
わたしはここにいる、とクレアは言った。
ヴァネッサは立ち上がる。翠の瞳には、鋭く、力強い光が宿っている。憂いも迷いも、冷笑の靄も晴れた。もう二度と迷うことはないだろう。
行こう、とクレアの手を引く。
「君を逃がす。ケリをつけよう……すべての因縁に」
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