第23話 嵐がやってくる

 銃声に、はっとしてクレアは顔を上げた。向かいに座ったスタンも同じ反応を示した。

 壁沿いに二列ほどの酒樽が並べられ、アルコールの匂いが漂っていた。倉庫の真中だけは空けられて、机と椅子が一対だけ置かれているのだった。

「さあて、どうなるやら」スタンは憎々しげに笑った。「鉛弾の雨が降るぜ。嵐の中、騎士様はここまでたどり着けるかな」

「……来るわ。あの人は、必ず来ます」

「10人からの網を抜けてか? まだ話ができる状態といいがな」

 スタンは椅子を蹴った。銃を抜いて、クレアの額へ突きつける。

「なあお嬢さん。一言くれればいいのさ。『サン・ミランダで馬鹿な真似はしません』とな。『二度と商売の邪魔はしません、申し訳ございませんでした』でもいいんだがな」

「お断りします」クレアは言下に答えた。「わたしには意志があり理想があります。伝えるべき声があります。そのためにずっと進んできた、脅したって簡単には譲らない」

 スタンは感心したように口笛を吹いて嗤った。

「いい顔をするな、お嬢さん。銃にビビりもしねえ」

「怖いですよ」クレアは思案のような率直さで言った。「けれど卑劣な相手に怯むほどわたしは弱くありません。丸腰の女ひとりに、大勢でかかって言う事を聞かせようとするような、恥知らずには。ひとりで話にも来られないのですか」

「お嬢さん、痛めつける方法はいくらでもあるんだぜ。殺さずにな」

 冷ややかな声だった。スタンの顔からは笑いが消えていた。銃を収めたかと思うと、その右手がクレアの頭に伸びて髪を掴んだ。凛とした顔も、さすがに苦痛に歪んだ。

「意地を張るのもほどほどにしろ。次はそのお綺麗な指を一本ずつ折ってやろうか」

「下衆な真似はあなたの格を落とすだけですよ、スタンリー」

 うるせえ、とスタンリーは吐き捨てた。クレアの頭が机に叩きつけられた。鼻から血が流れ出して真白な肌を汚した。幸いに折れてはいなかったが、目の端に涙が滲んでいた。男は荒い息を吐いて嗜虐の笑みを浮かべた。

「わかるだろう、力が強いほうが勝つのさ。いつだってな」

 いいえ、とクレアは首を横に振った。澄んだ碧の瞳は揺るがなかった。

「心の強いほうが勝つのです」

 スタンの目が血走った。今度こそ彼は本当に撃つつもりで銃を抜いた。親指が撃鉄にかかる。洞穴のような銃口を、クレアは睨みつけた。己がどうなるのか、運命から

「最初からこうしておくのが早かった」スタンはくぐもった声で言う。「ビターズは後から殺すほうがいい。すぐに後を追わせてやる」

「ネッサ……」

 祈るように彼女は呟いた。ただひとり、思うのはヴァネッサのことだけだった。さりげない笑顔を、鋭く眇められた翠の瞳を思った。

 スタンリーは見下ろしていた。表情に色はない。男が指に力を入れようとする、その刹那に。

 声を聞いた。

「呼んだか、私を」

 スタンリーは後頭部に金属の重みを覚えた。背後に、返り血でコートを汚したヴァネッサが立っていた。逆光で表情は伺えなかった。ただ目だけが猛禽の光を帯びていた。その視線がクレアと合った。クレアは驚愕に目を見開いて、やがて、はにかむように笑った。

 ヴァネッサはうなずいて、同時に血で汚れた彼女の頬に気づいた。血が沸騰するような感覚を覚えた。

「やってくれたな、コールマン」

 ヴァネッサは静かに言った。氷のような声色だった。荒野であれば迷わず殺していたに違いなかった。だがここは敵地だった。生きて帰らなければいけないという使命感、何よりクレアが向けてくれた微笑が、殺意の奔流を辛うじて制御していた。

 だが受け流すようにスタンリーは微笑していた。彼はクレアの額に突きつけた銃を強く握りしめ、濁った声で言う。

「やるのはこれからだ、賞金稼ぎ」

 上階のそこかしこで物音がして倉庫が明るくなった。5挺のライフルがヴァネッサを狙っていた。

「これで私を殺せるつもりか」

「逆に訊きたいがね、賞金稼ぎ。お嬢ちゃんを五体満足なまま連れて帰られるつもりかね」

「もちろん」ヴァネッサは眉ひとつ動かさなかった。「あんたが引き金を引くより、私が撃ち抜くほうが速い。なぜかわかるか? あんたは死にたくないだろうからさ」

 自信はあった。もっとも、スタンリーを先に殺したところでライフルに穴開きチーズにされるだろうが、そんなことはどうでもよかった。ヴァネッサは自分の命など勘定に入れていなかった。もとよりそういう性分ではあった。裏切りの夜を経て、どうせ人は死ぬという自棄糞やけくそな考えの下二束三文で撃ったり撃たれたりしていた。今は、ただクレアのためだけに命を賭けるベットすることができた。それゆえに過去のいかなる時よりも迷わなかった。

「クレアを無事に帰すなら殺さん。そうでなければ貴様は死ぬ」

 スタンリーは肩を揺らして笑う。

「なるほど、この状況で交渉できるとはな。大した肝っ玉だ、“ビターズ”」

「あんたこそ交渉するつもりだったんだろう。だから殺さなかった」

 ヴァネッサのがさついた声に、男は何度もうなずいてみせた。だがトリガーに指はかかったままだった。それはヴァネッサも、上階の男たちも同じだった。誰もが掌にじわりと汗を掻いていた。小石ひとつで、呼吸ひとつで崩れる均衡だった。

 心音が聞こえるほどの静寂。

 破ったのはやはり。いつかのように、スタンだった。

「オーケー。いいだろう」彼は銃を下ろし手を上げた。それから部下たちにも、外せと手で合図した。張り詰めていた空気がわずかに弛緩した。

 スタンは舌打ちをして、

「いいとも、そっちがその気なら仕事ビズの話をしよう。そちらを向いてもいいかな、ビターズ?」

「話ならこのままでもできる」

「だが引き金に指をかけたままじゃあ疲れようぜ。穏便にいこうや」

 ヴァネッサも銃を収め、好きにしろと言い放った。スタンは慎重に腰を下ろし、ヴァネッサはクレアの後ろに回って縄目を解いた。抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、こらえて「よく頑張ったね」と囁いた。クレアはうなずいた。瞳から一筋涙がこぼれ落ち、頬を伝った。

 さあて、とスタンリーが粘りのある調子で言って、机の上で手を組んだ。

「"ビターズ"よ、お嬢さんはすべて譲らないと言う。さすがにそれじゃあ問屋が卸さねえ。何か提案を持ってきてくれたんだろうな。この状況を打開するやつを」

「私は、あんたのやろうとしていることを全て否定するわけじゃない」ヴァネッサは抑えた声で言った。「要は、酒が売れるならいいんだろう」

「わかってるじゃねえか。だいたい世間に向かって『テメエの売ってる物が悪い』なんて言って歩かれちゃあたまんねえ。営業妨害もいいところだ」

「実際悪い点はあるでしょう」とクレアが口を挟んだ。「酒に酔って暴力の歯止めが効かなくなるなんて、しょっちゅうある話ですもの」

「そりゃあ飲むやつが悪いだけさ。売った後のことなんざ知らん」

「だとすればあまりにも数が多すぎます。平気で中毒になりうるものがあって、それを無制限に売る。危険な行為だと思いませんか」

「お嬢さん、だったら俺たちは飯の種をなくして荒野で飢え死ねってか? それこそ残酷なんじゃねえか。どう思うよ、"ビターズ"」

 ヴァネッサは曖昧にうなずいて、煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吹き上げた。目の端でさりげなく上階の人数が減ったことを確認しながら、スタンリーがむず痒くなるほど緩慢に口を開いた。

「酒を禁止にしなければ?」

「馬鹿言うなビターズ。本数が減るだけでもこっちは大打撃だ。いいか、俺は何十人という手下を食わしてかなきゃならねえ。誰かに死ねと言うのと同じだ」

「何ならもっと減らしてやろうか……」

「慣れない冗談は言うもんじゃないぜ」スタンリーは足を組んで、「いくらか自粛しろってことだろ? その提案は却下だ」

「なら、こっちは参政権運動の際に酒の話を持ち出さない。それでどうだ」

 慌てたのはクレアだった。彼女は振り向いて、待って、と耳打ちをする。

「ネッサ、それじゃあ本来の意味がないわ。わたしたちは酒による被害の根絶が目標なのよ、そのためにどうすればいいかって、選挙権を……」

「クレア、思い出すんだ」ヴァネッサは囁く。「君がなくしたいのは誰かを黙らせてしまう力だったはずだ。声を封殺しようとすることだ。それに選挙権を得てしまえばどうとでもなる」

「でも、それじゃあ禁酒同盟が納得しないわ」

「現状で歩調が合うかも怪しい。ここは私の言葉を信じてくれ。ずっと君が語ることを聞いてきたんだ」

「……そう、そうね。ええ、あなたの言う通りだわ」

 スタンリーは不愉快そうに指で机を叩きながら、

「ずいぶん長い密談だな」

 失礼、とクレアは平然と答え、真正面からスタンリーを見た。

「わかりました、こうしましょう……禁酒法に関しては主たる目標とはしません。活動をするにあたっては、あくまで選挙権を得ることを目的とします」

「政治はまだ諦めねえってか」

「そこは貴方が譲る所では、スタンリー」クレアは背筋を伸ばした。「この話し合いは、互いに妥協点を見つけることが目的でしょう」

「それにしたって今まで通りやられちゃあ困るんだ」

「多少は頻度を減らそう」ヴァネッサが横から口を出した。「代わりにそちらも一切の邪魔、嫌がらせもしない。あちこちへ圧力をかけるのもよしてもらおう」

 スタンリーは「最初からそう言やあいいものを」とこぼして腕を組み、うつむいて考え込んでいた。本気で検討している様が見てとれた。

 転ぶだろう、とヴァネッサは踏んだ。自分の商売にしか興味のない男だ。これまでの迂遠にも思える動きを見ていれば明白で、同時に騒ぎになるような怪我を恐れてもいる。警察や市長との関係は、極めて繊細ナーバスな問題なのだ。

 果たして、スタンは髭を撫で、口を開く。

「だが、"ビターズ"。忘れてもらっちゃ困る。こっちは痛手を負ってんだ」

「表の何人か、か? それは悪いが受けてもらおう。殺す気で銃を向けられたら私だってやらざるを得ない。できる限り工夫はしたがね」

「いんや、そうじゃない」スタンは昏い目をした。「マックを忘れちゃいないか」

「話には聞いた……疑われていることもな。残念ながら私じゃない。だいたいしばらくサン・ミランダに来ていなかったのだから」

「証明できるか……」

「そいつは難しいが、もうひとつ情報がある。マックの殺され方だ」

「拷問だ、あれは」スタンは唾を吐いて悪い面相を剥いた。「賞金稼ぎらしいな」

「それは間違っていない。ここ最近、賞金首が狩られていたのを知っているか」

「ああ。それもあんたじゃないのか」

「生憎とね。それでスタンリー、殺されたやつ、マックだったか、その周囲に心当たりはないのか。殺したやつは、なにか裏の情報を引き出したかったんじゃないのか。例えば酒の闇醸造所の場所だとか、あんたが何者で、どういう仕切りをしているとか」

 男の表情が変わった。薄ら寒いものを覚えたらしかった。ヴァネッサはゆっくりでいい、と呟いて煙を吐いた。スタンリーの視線が落ち着きなくさまよった。何か知っている、と直感させるだけのものはあった。ヴァネッサは早口に問うた。

「スタンリー、彼は何か絡みがあったんだな、密造酒に」

「一度運搬途中の酒が奪われた」スタンリーはこめかみを叩き、「ああ、畜生ファック。そうだ、思い出したぞ。ソウも殺されたんだ。やつも皮を剥がれて……」

 出し抜けに、外で凄まじい音がした。建物が地震かと思うほどに揺れた。破城槌が撃ち込まれたようだった。次いで悲鳴とけたたましい笑い声が聞こえた。全員の視線が表の扉へ向いていた。スタンリーが悪相を剥いて絶叫した。

「やべえぞ!」

 叫びと同時に扉がぶち破られ、飛び込んでくるものがあった。荷車だった。マキシム機関銃が載せられていた。だが、ヴァネッサの視線は違うところにあった。射手を見ていた。

 男だった。生白い顔は剃り上げられ、髭はなかった。妙に赤い唇が、歪んだ笑いを湛えていた。全身に鳥肌が立つ。氷像のように立ち尽くす。掠れた声が喉から漏れた。裏切りの夜が、炎が眼前に立ち現れる。私は知っている、あの男を。すべてを台無しにしてしまう悪魔を。

 ケリー。人の形をした化物。

 彼は帽子を取り、慇懃に一礼してみせた。

「やあやあ紳士諸君。嵐の時間だ!」

 機関銃が火を吹いた。二階の男たちは反応もできず、藁人形のように倒れていった。樽からは酒が流れ落ち、床が琥珀色に染まっていた。ヴァネッサは咄嗟にクレアを引き倒し、樽の陰へと逃げ込もうとした。銃火の中、スタンリーが吠えた。

「女ァ! 裏切りやがったな!」

 銃口はクレアを向いている。撃ち返す余裕はなかった。包むように庇った。スタンリーの拳銃が火を吹く。背中から腹へ、灼けるような痛みが走った。肺から空気が漏れ出して、ヴァネッサは溺れるように這いつくばった。その上を機関銃が掃射していく。

 ネッサ、死なないでと繰り返し呼ぶ声がした。ヴァネッサは奥歯を噛みながら物陰を探し、壁沿いに身体を引きずって歩いた。視界が歪んだ。ここから離れなければという一心だった。自分の身体も命もどうでもよかった。

「クレア……あの男は、駄目だ……」

 ただそれだけを何度も呟きながら、出口へと向かった。男たちが走り込んでくる流れとは逆だった。誰もヴァネッサたちに目はくれなかった。それよりも今目の前にいる獲物を仕留めるべく、ケリーの手下たちは銃弾をばら撒いていた。

「ようし、もっと行け! 全員撃ち殺せ! 塵も残すな!」

 ケリーが高らかに叫んでいた。背後で殺戮が始まっていた。

「ネッサ! どこを撃たれたの! 馬鹿! わたしなんか庇って!」

「うるさい、クレア……今は、逃げろ……」

 冷たい路面に倒れ込む。辛うじて残った力で口笛を吹いた。すぐさま蹄の音が聞こえた。キャンディだった。

「いいか、クレア、逃げろ」ほとんど吐息のような声だった。「ここから、逃げて……家からも離れるんだ……」

「駄目よ! それなら、あなたも!」

 クレアはヴァネッサを鞍へ押し上げた。血がインクのようにこぼれ落ちた。ヴァネッサの視界は暗く、狭くなりつつあった。

「ネッサ、頑張って!」耳元で声がした。「こんなところで死んでどうするの!」

 朦朧とした意識の中、ヴァネッサは背中にかすかな温もりを覚えた。初めて神に祈った。私のことはいい、クレアだけは助けてくれ、と。

 それが最後の記憶だった。 

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