第20話 雷が鳴り、

 重苦しい帰路だった。彼方に雷鳴が聞こえた。クレアは一言も口を利かず、静かに目を閉じていた。かける言葉もなかった。今できることも。ヴァネッサは華奢な肩を抱き寄せた。クレアは抗わなかった。

「ごめん、ネッサ。さすがに、少し疲れているのかもしれない」

「そういう日だったんだ。今日が嵐の日だった。それだけのことだ。川はいずれ、いつもの清流に戻る、そう決まっている……はずだ」

「『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」クレアは福音書の一節をつぶやいた。「きっと今日も、見てくださっている。そう信じて、信じてはいる、だけれど……」

 終わりは涙声になっていた。あまりに長い一日に、彼女は心身とも疲弊しきっていた。ヴァネッサは回した腕に一層力を入れて、眠っていていいよ、と低い声で囁いた。状況は予断を許さない、だからこそつかの間でも安心していて欲しかった。

(君が休んでいる間こそが、私の働き時だからね)

 鬱蒼とした森を抜けて、視界が開けた。風が流れて、焦げた臭いを覚えた。ヴァネッサの直感はすぐさま異変を感じ取っている。屋敷のほうへ目が向いた。空が異常な明るさを抱いている。まるで昼日中のような。焼けていく農場とあの夜のキャンプが脳裏に蘇った。

 まさか、とクレアも呟いた。敏感に察していた。ヴァネッサは歯を食いしばり馬に鞭を入れた。これ以上ないほどに強く。


 家の前では炎が赤々と燃え盛っていた。その周囲に女たちが集まっていた。みな白いドレスを纏っていた。彼女たちは奇声を上げ、踊り回っていた。整然とした奉仕活動の姿からは思いもよらないほどの、乱痴気騒ぎだった。

 なにを、とクレアは呻き、立ち尽くした。数え切れないほどの樽と馬車の残骸が火にくべられていた。

 ヴァネッサはその匂いに気づいていた。あまりに馴染み深かった。バーボン・ウイスキーの芳醇な香り。誰かが瓶を投げ入れた。ガラスの砕け散る音がして、歓声が起きた。やりやがった、とヴァネッサは呟いた。お前たち、

「やあお二人さん。戻ってきたか」

 昂ぶった声がした。ジョーが、火照った顔で笑っていた。

「見ろよ。連中の商品を奪ってやったぜ。どうせ違法なやつだ、構やしねえ。これで誰を、どんな相手を敵にしたかわかったはずだぜ!」

 即座にクレアが掴みかかった。

「ジョー……何を、何を馬鹿なことを! あれほど言ったでしょう! こんなことをして何になるの! もっと悪くなるだけだわ、ただ繰り返されるだけだわ、あれほどわたしが聖書を読んで聞かせたのに、話してきたのに、何もわかっていなかったの……!」

 ジョーはほほ笑んでいた。不気味なほどに冷静だった。彼女はクレアの指を一本一本剥がし、子供に教え聞かせるようにゆったりと、口を開く。

「姉さんは何もわかっちゃいない。現実を見なよ」

「見えていないのはあなただわ! どうしていくつもりなの、これから! 選挙権は平和に声を伝えるための力だわ、禁酒法は暴力をなくすための手段でしょう! こんなやり方は、まったく意味がないことよ!」

「お題目を語るか? それはになるんだい、姉さん。スタンの襲撃から助けてくれるのか?」

「違う、違うわジョー。そんな話じゃないのよ!」クレアは激しく頭を振った。「わたしたちがどんな社会を目指しているか、思い出して。みなの声が平等に届く世界よ! あなたはまったく逆行している、暴力ですべてをねじ伏せようとしている! そんなことで解決はしないわ、だから今わたしはこうやって話しているんじゃない!」

 ジョーは乾いた笑いを漏らした。鳶色の瞳には怒りが浮かんでいた。

「姉さんは人の気持ちがわからない。ずっとあたしが思ってきたことも。誰もあたしのことなんか見ない、綺麗な姉さんに声をかける。どれだけその金髪美しさがうらやましかったか! それに賢い姉さんは大学に行かせてもらった、世界の色んなところを見られた。こんなクソ田舎で、何もせず一生を終えることはない。じゃああたしは? こういうことよ。声が平等に届く? は、笑わせないで! あたしの声は姉さんにさえ届かなかった、一番近い相手にも!」

 クレアは雷に打たれたように立ちすくんだ。それが一層、ジョーの嗜虐心に火を点けた。初めて姉をねじ伏せたと気づいてしまった。快感が彼女の全身を貫き、煽るように後ろにいる女たちへと呼びかけた。

「姉さん、みんなの声を聞いてごらん。あたしが正しくなったんだ。誰もがあたしを見てるんだ! さあ、どうだ! あたしたちは間違っちゃいないだろ?」

 一人が進み出てきた。彼女はヒステリックに叫んだ。

「あいつらが暴力を振るってきたのよ! こっちがやり返したっていいでしょう! よ!」

 そうだ、と有象無象は呼応した。自分もやられたんだ、と同意する声もあった。「髪を引っ張られたのよ!」「唾を吐かれたわ!」

 ヴァネッサは、いつかのシュプレヒコールを思い出した。簡単な解答らしきものへただ追従する女たちの、群衆の振る舞いを、見た。

 いいぞ、とジョーが手を突き上げて叫ぶ。

「あたしは戦う! ついてくるやつはいるか!」

 女のものとは思えない雄叫びが上がる。クレアは呆然と立ちすくむ。彼女へ振り向くものは、もはや一人もいない。勇敢でを持っているジョーが英雄だった。

 ヴァネッサはマッチを擦り、煙草に火を点けた。

 ひどく小さな火だった。

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