第14話 古き悪しき日々

 鴨を拾った川のほとりでバスケットを開き、二人はメアリの作ったサンドイッチとチョコレート・ケーキを食べた。特にチョコレート・ケーキは一皿があっという間になくなってしまい、それでもクレアはまだ物欲しそうな顔をしていた。

 人心地ついてコーヒーを飲んでいると、クレアが出し抜けにこう訊いた。

「ネッサはどうしてそんなに銃が上手いの」

「それを訊くかね」ヴァネッサは苦笑して、「賞金稼ぎだからだよ」

「でも……最初から上手かったわけじゃないでしょう」

 もちろん、とヴァネッサは答え煙草に火を点けた。瞳が少し細められた。遠ざけたい質問だと気配で語っていた。

 けれどクレアはたじろがなかった。身を乗り出して、

「聞かせて欲しいの。いつか、わたしのことは話したでしょう」

「こちらから尋ねたわけではないけれどね」

「でも、聞いてしまったじゃないの」クレアは真っ直ぐな瞳で言った。「ずるいわ」

「聞いたら、嫌な気持ちになると思うけれど。敬虔な宗教家なら、なおさら」

「だとしても、知りたいわ。それもまたあなたなのでしょう」

「熱烈なことで」

 ヴァネッサが茶化すと、クレアは言葉に詰まって頬を染めた。けれどヴァネッサはそれを見てはいなかった。視線はどこか彼方に投げられていた。やがて立ち上がって煙を吐いて、おいで、と言った。

「君がそこまで言うなら、連れていきたい場所がある。そこで話をしよう」


 えぞ松が茂る森を抜け、さらに二人は登っていった。見てごらん、とヴァネッサは振り向いて背中のほうを指した。オーカー家と、その奥にはサン・ミランダの街が一望できた。海も見えるわ、とクレアは目を輝かせた。水面は煌めいて幾分白みがかって見えた。

「それで、どこまで行くの」クレアが訊いた。「まさか、山を越えることは……」

「ないよ。心配しなくてもいい」

「あまり東のほうには行きたくなくて」

 どうして、と訊き返したヴァネッサに、困ったような笑みを浮かべて、少し怖いの、とクレアが答えた。道はここから海沿いに折れていく。そちらには岸にへばりついたように貧弱な街があった。ボナンザ・ヒルと言って、名前のごとく鉱山労働者たちが住み、昼間から銃声が轟き酒場では毎日のように喧嘩があった。ヴァネッサはその街のことを

「大丈夫、もう見えてきているから」ヴァネッサは丘の頂に見えた十字架を指した。「まあ、あそこもあまり華やかな場所ではないけど」

 行き先は教会だった。今は寄り付く者もおらず荒廃していた。先に見えた十字架と、中を覗いて見えるいくつかの長椅子ぐらいが名残で、屋根も落ち床にも穴が空いていた。

「それで、ネッサ」クレアが不思議そうに小首を傾げた。「どうして、ここに」

 ルールを破ったな、とヴァネッサはひとり思った。誰にも話すことのなかった来歴を曝け出そうとしている。自分が何者であるかを差し出そうとしている。無防備が過ぎた。どこから伝わって、誰が仇討ちに来るかわからないというのに。

 おかしな話だ、とひとり微苦笑を浮かべた。むしろ自分から話したいとさえ思っている。クレアが先に思い出を差し出してくれたから? もちろん、それはあるだろうが、

(君に、知って欲しいらしい)

 他の誰でもなく、クレアに。代替は効かない。不合理な欲求だった。だが止められなかった。

 ヴァネッサは大きく息をついて、

「この教会には昔何度か来ていてね。こっちにおいで」

 二人は裏手に回った。朽ちた墓地があった。鉄柵はほとんど用をなしておらず、雑草が生い茂っていた。ヴァネッサはとある墓の前で止まった。粗末な木の十字架は傾き、腐っていたが、墓標はまだ残っていた。ほとんどくぼみのない表面を慈しむようになぞって、ヴァネッサはそれを読み上げた。

「ダイアナ・ミラー」ヴァネッサは眠そうな瞳をした。「母の墓だ。そして、私が初めて殺した人の墓だ」


 ヴァネッサ・ミラーは1879年、デニスとダイアナの間に誕生した。一人娘だった。デニスは寡黙で頑固な男だったが、よく働き、一から牧場を作った。ヴァネッサが生まれたころには馬の二、三頭も飼い、特に鶏はよく肥えて評判もよかった。そろそろ小麦や綿花などの作物にも手を出そうかと算段していたらしい。

「らしい、というのは」ヴァネッサはすまなそうに頬を掻いた。「私が覚えていないから。農場時代は断片的な記憶しかない。飛び越えられなかった小川だったり、もみの樹脂の香りだったり。楽しかったという感情は残っているけれど」

 ヴァネッサが六歳の年、猛烈なハリケーンが牧場を襲い、その後に干ばつが起きた。牛が食べるものも、人間が食べるものもなくなった。経営は途端に立ち行かなくなって、デニスは金を借りた。銀行から借りてやりくりできているうちはよかった。それも限界が来て、デニスは禁断の実に手を出した。ギャングだった。

 貸す時は笑顔だった男たちの、取り立ては苛烈だった。デニスには当然のこと、時にはダイアナにさえも手を出した。今でもその様はまざまざと蘇る。取りすがるダイアナの頬に、平手が飛ぶ。弾けるような音とともに母は倒れ、椅子にぶつかって呻いた。大きな翠の瞳は虚ろだった。やがて、一筋涙がこぼれ落ちた。

 夫妻は懸命に働いたが、稼ぎは返済に追いつかなかった。利子はあまりに法外だった。それもそのはず、そもそもが牧場を奪う計画だったのだから。

 デニスも中途で察してはいた。だが彼は生来の強情さで立ち退かず、ギャングたちは実力を行使することにした。西の馬屋が燃えはじめたことがわかった時、デニスは神妙にこう言った。「ダイ、この子と逃げてくれ。おれは後から行く」

 だが彼と再び会うことはなかった。意地で数人を撃ち殺したものの、それまでだった。死体は切り刻まれて豚の餌になった。

 ダイアナと幼いネッサは――辛うじて逃げ切った。二人は海沿いを走り、ある街にたどり着いた。ボナンザ・ヒルだった。

 クレアは瞠目して、

「だから、ここに……。それに、ボナンザ・ヒルにいたなんて」

「そう。君を連れていけないということはよくわかっている。クソみたいな街だ」

 新たな日々は苦難に満ちていた。母子二人が生きていくのにはあまりに適さない街だったが、ほかへ動くほどの金はなかった。ダイアナは雑貨屋での仕事を見つけたが、しばらくすると雇い主のヘンリーが人殺しで捕まり職を失った。

 鉱山町にはそれなりに女がいた。彼女たちの仕事は、雑貨屋より大分稼ぎが良かった。紀元前からある職業なのだから。もはや身体を捧げるよりほかになかった。ダイアナはヴァネッサを抱いて一晩泣き、その線を踏み越えた。

 楚々としていたダイアナの化粧は濃くなり、煙草を吸い始めた。肩どころかほとんど胸まで出るような服を着ることが多くなって、言葉遣いも荒くなった。

「ネッサ! この役立たず! これっぽっちの酒しかないのかい!」

 思いやり深く、絵本を読み聞かせてくれた頃の母は消えてしまった。その頃、初めてダイアナは手を上げた。ヴァネッサが十二になる夏の話である。

 けれどもヴァネッサが同じように身をやつしたり、不良と群れることはなかった。すでに人間を嫌いになっていたことが幸いした。すぐそこの海で釣り糸を垂れるか、盗んだライフルを片手に山へ登った。銃の扱いはこの時に学んだ、とヴァネッサは言った。だから本当のところ、教え方はよくわからないんだ、と苦笑した。

 ヴァネッサが一人で鹿を獲れるようになったころ、ダイアナにも変化が現れた。身体に発疹が現れ始め、彼女は起き上がることすらできなくなった。梅毒に加えていくつかの病気を併発していた。医者は首を振って、ヴァネッサにこう言った。「苦しむだけだ」

 やがてダイアナは幻覚を見るようになった。「デニス、今日はビーフシチューよ。冷めないうちにネッサを呼んできて。あの子、どこにいるのかしら」と、ヴァネッサに向けて言った。過ぎ去りし日々に戻っていない時は床で呻き続けていた。苦しむだけだ、という医者の疲れた声が、ヴァネッサの中で木霊した。

 できるだけ綺麗にしてあげようと思った。ヴァネッサは不幸にして、ダイアナへの愛情を失っていなかった。眠りかけたダイアナを背負うその時に、枕の下に硬さを感じた。デリンジャーだった。ダイアナが護身用に持っていたそれを懐に入れ、夜の海辺へと向かった。薄汚く、嫌な思い出しかない部屋で最期を迎えさせたくはなかった。

「あの光が、サン・ミランダらしいよ」ヴァネッサは遠くを指す。「行ってみたかったね」

 母に見えているかはわからなかった。ただ呻くだけだった。ヴァネッサはできる限り静かに、座らせた母の後ろに回った。ごめんなさい、とこれで良かったんだ、という言葉が頭の中でちらついた。ダイアナのうめき声がまた酷くなった。何か意味ありげな音を聞き取って、ヴァネッサは耳を澄ませた。

「ネッサ、おいで。お花の冠を作ってあげるわ……」

 息が止まりそうになった。ヴァネッサの瞳から、涙が流れ落ちた。

 目を閉じて人差し指に力を入れた。迷うな、と言い聞かせた。

 引き金が引かれた。だった。

 はっとしてヴァネッサは振り返った。紫のドレスを着た中年の女が、まだ煙の上がる銃を構えていた。「余計なものを背負うんじゃない」彼女は怒ったように言った。「いいかい、あたしが殺したんだ。あんたは銃が下手だからね」

 呆然として立ち尽くすヴァネッサに、彼女は苛立った声で言った。

「おいで! 少しはマシだろ、『狩人』のヴァネッサ」

 それがマザーとの出会いだった。


「そういうわけで私はサンバルド・ギャングに加わることになったが」ヴァネッサは首を傾げ、「マザーにはずいぶん世話になったよ。稼ぎ方と騙し方はあの人ゆずりだ」

「マザーというのは呼び名よね?」

「そう。いい育ての親だった」

 だった、とヴァネッサは強調した。クレアは祈るように胸の前で手を組み合わせていた。まるでその先の予想が当たらないでと願うように。

 勘のいい娘だ、とヴァネッサは嗤った。

「ギャングは全滅した。だから私はここにいる」

 かくして裏切りのブラック・レター・デイは訪れる。ケリーという悪魔によって。ヴァネッサは事実だけを淡々と述べた。記憶は惨すぎた。恐れが蘇りかけたが、ヴァネッサは唇を噛んで、シャツをつかんでこらえた。何とか語りきり、これでおしまい、と自嘲的な笑みを浮かべ、

「私の過去を知る人はいない。だから私のことを覚えていてくれる人も、もちろんいない。死んで悲しむ誰かだって……」

 言葉は最後まで続かなかった。その前に、ヴァネッサは重みによろめいた。クレアが飛びつくようにして抱きついていた。耳元ですすり泣きが聞こえた。

「いる。います、ここに」掠れた涙声だった。「ネッサ、なんで、なんであなたがそんな目に遭わなきゃいけなかったの……!」

 その答えはもちろんヴァネッサも持ち合わせなかった。クレアの嗚咽は止まらなかった。

「ごめんなさい、わたしは何もわからなくて、知らなくて。何もできなくて!」

「君が謝ることじゃない。すべて過去のことなんだ。悪夢は悪夢でしかないんだ」

 ヴァネッサは優しくクレアの髪を撫でた。透き通るような黄金を、愛おしむように指で梳いた。

(君は、私のために泣いてくれるのか)

 クレアは人の痛みを理解できる娘だった。自分が恵まれていることも理解していて、だから人一倍貧しさに心を痛めていた。ヴァネッサが初めて出会った種類の人間だった。これだったんだ、とヴァネッサは直感した。だからクレアでなければいけなかった。すべてが。

「あなたのことだから、たぶんこんなに辛くなる」クレアは囁いた。「ネッサはこんなに優しいのに、わたしを見ていてくれるのに、幸せにならなきゃおかしい……!」

 クレアはひときわ強く、ヴァネッサを抱きしめた。彼女は息をついて、鼻を啜り、

「幸せにならなきゃ、じゃない。これから幸せにするから。だから、わたしの側にいて」

「ずっといるさ」ヴァネッサも抱き返した。華奢な身体だった。

「地獄に落ちようとも、隣にいるから」 

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