第21話 Cruel,Cruel World

 ダイニングには耳障りな細かい音だけが響いていた。ヴァネッサは貧乏ゆすりを止められなかった。食器は二人分用意されていたが、用意されているだけだった。ヴァネッサは鍋を火から下ろしてしまっていた。

 とうに日は暮れたというのに、クレアは帰らなかった。「ジョーと話をしてくるわ」と言って彼女は出ていった。もちろんヴァネッサも同行しようとしたが、「ほんの半マイルよ。何かあっても叫べば届くわ」と譲らなかった。確かに、姉妹の話に嘴を突っ込まないほうがいい、とその時は思った。あるいはクレアひとりなら、ジョーも冷静になってくれるかもしれないという甘い希望的観測もあった。


 ジョーはあれから屋敷を出て行っていた。詳細は知らせようとしなかったが、オーカー家の所有する別の邸宅にいて、禁酒同盟の何人かと共同生活を送っているということはわかっていた。

(向こうが大勢いるのだから、やはり私も行ったほうがよかったか……)

 ヴァネッサは爪を噛んだ。これだけ遅いと、下手をすると喧嘩になっているかもしれないだとか、ことによると狼でも出たのではと想像が膨らんで、いてもたってもいられなくなった。上着を羽織り、キャンディを走らせた。

 道は平坦で、そう時間はかからなかった。不思議とどこの畑にも人気ひとけがなく、不吉な予感がヴァネッサを貫いた。家の前まで馬をつけ、荒っぽくノッカーを叩いた。

「何だよ、うるさいな」姿を現したのはジョーだった。「……ヴァネッサ。何だよ」

「クレアが来ただろう。いるか」

 ジョーの顔が曇った。

「まだ帰ってないのか? かなり前に出たぞ」

 本当か、と言ったつもりだったが、ヴァネッサの舌は回っていなかった。砂嵐が押し寄せてくる感覚を覚えた。膝をつきそうになったが、ジョーの前で弱さを見せるわけにはいかなかった。

 いつ頃だ、とヴァネッサはあえぐように訊いた。ジョーは右目を眇めて、

「二時間は前だ。寄り道してたとしても、足腰の立たないババアだって帰ってる。どうせ入れ違いにでもなったんだろ」

「あり得ない。ここまでの道のりを知っているだろう、すれ違ったのならまずわかる。……ああ、畜生ファック、どこか心当たりはないか、クレアが行く場所に」

「知らんね。探すのはあんたの仕事だろ」

 閉まりかける扉に、ヴァネッサは足を差し入れた。二人の視線が合う。ジョーは不快を隠そうともせず、なんだよ、と呟くように言った。無関心さに、ヴァネッサは心がささくれ立つのを覚えた。知らず、言葉が飛び出していた。

「君はクレアのことを嫌いになったのか。姉妹だろう。心配するものじゃないのか!」

 なじる調子にも、真っ当な道理にも、ジョーの心は動かなかった。かえって苛立ちにため息をつき、

「ヴァネッサ、子供の頃からずっと、小突かれてきた側の気持ちがわかる? しかも相手は悪意なんてなくて、こっちを意識しちゃくれない。姉さんを角に追い込んだんだ、一発ぐらい殴り返す権利がある」

「君は変わった、ジョー。会った時はクレアを自慢に思っている、そう言ってただろう」

 ジョーは嗤った。日に当たりそこねた花の歪さが香った。

「変わっただって? あたしは何も変わってない。何なら変わったのはあんただよ、ヴァネッサ。最初はあたしたち上手くやれてたしやれると思ったじゃない。なのにあんたもあたしのことは気にもかけなかった。こうなるのは必然だったんだよ」

 あんたも。ジョーはそう言ってヴァネッサの首元に視線を向けた。翠のネッカチーフだった。毒を含んだ言葉は心臓を抉った。ジョーの言葉は真実だった。脳裏に「そんなことは知るか、君の問題だろう」という抗弁が浮かんで霧散した。今この状況を引き起こしていることに、自分が絡んでいることは確実だった。あるいは、とヴァネッサは思う。私がこの仕事を受けていなければ。

「姉さんは凄いんじゃない、実際」ジョーは軽く目を見開いた。「けどあたしだってやれる。何なら今はあたしのほうが上手くやってんだ。見てみなよ」

「何かあったのか。誰かの入れ知恵か」

「あたしがあたしで決めた。ただ後押しはあったかもね。考え方が正しいって同調してくれるひとがいたから」

 同調してくれるひと。ヴァネッサは言葉の端を捕まえた。やはり、後ろに何かがいる。だからここまで強気になれるのだ。

「ジョー、もう一度訊く。君は誰かと組んでいるな。そいつはどこにいる」

「言う必要はないね」

「髭のない男じゃないだろうな。白人の、東海岸訛の……いいか、よく聞け。あの男は化け物だ、味方になってくれるような人間じゃない。君の手に負える相手じゃ……」

「ヴァネッサ、話はおしまいだ」ジョーが遮り、後ろを顎で指した。「郵便だよ」

 振り向くと、若いメッセンジャーが困惑した表情で立っていた。彼は恐る恐る手紙を差し出し、

「ジョアンナ・オーカーさん宛に……すぐにご覧いただきたいとのことで」

 ジョーは不思議そうに眉をしかめ、指で封を切った。顔色は一瞬にして蒼白になった。幽霊でも見たように頬が引きつっていた。

 どうした、と訊いたヴァネッサに、ジョーは一瞬手を引っ込めかけて、結局渡した。おぼつかない口から、混乱の呟きが漏れた。

「姉さんが……そんな、ここからそこだぞ……?」

 ヴァネッサはひったくった。なぐり書きの、短い一文だった。"サン・ミランダ東の倉庫"。ただそれだけだった。

 目眩を覚えた。いつになく心が乱れていた。こめかみに銃を突きつけられた時、グリズリーに背中を取られた時もこれほどではなかった。動揺が即ち死につながることは知っていた。落ち着け、落ち着け、とヴァネッサは心の中で繰り返しながら深呼吸した。

(いいか、ヴァネッサ・ミラー。よく考えろ。まだ最悪の状態じゃない)

 クレアはまだ生きているに違いない。居場所を知らせるということは、スタンリーにはまだ交渉する気があるということだ。もしくは、

(私をおびき出して殺すことで、状況を決定づけたいと考えているか)

 それなら構わないと思えた。鼓動が平静を取り戻し始める。

 反対にジョーは悪相を剥いて、

「舐めた真似しやがって……! まだ懲りねえのか、クソ野郎が……!」

「ジョー、事態をこじれさせるな。私がひとりで行く」

「は、誰が信用できるか! あたしが助ける!」

「どうした、クレアにはパンチを入れたかったんじゃないのか。あの娘を探すのは私の仕事だったんじゃないのか」

 意趣返しは綺麗に決まったようだった。ジョーは顔を背けて、

「別に死んで欲しいわけじゃない。それにあんたが動くことは止められねえよ」

「邪魔だけはしてくれるな」

 ヴァネッサは踵を返す。帽子を目深に被り、煙草に火を点けた。煙の向こうで、翠の瞳が暗く深い色を帯びていた。

「あんたは失敗するよ」ジョーがその背中に怒鳴った。「こっちはそれを見越して動いてやる。腰の重い用心棒様とあたし、どっちが先かな!」

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