第19話 光なんだ

 前日の雨でサン・ミランダへの道は荒れていた。馬車は何度も大きく揺れた。とうに日は暮れていたが、それでも行かなければならなかった。手綱はヴァネッサが握り、クレアは隣で身を固くしていた。

「どうしても、今でないと」クレアの声には焦りが滲んでいた。「市長に会うわ。それから、禁酒同盟の人たちを集めないと。これ以上何かあったら……」

 君は平気なのか、休まないでいいのか、とヴァネッサは出かかった言葉を押し戻した。疲れたとクレアから口にしない以上、こちらからむやみに言うことではないように思えた。クレアの前髪はところどころほつれて頬にかかっていた。だが毅然と前を向いていた。充血して真っ赤な目には、まだ抗おうとする光が宿っている。

(君が行くというなら、私はただ支えるだけだ)

 ヴァネッサは唇を引き結んだ。黙って、ただ馬を走らせた。


 街はほとんど寝静まっていた。酒場こそまだ明かりが灯っていたが、商店は固く閉ざされ、市長の家も同じだった。それでもクレアは裏門に回り、執事を呼び出した。迷惑そうな気配をにおわせながら、どのようなご要件で、と彼はすました顔で訊いた。

「禁酒同盟の話です」クレアは早口に言った。「わたしたちは明確に攻撃を受けている、コールマン・エクスプレスです! スタンリーの部下はわたしたちを狙って銃を撃ってきたわ、恫喝よ! 警告を出して……」

 クレアは叩きつけるような口調で一連の出来事と法理論をまくし立てた。華奢な身体のどこからこれだけの怒りが溢れ出たのかと思うほどだった。

 だが、執事もこういった客の扱いには慣れていた。お気持ちはわかりますが、と平坦な声でたしなめ、

「私権制限には手続きが必要ですし、十分な証明が必要となります」

「もちろん、存じていますわ。けれどこちらは銃を撃たれているのです。わかりますよね? 貴方だったらどうなさいます? 取り掛かるのではなくて?」

「いずれにせよ日を改めてお願い申し上げます。お話しいただいた内容はしっかりと市長のほうへ伝えさせていただきますが、今は不在ですし……やはり、約束のない方とお会いすることは」

「この緊急事態でも、ですか」

 じるような言い方だった。執事は答えず、懐から小さな紙片を出した。

「オーカー様がいらっしゃった際には、これを渡すようにと言われておりまして」

「市長は、今どこに……」

 申し訳ございませんが、と執事は扉を閉めた。ヴァネッサは二階を見上げた。言うまでもないことだが、カーテンの隙間からは光が漏れ出ていた。不在、か。本当にいないかどうか確かめてやろうか、と凶暴な考えがよぎった。

「そう……そういうことなのね」

 クレアの呟きが聞こえた。彼女は立ち尽くしていた。やがて激情が訪れた。彼女は渡された紙を引きちぎり、怒りによろめいた。ヴァネッサは肩を抱きとめ、どうした、と訊いた。クレアは自嘲の笑いを漏らした。

「これまでの計画は一度白紙に戻させてくれ、と」

 ガス灯の、霧ががった光が石畳に落ちていた。ヴァネッサは苦々しく首を振る。

「スタンリーが仕掛けたか……もしくは、ジョーが」

「やってしまったかもしれないわね」

 クレアは眉間に深く縦皺を刻んで黙り込んだ。下手をすると叫びだしそうだったが、その口元が緩んで、無惨な嘲笑へわなないた。ヴァネッサは強く抱きかけたが、いいの、とクレアは首を振って拒んだ。

「行かないと」クレアはほとんど突き飛ばすようにして歩きだした。「事を突き止めないとまずいわ。急ぎましょう」

 けれども、次の試みもまた、徒労に終わった。禁酒同盟は誰一人捕まらなかった。いくつかの家を訪ねて歩いたが、「知らんね」「何か会合があるんじゃないの」と、にべもない答えだった。何よりヴァネッサを動揺させたのは、「あんたのせいで酷い目にあったんだよ!」という一言だった。

「酷い目?」クレアはか細い声で訊いた。「会員が、何か……?」

 熊のような亭主は唾を吐いて睨みつけた。

「禁酒だか何だか知らねえが、ギャングの連中がやってきてうちの店をめちゃくちゃにしてくれたんだぞ! 嫁は出ていって戻らねえし! どうなってる!」

 床屋の床には鋏と髭剃りが散らばり、鏡は割られ、バスタブには罅が入っていた。しばらく商売にならねえと彼は吐き捨てた。預かり知らぬところで抗争は始まってしまっていた。クレアが練った政治的な策も、ヴァネッサがあれだけ堪えたことも、すべては無に帰していた。クレアの顔色が目に見えて悪くなっていくのがわかった。

 何に謝っているのかわからない謝罪をして、二人はとぼとぼと街路を歩いた。すぼめた肩に潮風が吹きつけた。秋の、身に沁みる風だった。

「どうすればいいの……」クレアはうわ言のように呟いた。「もう頼る当てもない、状況もわからない……」

 ヴァネッサは天を仰ぎ、帽子を被り直した。

「クレア、まだ終わったわけじゃない。私たちはまだ生きている」

「ええ、ええ。それはその通りよ。けれどヴァネッサ、わたしにはやらなければいけないことがあるのよ。声を届けるための選挙権と言っておいて、ここに来てわたしの声さえ誰にも聞いてもらえない。どうしたらいいの、どうすれば進めるのよ!」

 クレアは顔を覆った。心配するな、と呼びかけた声は虚しく宙に消えた。どうにかすることなどできなかったし、解決方法も見つからなかった。ただ隣にいるだけの自分に、ヴァネッサは脱力感を覚えた。ただ銃を持っているだけでしかないと思った。すべてを安易に解決できるはずの弾丸ちからは、今は何の役にも立たなかった。

(それでも私が、私だからできる何かを)

 巡らせた頭に、ただひとつ、あまりにも分の悪い賭けが浮かび上がった。通らないだろうとも思った。だが話しておく価値はあった。既に最悪の事態を想定していた。自分が、ただ側にいることもできなくなった時のことさえも勘定に入れて。

 ヴァネッサは低い声で言った。

「クレア、最後に一箇所だけ寄らせてくれ。これで駄目なら、帰ろう」


 パイプを咥えていたウィルが、憂鬱そうに顔を上げた。

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

「話すのは私じゃない」ヴァネッサは後ろを指した。「彼女からの告訴だ」

 クレアは落ち着きを取り戻しはじめていた。理路整然と、いつ、誰に襲われたかを説明した。禁酒同盟のことはおくびにも出さなかった。これはあくまで別件だというように、懸命に訴えた。

 これをおれに言ってどうするんだ、聞いてしまったじゃないか、とウィルは恨みがましい目つきで聞いていたが、少し唸ってから口を開いた。

「オーカーさん、我々は事件の発生をまだ確認できていないのです。訴えがあったからには捜査を始めさせていただきますが。ですから、しばし時間をいただければ」

「時間はないのです、署長。今この時も出血し続けています。まもなく死に至るであろう傷なんです!」

「それでも法に則って動くしかありません。我々はそういうものなのです」

「相手が法を犯しているのに?」

「事実を確定させる必要があります、オーカーさん」

 クレアは目を剥いた。激昂に足が震えているのが見えた。今にも怨嗟が飛び出しそうだった、しかし結局は瞑目して天を仰いだ。、と掠れた声が漏れた。

 一番いい結果にはならなかった、とヴァネッサは思った。しかしクレアの言葉は確実に効いていた。ウィルは気まずそうに視線を落としていた。本当に何もなかったことにはできない、聞かなかったというわけにはいかない。ウィリアムが、いくらかの情を持ち合わせている男である以上。

「クレア、ここからは私が」

 わかったわ、とクレアは大きくため息をつき席を立った。すれ違いざまに見えた瞳には涙が滲んでいた。ヴァネッサは奥歯を噛み締めた。必ず譲歩を引き出してみせる、それまでは動くまい、と固く決意した。

 二人になってしまうと、ウィルは額を押さえて大きくため息をつき、

「ヴァネッサ、だから言っただろう。厄介だと。よくもまあ首を突っ込んでかき回してくれたな」

「理解してるさ。状況もあんたの立場も」

「それなら、勘弁してくれ。お前さんが何とかするしかないんだ」疲労を隠せない声だった。「いつか言ったように、わしらは関わることができん。仮にわしが首を飛ばされたとしても、次に来るのは動かないやつだ。いや、それだけならいい……お前さんらを逮捕するかもしれんぞ」

「そうなる前に、とうに私は死んでるよ」

 氷のような言葉だった。ウィルは顔をひきつらせて黙り込んだ。ヴァネッサはなお畳み掛けるように、

「マックに関する情報をくれ。誰がやった」

「捜査内容を部外者に教えるのは違法だが」ウィルはため息をつき、両手で顔を拭って、「今からは独り言だ。いいな、ヴァネッサ」

「助かるよ、ウィル」

 ウィルはバレたら首が吹っ飛ぶなとこぼしながら、ひきだしから分厚い書類の束を取り出した。

「あぁ……まずは発見されたのは一昨日の夜。両手と顔の皮が剥がれていた」

「そこまでは知っている」

「じゃあこいつはどうだ。『現場近くでソウを見かけたやつがいる』」

 聞き覚えのある名前だった。「例の債権回収の仕事も、|奴さんが死んじまったし」といつかウィルが言っていた。その奴さんこそがソウという男だった。

「死人が生き返ったとでも?」

 いや、とウィルは苦笑いを浮かべ、

「そうは言ってない。ただ目鼻立ちはそれらしかったというだけだ」

「手短に頼むよウィル。私は今気が立ってる。あんたもテメエの腸で作ったソーセージを食わされたくはないだろ」

「ヴァネッサ、思い出せ」ウィルは声を潜めた。「ソウも

「……同一犯だと言いたいのか」

「殺しがあったと思われるのはずいぶん遅い時間だ。もし皮剥ぎクソ野郎がソウの皮を被ってたら」

 ヴァネッサは硬直した。額にどっと汗が吹き出すのを覚えた。皮を剥ぐことに固執する。そんな壊れた野郎がいたとしたら。まさか。

「ウィル、白人を見てないか」ほとんど飛びかからんばかりにして言った。「顔に髭の一本もない男だ。ケリーと名乗ってる。あるいは、ヘッズマンと誰かが呼んでいたかもしれない。聞き覚えは……」

 ウィルは思い出すようにしばらく口元を押さえたが、いや、と首を横に振った。

「わしは見ていないし、ここには現れていない」

 そう、と呟いたが、胸の霧は晴れなかった。ウィルはそこへ遠慮がちに、

「なあ、一応訊くがマック殺しは……」

「私なわけがない。そんな遠回りをやるぐらいなら、スタンの一味なんかもう皆殺しにしてる。知ってるだろう」

 だろうな、とウィルは苦笑する。ヴァネッサの言葉を冗談だとは思わなかった。一人でギャングを相手にすればほぼ確実に死ぬだろうが、道連れにはするだろうと感じた。それだけの腕前と、自分の命など勘定に入れない淀みが、女の中に流れていることを、警官としての経験で知っていた。

 ウィル、とヴァネッサが呼びかけた。真正面から翠の瞳が見つめていた。いつになく真摯な色だった。

「最期にひとつだけ頼みがある。きっと話すことはもうないだろうからな。……ああ、勘違いするな。兵隊を出せって言ってんじゃない」

「聞くだけ聞こう。約束はできん」

「私に何かあったら、クレアだけは守ってくれ。あの娘の身の安全だけは確保してくれ。それぐらいの貸しはあったはずだろう」

 ウィルは不承不承ではあるが、いいだろう、とうなずいた。

「だがその時は物事が決まってしまってからだ。あんたがいなくなった後だ。無抵抗の女を警察が守る、そのことに反対はされんだろう」

 そう願いたいよ、とヴァネッサは苦笑し、煙草を咥えた。ウィルが手際よくマッチを擦り、火を点けた。不味い煙草だった。

 ウィルがパイプの煙を吐き、ぽつりと呟いた。

「いい娘そうだな」

「あんたにもわかるか」ヴァネッサは静かに言った。「クレアは、光なんだ」

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