第18話 ウィンチェスター銃’73
ほとんど口喧嘩のようなその夜を境に、クレアは悄気返っていた。ジョーは度々家を空けるようになり、オーカー家はいっそう静かになっていた。お節介なメアリの笑い声も聞こえなかった。ジョーが「何かあったら」と実家へ帰してしまっていたのだった。その判断は悪くない、とヴァネッサは思ったが、通夜の気配は耐え難かった。自然と食事の間にする会話も減っていき、憂鬱は大時計の塵に比例して積もっていった。
何かきっかけが欲しくて、ヴァネッサはいつかのようにクレアを遠乗りに連れ出した。芸がないなと思ったが、他に思いつきもしなかった。
山の麓まで行きましょうとクレアが言った。二人は道など関係なしに駆けた。冷たくなり始めた風が頬を切っていったが、無心に鞭を入れた。何もかもを忘れたかったのだ。遮るものは何もなかった。驚かされた兎が草むらから飛び出して逃げていった。雨上がりの地面が光っていた。
「ああ、もう……無理だわ……」
クレアは息も切れ切れに、岩の上へ座り込んだ。目見当で10マイルと少し、休みもせず駈歩と速歩を繰り返しながら走ってきて、人も馬も疲れ切っていた。キャンディとメープルは並んで川に頭を突っ込んでいた。
さすがにヴァネッサも肩で息をして、
「君もよく走らせるものだね……明日、尻が酷く痛んでも知らないよ」
「それはそれで仕方ないわ。ネッサに勝つには、相応の代償を支払わないとね」
「本当に君は、負けず嫌いだな……」
ヴァネッサは苦笑した。しかしクレアのほうでは自覚がないらしく、小首を傾げ、
「そうかしら、ジョーのほうがよっぽどだと思うけれど」
「どっちもどっちだよ。姉妹さ」
「でも、ジョーは凄いわ」クレアは苦笑いする。「あの子は働き者で身体も強いし、決断力もある。せっかちなところもあるけれど、すごく悪いことではないわ。わたしたちは二人でいるから、上手くやれていると思う。……思っていたの、だけれど」
風船のすぼむように、声が小さくなっていった。
ヴァネッサから見ても、二人はちょうどよい姉妹だった。お互いを支え合って、補い合っていた。どこでどう変わったのか。スタンリーの脅しが変えてしまったのか。ヴァネッサにはそうとしか思えなかった。あの一件が、せっかちだというジョーの性分に悪さをしたと思っていた。
「ごめんなさい、せっかく遊びに来たのに」クレアが情けなく笑った。「最近はどうしても同じことばかり考えてしまって。いけないわね、こんなことでは」
「私も同じだ。だが、クレア。まだ何も始まっていない。終わってもいない。君は君の良さを活かして戦えばいい。ジョーにも伝わっていたのだから、思い出せば以前のように戻れるはずだ」
「わたしの、良さ」
「そうだ。君は私にないものを持っている。優しさだとか、理知的であるところだとか。思いやりもそうだ。君に生まれていれば良かったと思うところさえある」
「どうしたの、ネッサ。ずいぶん褒めてくれるのね。気を遣ってくれているの?」
クレアが愉快そうに目を細めた。
「参ったな」ヴァネッサは頬を掻いて、「わかりやすかったかい」
「それは、もちろん。だいたい今日だって付き合ってくれ、なんて言ったけれど、そもそもわたしのためでしょう。不器用なのね、ネッサ」
「……すまない、人付き合いを避けてきたものでね」
ううん、とクレアは首を振って、
「嬉しかったわ、とっても」
花開くような笑顔だった。ああ、とヴァネッサは吐息を漏らした。息が詰まるような感覚を覚えて、何も言えなくなった。それは母を殺すあの最後の瞬間に似て、しかし少しだけ違っていた。その感情の名をヴァネッサは知っていて、聞こえないふりをした。すべては事が終わってからだと、上手い
ヴァネッサは煙草をくわえて火を点けたが、それはいつもよりぎごちなかった。誤魔化そうと露骨に咳をしてみせて、
「そういえば、ひとつ訊きたかったことがあるんだが」
「わたしに? もうたいていのことは話してしまったと思うけれど」
「なぜ婦人参政権運動を始めたのか」
そうね、とクレアは悩ましそうに眉間に皺を寄せ、
「色々あるわ……以前話したと思うけれど、奉仕活動をしているとね、お酒の害で身体を悪くしたり、夫に暴力を振るわれた女の人をたくさん見て。少しでも良くなればって思って」
「本当に、それだけかい」ヴァネッサの、翠の瞳が深く覗き込んだ。「それだけでこれほど、命を賭けるほど必死になれるかな。君の
クレアは目を伏せて、膝をきつく合わせた。やがて薄膜のかかったような瞳で笑った。
「やっぱり、ネッサにはわかってしまうのね。……父の話は、したかしら」
いや、とヴァネッサは首を横に振った。ジョーから数年前に亡くなったと聞いていた、それだけだった。
「わたしが小さい時、3つか4つかしら、その頃までは父さんもあまり……その、良い人ではなくて。酒を飲んで荒れていたの。わたしやジョーに暴力を振るうことはなかったけれど、皿を割ったり、物を投げつけたり。身内の恥だから言いたくはなかったのだけど」
クレアは小さくため息をついて、先を続けた。
「ただ、母が亡くなった時に酒はやめてくれた。それからは良い父親だったわ。知恵は武器になると言って勉強させてくれて、本もたくさん買ってくれたし。大学にも行かせてくれた。でも、本当のことを言えば、ずっと怖いままで。記憶は消えなくて。だから……」
「ウイスキーを恨んでいる? 世界からなくなればいいと思うかい」
どうかしら、とクレアは曖昧に首を傾げた。
「難しいわね。そうじゃないと言えば嘘になるけれど、本当に恨んでいるのは違うかもしれない。今、ネッサに訊かれて気づいたわ。きっと暴力のほうが、よほど嫌い。無理矢理に誰かを黙らせてしまう力が嫌い。だって、声が届かない。話を聞いてくれないもの。父さんがそうだったように。ええ、そうよ。世界には嘘や不条理で満ち溢れている。わたしたちは立ち向かわなければいけなくて、けれど声が聞こえなければ何もなかったことになってしまう。だからわたしは選挙権にこだわっているのね、きっと」
何もなかったことになってしまう――ああ、まったくそうだ、とヴァネッサは思った
裏切りの夜を知る者はいない。自分が何もできず、銃も今のように使いこなせなかったから、ミッドナイトもマザーも死んだ。あの痛みも屈辱も、その後に続いた《血塗られた日々《レッド・レター・デイズ》》も知られさしない。デニスもダイアナも同じだ。虫のように死んだだけだ。
ならば。誰と戦わなければいけないのか。それを考えた瞬間、ヴァネッサの全身に悪寒が走った。炎を背にした、悪鬼の笑みが脳裏に蘇った。ミッドナイトの叫び声が今ここで聞こえた。ヴァネッサは吐き気を覚えて煙草を投げ捨てた。熱病のように震えかける身体を抱いて唇を噛んだ。
(駄目だ、どうしても、あの男だけは……)
沈黙が訪れた。川は表情を変えずに流れ続けていた。せせらぎの中に、「出てくるんじゃない!」と叱ったマザーの声を聞いた。しかし同時に、「なかったことにしておくかい……」と咎める嘲笑がした。ヴァネッサ自身の声だった。
(忘れろ、ネッサ。少なくとも今は。スタンをどうするかだろう)
逃げるようにヴァネッサは空を見上げた。その目に、一斉に飛び立っていくカラスが映った。自分たちが通り抜けてきた森だった。
直観した。
「伏せろ!」
叫びながら、クレアを地面へ押し倒した。一瞬の後に銃声、背中のほうへ風切り音を認めた。
なに、と物もわからず悲鳴を上げるクレアに、そのままでいろと言ってヴァネッサは馬のところまで走った。再度銃撃が襲ったが、川のほうへ外れた。鞍からライフルを引き抜き、「行け!」と二頭の尻を叩いた。キャンディとメープルは泡を食って走り出した。
「ネッサ! 大丈夫なの!」クレアが青ざめた顔で叫んだ。心配ない、とヴァネッサはうなずき、岩の後ろにいろと手で合図した。
(やってくれたな、畜生が)
ヴァネッサは帽子を押さえ、這いつくばって様子を見た。怯えた少女の思考はとうに消え、賞金稼ぎの本能が身体を突き動かす。
射手は十中八九森の中だった。けれども射線を考えると奥にいるわけはない。最も危険な初弾を避けられたのは幸運だった。
目を凝らした。森はやや見下ろすような位置にある。遮蔽物になりそうな木立までは左に20ヤード。状況は不利で、けれどヴァネッサは口の端に微笑を浮かべている。興奮に身体が震え、耳の中で心臓が鳴る。しかし殺される想像は現れなかった。奇妙な全能感が身体を支配していた。
(仕掛けるぞ、ネッサ)
狙いをつけず、方角だけを定めて撃った。誘い出す狙いだった。
案の定、一拍おいて呼応するように轟音が響いた。撃ち返してきたのだ。今だ、とヴァネッサは俊敏に立ち上がり走り出した。木立へ飛び込んだ直後、背中のほうを抜けていく銃弾を感じた。相手の銃は単発式だった。それを先の二射でヴァネッサは察していた。
「出てこい、"ビターズ"! ぶっ殺してやる!」
射手が口汚く叫んだ。ヴァネッサは木の幹に背中を預け、呼吸を整える。ひとつめの条件はクリアしたと思った。ここからは冷静さが要求される。あるいは、相手を熱くさせてやってもいい。
「スタンリーの仲間か!」ヴァネッサは怒鳴った。「どうした、ライフルは初めてか? それとも処女なのか!?」
吠えるような声とともに銃弾が飛んできた。先よりは近いところへ着弾したが、脅威を覚えるほどではない。ヴァネッサは木の陰から覗き見た。照準器が光に煌めいていた。
「どういうつもりだ! いきなり襲撃とは、卑怯者のやることだぞ!」
「卑怯? 卑怯だと?」怒気を孕んだ声がする。「マックを先に殺しやがって、どの口が言う!」
思いもよらない言葉だった。当然ヴァネッサの記憶にはなかった。
「何のことだ、私は誰も撃っちゃいない……」
「とぼけるな!」叫びと共に銃声がして、ヴァネッサは首をすくめた。「あんな真似人の所業じゃねえ! ぶっ殺してやる!」
男は完全に血が上ってしまっていた。狙いもつけずに次々と弾を撃ち込んでいた。ヴァネッサも負けじと狙い撃った。一発だけだったが、射手の潜む場所から3フィートとズレていなかった。相手の肝を冷やしてやるには十分だった。
対話ではどうにもならんな、とヴァネッサは呟き、そんな奴を相手にするのが私の仕事だった、と思い直して苦笑した。
ライフルに弾丸を装填し、ヴァネッサは待ち続けた。狙撃戦はひたすらに我慢比べだ。レミントン・ローリングブロック・ライフルを持ってきていた幸運に――おそらくは相手も同じ銃だろうが――ヴァネッサは感謝した。300ヤードは難しくない距離だ。もちろん、落ち着いて狙わせてくれればの話だが。
相手はしばらく顔を出さなかった。出せないのだろう、とヴァネッサは推測した。牽制の一発が効いている。よく考えろ。クレアをいつまでもひとりにはしておけない。視線が合った。彼女は気丈にもうなずいてみせた。信頼しきった瞳だった。あなたならできる、それも殺さずにね、と言っていた。大変な依頼に、ヴァネッサは苦笑した。
(けれどやってやるさ、君の望みどおりに)
水中に潜っているような時間が続いた。気道が締め付けられるような、耳が遠くなる感覚を覚える。緊張が、一帯を支配していた。
それは反対に相手方、ギルバートも同じだった。木に背中をつけ、荒い息をしていた。急所を鷲掴みにされたような気分の悪さを覚えていた。ヴァネッサの腕を知っていたからだった。ついこの間、たやすく瓶を撃ち抜いてみせるのを目にした彼は、簡単に頭を出せなかった。
ギルバートにとって、マックは兄貴分だった。若い頃は連れ立って悪さをしたものだった。二人して馬泥棒やカードのイカサマで稼ぎ、その金で肩を組んで酒を飲み、目つきが気に入らないと因縁をつけて人を殴り仲良く留置所にぶち込まれたりもした。そのうちにスタンに拾われて、気づけば数年が経っていた。
「スタンの叔父貴が今度新しく店を出そうってんだ」つい数日前、マックは得意げに語ったのだった。「オレにやらせてくれるってよ。ギル、手伝ってくれよ」
いつになく晴れやかな笑顔だった。ここしばらくの彼らはちょっとした悪さを――呆けている酔っ払いから財布を頂戴したり、酒代を誤魔化したり――してはいたが、銃を持ち出すようなことはなかった。
「殺してやる、クソアマが」
言葉がなお、殺意を明確にさせた。一秒でも生かしておきたくはなかった。飛び出してスコープを覗き込んだ。微動だにしないギャンブラー・ハットの端が、木陰から見えている。くたばれ、と叫び引き金を引いた。帽子が吹き飛んで落ちた。ギルバートが目を瞠ったその時、
「悪いが、遊びはここまでだ」
女の声と、撃鉄の起こされる音がした。ギルバートは自分が撃った先を見た。木に立てかけられているライフルの銃身が見えた。
「囮か、クソが」ギルバートは憎々しげに言った。「いいぜ、オレも殺せよ!」
「スコープを覗いてばかりいるからだ。場所も変えた方がいい」
「ご指南くださるとは、さすが賞金稼ぎ様だぜ!」
「余計なことを言うな」ヴァネッサは拳銃をつきつけ、「スタンリーの部下だな」
「ああ、そうだとも。テメエが殺した兄貴ともどもな」
ヴァネッサはギルバートを見やった。眠いような目だった。
「聞け。私はお前を殺す気などさらさらないし、マックとやらを殺してもいない。いつ死んだ。あんな真似とはどういうことだ」
「しらばっくれやがって」
ヴァネッサは男を蹴り飛ばし、顔に銃口を向けた。地獄の門のようにぽっかりと開いた穴の向こうに、翠の瞳があった。湖のように深く、底が見えないほど淀んでいた。圧力というよりもっと強い、吸引するような眼差しだった。ためらいなく殺すことのできる人間の目だった。ギルバートは知らぬ間に口を割っていた。
「一昨日の晩だ、マックが帰らないから探しに行った、飲んでるんじゃねえかと思って。それが、あんな、顔も手も皮を剥がれて、ボロ雑巾みたいに捨てられてよ……化け物だ、あんなことできるやつは化け物か獣しかいねえよ!」
全身の毛穴が開くような感覚を覚えた。皮を剥がれて。その言葉が、あまりにも耳に残った。一瞬にしてあの夜が蘇った。違う、偶然だとヴァネッサは自分に言い聞かせ、早口に訊いた。
「誰が、誰がやった」
「おれが知りてェよ、そんなことは!」ギルバートはほとんど泣き叫んでいた。「あんたじゃねえなら、どこのどいつが!」
「相手は人なのか。狼やコヨーテじゃないのか」
「違う、肥溜めに頭を突っ込んであったんだぞ! 獣がそんなことするかよ!」
ヴァネッサは生唾を飲んだ。手の震えが止められなくなりつつあった。それを悟られるわけにはいかなかった。慌てて男を立たせ、馬にしたように尻を蹴り飛ばした。
「走れ! 二度と振り返るな!」
ギルバートが見えなくなるまで、ヴァネッサは睨みつけていた。しかし思考はまったく別のところにあった。
(何かが、動きはじめている)
わかってはいる。急に強硬になりだしたジョーのことを思い出す。ヴァネッサは口を真一文字に結んだ。何か、取り返しのつかないものが訪れようとしているんじゃないのか。
嵐が。
遠く、腹に響くような雷鳴が聞こえた。
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