第13話 静かにしてて

 とうに日も上がっているというのに、暗がりの中でクレアは重い身体を横たえていた。カーテンを締め切り、何も寄せ付けなかった。まとわりつく服のわずらわしさに密かなため息をついた。その吐息さえも深海に沈んでいくようだった。

 時間の感覚が失われたころ、背中のほうで扉の蝶番が軋んだ。

「メアリ、入ってこないで」とクレアは低い声で言った。「食事は必要ないと言ったでしょう……」

「私さ、クレア」

 ヴァネッサの声とともに、バイプ葉の甘い匂いがした。クレアは反射的に顔を上げかけて、いや、と小声で呟きまた枕に顔を埋め直した。壁を向いた身体は先より硬くなっていた。

 ヴァネッサは煙を吐き出しながら、

「気分でも悪いのかい……」

「別に、何でもないの……本当よ」

「こんな時間までベッドにいるなんてらしくない。医者を呼ぼうか」

「放っておいてっていったでしょ」クレアは撥ね付けるように言う。「それに、ジョーがいるじゃない」

「ジョー? どうして」

「街へ遊びに行くって言ってたじゃない。あなたとはずいぶん気が合うみたいだし? 一緒に行けばいいでしょう」

 ヴァネッサは困ったように笑って、そうか、と呟いた。病気の原因を承知したらしかった。彼女は帽子を押さえ、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。ベッドの端へ腰を下ろし、クレアの、無造作に流されている手に自分の手を重ねた。クレアは一瞬身体を震わせたが、振り払うことはしなかった。拒みたくはなかった。

「ジョーには誘われたけどね」ヴァネッサは優しく囁いた。「断ったよ」

「……どうして」

「君と話したかったからね」

 うそ、とクレアが掠れた声で言って、今度こそ身を起こした。一瞬はっとしたような顔を見せたのは、ヴァネッサの首元に視線が向いたからだった。翠のネッカチーフ。身につけてくれている、と喜色が広がりかけた。

 けれど思い直したように、そんなものでほだされないわ、と唇を噛み、白目で睨みつけた。寝乱れた髪が額に落ちている。拗ねた幼子のそれじゃないか、とヴァネッサは微笑ましく思った。

「ネッサ、わたしに気を遣わないでよ。そういうの好きじゃないわ」

 言い捨てて、クレアは唇を噛む。泣きたいような気がした。空いた手がシーツを引き寄せて強くつかんでいた。

「気を遣ってなんかいないよ」ヴァネッサが静かに言った。「私がそうしたいからさ」

「本当に?」

 本当だとも、とヴァネッサは短く答えて、クレアを見つめた。翠の瞳は深く穏やかで、包み込むような慈しみを湛えていた。嘘じゃない、とクレアは感じた。それが身体に染み入ってくるうちに、ささくれが流れ落ち、ざわめきが静かになっていった。

 クレアは少し思案するようにうつむいて、次に顔を上げたときには、口元に申し訳無さそうな笑みを浮かべていた。

「ごめんなさい、わたしもよくなかった、もう大丈夫だから……」

「よし、それじゃあ行こうか」

 ヴァネッサはクレアの手を引いて立ち上がった。わ、とクレアは思わず驚きに声を漏らし、さらに腰にまで手を回されているのに気づいて、しゃっくりのような悲鳴を上げた。

「な、何をするのネッサ! 行くって、どこに!」

 ヴァネッサは茶目っ気たっぷりにウインクして、

「ジョーの誘いを断ったって言ったろ? だから君と遊びに行くんだよ」


 クレアは馬に乗るのにはずいぶん手こずって、一度は鐙を踏み外したものだったが、一度またがってしまえばよく走った。クレアの手綱さばきも下手ではなかったが、馬のほうがよく調教されていた。栗毛の、たてがみの長い馬はメープルと呼ばれていた。餌がいいのか、ヴァネッサの馬、キャンディよりも肉付きがよく、毛並みも輝いてみえた。メープルはキャンディほどタフではなかったが、短い距離であれば猛然と走った。本気で鞭を入れてやっとついていけるかどうかだった。二人は小川を軽々と越え、草原を突っ切り、遠くに見える山々へ向かって馬を走らせた。

「どう、ネッサ! わたしも負けていないでしょう」とクレアは肩越しに溌剌と笑った。「久しぶりだから、最初は調子悪かったけれど」

「ああ、まったく!」ヴァネッサも風切音の中、大声で返した。「あの岩まで行こう、ちょうど良さそうだ」

 馬のほうも息が荒くなり、汗も白く泡立っていた。二人は馬を降り(今度はクレアも手間取らなかった)、水筒の水を一心に飲んだ。

 さて、とヴァネッサは鞍からウィンチェスターを取り出し、クレアに手渡した。

「銃を撃ったことは?」

「もちろんあるけど」クレアは不安そうに目を伏せた。「何年も前の話だわ」

「では復習といこう」

 ヴァネッサは30ヤードほど離れた木を指して、

「あれを狙ってみるか。当たらなくてもいい」

「ネッサ、まず装填を……」

「いいとも、上のお嬢様シスター

 恭しく言って、ヴァネッサは二発弾を込めてやった。クレアはおっかなびっくり銃を受け取り、ぎごちなく構えた。

「もう少し足は前後に。いい子だ。銃床は肩に当てて。ちょっと違うな。そのままで」

 ヴァネッサは後ろから覆いかぶさるようにして位置を直してやった。そのせいで気づかなかったが、クレアは目を見開いて緊張に固まっていた。吐息のかかる距離。休んで一度収まったはずの鼓動が、早鐘のように鳴り出していた。

「どうしたんだい、クレア」ヴァネッサは不思議そうに言う。「後は引き金を引くだけだが……それも手伝ってあげようか?」

「子供扱いしないで!」

 クレアは照星の向こうへ木の幹を睨み、人差し指に力を込めた。弾けるような音がして、銃口から煙が上がった。銃弾はどこへ飛んだかわからなかった。少なくとも木に当たっていないことは確かだった。

「もう一回やらせて!」クレアはムキになって、「足を開いて安定、肩につける、狙いをつける……」

 もう一度銃声が響いた。森のほうで乾いた音がして、ヴァネッサは目を細めた。幹の真ん中ではないが、上のほうに当たったらしかった。クレアは相好を崩し、

「当たった! ほら、わたしだってやればできるの!」

 誇らしさが顔中に広がった。ヴァネッサは口元がほころびるのを押さえきれなかった。クレアの無邪気さもそうだったが、その言葉遣いが崩れていることに気づいてしまって、胸のあたりに温もりを覚えていた。

「次は本番でいいかしら?」クレアが空を向いて言う。「鳥を持って帰ったらきっとメアリも喜ぶと思うの」

「そうだね、けれどまずは私がやってみせよう」

 ヴァネッサはウィンチェスターを受け取り、慣れた様子で新しい弾を装填した。

「いいかい、クレア。動いているものはその先を狙う。見ていてごらん」

 翠の瞳は西へ飛んでいくソウゲンライチョウを捉えている。長く息を吐きながら、その挙動を認め、緩やかに引き金を引いた。

 尾を引くような銃声だった。鳥の甲高い鳴き声が聞こえ、平衡を崩したかと思うときりもみするようにして地面へと落ちた。二人は走っていって拾い上げ、どう、とヴァネッサは手柄顔で鳥を見せた。

「腹に当てると肉が悪くなるからね。よく狙わないといけない」

 弾は頭を抜いていた。あの距離で、とクレアは目を丸くして手を叩いた。実に率直な感情表現だった。ヴァネッサは内心かなり気分を良くしていたが、

(喜んでいては、格好がつかない……)

 ので、平然を装って、

「君は何を撃ちたい?」

「やっぱり鴨ね。ローストにすればみんな喜ぶわ」

「それならちょうどいい。飛んでいる鳥は難しいからね」ヴァネッサはうなずいた。「まずは初心者コースといこう」

 しばらく二人は山のほうへ上っていった。涼風を受けて、クレアは気持ちよさそうに目を細めた。青い木々に、まだ夏の名残が漂っていた。

 やがて突き当たった清流で、真鴨が平和そうに遊んでいた。勢い込んで近づきかけるクレアを、ここまで、と手で制して、

「あまり寄ると逃げられる。遠く感じるかもしれないが、このあたりがいい」

「わたし、外しそうだけど」

 クレアは当惑を眉のあたりに浮かべた。それなら夕食の主菜はなくなるかもな、とヴァネッサが煽ると、一転口を固く引き結んで銃を手に取った。

「チャンスは一度と思ったほうがいい」ヴァネッサが囁いた。「よく待って、狙ったところに来た時に撃つんだ」

 クレアは膝をついて銃を構える。なおもヴァネッサが、

「引き金はゆっくり引いて……」

 などと言いかけるところに、

「ネッサ、ちょっと」

「何だい」

「静かにしてて」

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