第15話 仕事の時間だ
しばらく秋晴れが続いた。トウモロコシの収穫も終わって、気が抜けたような季節だった。
クレアは漸進的に物事を推し進めつつあった。『神のみ心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要です』とあるように、彼女は雨の日も風の日も、熱心に奉仕活動を続けた。その姿はより多くの人々に敬意を抱かれるようになり、選挙権の要求にも説得力を増した。こと見事だったのは、反対派の女性たちに対する向き合い方だった。家庭的を標榜する彼女たちは、「ずいぶん進歩的ですこと」と揶揄したが、クレアは対抗する姿は見せなかった。微笑を絶やさず、
「ありがとうございます。ですが、先進的であるわけではありません。わたしたちはみなさんの声を取り戻すだけです。ただご主人に『今晩はミート・パイにしようと思うのだけれど』と訊くのと同じように、思うことを世界に伝えられるようにするだけです。望み、願ったことを伝えるだけのことです」
家庭的であることと政治への参加は別でないと、クレアは辛抱強く訴え続けた。主張は水のようにゆっくりと、しかし確実に染み渡っていった。禁酒同盟そのものは依然急進的な面もあったが、その周囲には平和的な活動者が名を連ねつつった。
クレアは州の外にも目を向けた。アメリカ女性参政権協会のメンバーを招き、サン・ミランダの禁酒同盟を集めて講演会を行ったりもした。そこには市長も招かれていた。
「19世紀は銃が平和をもたらした。20世紀は、法と文化の世界になるのです」
と彼は力強く語った。さすがに禁酒法について直接触れることはなかったが、明らかに政治的に大きな一歩だった。
一方、ヴァネッサも婦人会に馴染みつつあった。奉仕活動へ積極的に参加するほどではなかったが、物を運んでと乞われれば行って助けてやり、夜遅くなれば女たちを送ってやったりもした。もっとも、「二人きりだったの」「誰と?」「どこまで送ったの?」などと、ずいぶんクレアに絡まれたものだったが。
「あんたに払った金、無駄になりそうだね」
ジョーは皮肉交じりに言ったものだった。そうなればいいがね、とヴァネッサも答えてはみたが、あまりの平穏に不気味さを感じずにはいられなかった。嵐の前の、と口の中で呟きさえした。
スタンがすぐに行動を起こしてくれたほうが、かえって良かった。こう時間をかけているということは周到に何か企んでいるように思えた。けれど動かない以上、打つ手もなかったし打って出るべきではなかった。少なくとも、銃が必要になることは許されない。クリーンに、クレアが進める政治的な動きを、日頃の奉仕活動を続けることが最適に思われた。
だからこの日も、馬車はサン・ミランダへ向かっていた。
「今日は買い物なしだぜ、姉さん」と手綱を握ったジョーが言った。「金だって湧いてくるわけじゃないんだ」
「それはわかっているけど、ジョー、あなたも新しいドレスを買ったほうがいいわ」
「あたしはかしこまった場に出ないからいいよ」
「そんなことないでしょう。また市長さんとお話しすることもあるわよ」
「ありゃあもう姉さんだけでいいよ。もしくはヴァネッサを連れていくか」
「どうかね」普段どおり、荷台で寝転んでいるヴァネッサが言った。「それにジョー、買ってくれるなら買ってもらったほうがいいぜ」
「ああ、そういうこと? さすが姉さん」
ちょっと、とクレアは慌てて目を丸くした。ジョーは喉で笑い、
「冗談だよ。自分のものぐらい自分で買うさ。誰かと違ってね」
「なんだ、トゲがあるな」ヴァネッサが起き抜けのような声で言った。「必要なものは買うと、契約にもあっただろう」
「へえ、ネッカチーフやら乗馬用スカートをあんたがそこまで所望だとはね」
するとクレアが目尻を怒らせて、
「わたしが似合うと思ったの。ネッサに突っかからないでちょうだい」
「その金も家の金なんだぜ。ちょいとばかし贔屓が過ぎるんじゃねえの」
「だからそれならジョーにも買ってあげるわ。あなたは赤がよく似合うから、少し派手なのもいいと思うわ。何なら一枚ぐらいチア・オアハケーニャみたいなものを持っていてもいいと思うし、いえ、逆にもっとフリルのついたドレスもありかもしれないわね」
「姉さん? あたしで着せ替えするのはやめてもらえる、っていつか言ったよね?」
ヴァネッサはそのやり取りを聞き流していた。馬車が森にかかって気を張っていた。農場からサン・ミランダまでの道行には二つ森があって、普段であれば野草を取りに行くような場所にもかかわらず、どうにも尻の据わりがよくなかった。鈍色の空でカラスが鳴いていた。
馬車は木々の間を抜けようとしていた。待ち伏せはなかったか、と安堵しかけた時、ジョーが叫び声を上げ手綱を引いた。ヴァネッサは落ちかけて、「
「ヴァネッサ、あれ……」とジョーが前方を指した。「あの男じゃない」
上りになっている道の、一番高いところに数人の男たちが見えた。めいめい手に瓶を持って酒盛りをやっているらしかった。中でも一人のあごひげには見覚えがあった。スタンリーが直々に出張ってきたのだ。
道を外れて草原へ逃げるか、と一瞬ヴァネッサは考えたが、すぐに打ち消した。行き先も帰る場所も掴まれている。ならばいっそ、真っ向から勝負するか。
「止めてくれ。私がひとりで行く」
ヴァネッサは飛び降り、大股に歩きだした。ネッサ、とクレアの震える声が呼びかけたが、振り返らなかった。
(
頭は冴えている。ヴァネッサは右腰のピースメーカーを感覚した。心臓が痛いほど鳴り始め、耳鳴りを覚えた。悪くはない、と冷静に思った。ちょうどいい緊迫感だった。息を長く吐き、平衡と平静を心がけた。いつもと何も変わらない。鉛弾をもらえば死ぬ。先に撃てば殺せる。
ミシガンで五人と渡り合ったことを思い出した。賞金首を引き渡した帰りのことだ。川辺での待ち伏せだったが、一発腕に喰らっただけで生き延びた。それからすれば大したことはない。向こうはまだ撃ってきてさえいないのだから。
真正面からスタンリーが歩いてきていた。変わらず左手にはビールの瓶がある。ぶらつかせている右手に、ヴァネッサは集中する。その気を見せれば、殺す。迷いも慈悲も必要ない。感電したような痺れを覚えながら、ヴァネッサは彼我の間合いを測った。
双方が立ち止まった。10ヤードほどの距離がある。
口火を切ったのはスタンだった。
「"ビターズ"、ずいぶん待たせるじゃねえか」
「何の話だ」ヴァネッサは視線を落とさず、煙草を咥えてみせた。
スタンはおどけた調子で肩をすくめ、
「考えるって言ったろ? 俺たちと組むかどうか」
ヴァネッサは眠そうな目でスタンを見やった。以前より凶暴な目つきをしていた。いなすように、ことさらゆっくりと煙草に火を点けた。見える範囲にいる四人の男たちは、みなライフルを肩に担いでいた。撃ち殺す想像を描き出す。脳天に穴をぶち開ける画を、弾の軌道を。無論最悪の状況ではあるが。うなじの毛はとうに逆立っていた。
ヴァネッサは落ち着いた声で、
「もう少し思案が必要でね」
「生憎と時間はやった。十分過ぎるほどな。今ここで決めてもらおう」
クレアの、息を呑む気配を感じた。答えは決まっている。だが、
「私は、あんたらがどれぐらいやれるか知らない。それによって組むかどうかは変わってくるはずだ」ヴァネッサは口を開いた。「腕を見せてもらおうか。当たらない弾丸に怯える必要はないだろ?」
「俺と撃ち合おうってか、賞金稼ぎ様?」
スタンは挑戦的な笑みを浮かべた。しかしヴァネッサは受け流すように、いや、と首を横に振って、
「殺し合うなんて不毛なことはしないさ。ちょうどいいものがある。そいつだ」
男たちの飲んでいたビールを指した。空の瓶が木箱の中にいくつも転がっている。スタンの顔に湿り気のある笑みが広がって、
「俺が勝てば、その小娘たちを捨ててこっちへ来るんだな?」
「捨てることなどないさ」ヴァネッサは煙を吐き、「受ける代わりに、二人には手を出すな。もっとも、私が負けるわけなどないが」
スタンは楽しげに口笛を吹いた。
「言ってくれるな、お嬢さん。いいだろう、そこまで見得を切ったならオーカー姉妹は見逃してやる。ただしこの場だけはな。譲歩してやってることぐらいわかるだろう」
ヴァネッサは薄い笑みで応えた。翠の瞳はスタンの内心を見通している。これまで撃つ機会があったのに撃たなかったということは、彼は未だ、交渉をしにここへ来ている。この男のビジネスは、片方の車輪が石畳を、もう片方が泥道を走っている。偏りはしない。虐殺の確率は低いとみていいはずだった。
(最悪の場合、私ぐらいなら殺そうとするかもしれないが)
クレアとジョーの命は助かるはずだ、と踏んでいる。彼女たちもサン・ミランダの街に出入りできなくなるかもしれないが、豚の餌よりはマシだ。自分のことだけ考えればいい……そう思うと気持ちは楽だった。
「おい、並べろ。何ヤードか? そんなもの適当でいい、走っていけ!」
スタンは部下に瓶を並べさせていた。道の真ん中に、六本。ピースメーカーの弾数と同じ。精度に自信があるらしい、とヴァネッサは踏んだ。
「俺が先だ」スタンは有無を言わさず銃を抜き、慎重に構えた。身体を的へ正対させ、真っ直ぐに腕が伸びている。粗雑ではなく、基本通りだ。筋は悪くないとヴァネッサは直感した。
全員が固唾を飲んで見守っていた。失敗しろ、とジョーが小声で呟くのを聞いた。クレアは動悸を抑えるように、胸に手を当てていた。
スタンの目が見開かれた。火薬の爆ぜる音が一発、ほぼ同時に瓶が砕け散る。部下たちが声をあげたが、「黙れ!」とスタンは怒鳴りつけ、長く息を吐いた。それから五度銃声がした。ジョーは目を凝らした。瓶はひとつだけが無事に残っていた。
「一発外したか」スタンは軽く舌打ちしたが、しかし手柄顔で振り向いた。「さあ、お前さんはどうしてくれるかな」
ヴァネッサは一切反応しなかった。ただスタンの前に進み出て、じっと的が置かれる様を見つめている。数ヤード遠くなったことに文句はつけなかった。
一陣の風が吹いた。その中で翠の瞳が獣の色を帯びていた。枯れ木のように立っていてなお、彼女は全てを睥睨していた。
殺し屋の、気配。
スタンは無意識に後ずさっていた。
「スタンリー、分けは何もなしだ。いいな」
なに、とスタンが返しかける前に、ヴァネッサの下肢がわずかに沈んだ。
ピースメーカーが火を吹いた。銃声はひとつ。少なくともスタンにはそう聞こえた。
誰かの呻く声がした。5つのガラスが同時に弾け飛んでいる。普通であれば狙って撃つ的を、いや、もっと遠い距離を、ヴァネッサは早撃ちで仕留めていた。
男たちは呆然としていた。何が起こったかも理解できていないようだった。ヴァネッサはホルスターに銃を仕舞い、スタンの肩を軽く叩いた。
「馬に乗るんだったら、弾倉の一発目は空けておいたほうがいい。暴発するからね」
はっとしてスタンは足元を見た。
転がっている薬莢は5つ。
ヴァネッサは馬車を呼び、先までと同じように荷台へ飛び乗った。顔が引きつったままのジョーにウインクをし、抱きしめようとするクレアを制して、スタンへ呼びかける。
「ミスター・コールマン、そいつらによく言っておくんだな。『先陣を切るやつは、必ず死ぬことになる』とね」
馬車がゆっくりと遠ざかっていく。見えなくなってしまってなお、男たちは口が利けないままだった。
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