第10話 ざわめき
どうせ街まで出てきたのだから、とクレアは食料品を大量に買い込んでいた。木箱にして十近いそれを、ヴァネッサは息を切らしながら幌馬車の荷台へ詰め込んでいた。そのくせ当人のクレアは、
「ちょっと待って、思い出したものがあるわ」
などと服屋のほうに行ってしまうから、結局は二人で作業をする羽目になっていた。
「姉さんはいつだってそうさ」ジョーはぶつぶつと不平を漏らしていた。「すぐふらふらっとどっか行っちゃう」
「クレアもいいところがあるだろう。さっきだって大したものだった」
「ああ、それはまったく」ジョーは我が事のように胸を張って、「やっぱり学があるし弁も立つからね。ああいうのは凄いよ。さすが姉さんって感じ。自慢だね」
「君では無理そうだな」
「失礼だね。ヴァネッサだって殴って解決するでしょうが」
「そんな乱暴な真似はしない。私はもっとスマートに、こいつさ」と腰の銃を指した。ひどい話だ、とジョーは苦笑した。
「いずれにせよ」ヴァネッサはリンゴの箱を持ち上げながら、「荷積みぐらい、買った店の店員にやって欲しいものだが」
「あのおっさんもあたしらのこと好きじゃないのさ。酒の話で」
確かに、とヴァネッサは呟いた。街に入った三人は視線を集めていた。あの立派なオーカー家よという囁きも聞こえないではなかったが、どちらかと言えば恐れるような、時に軽蔑するような色が浮かんでいた。すなわちそれは参政権への態度でもあった。くだらない連中だ、とヴァネッサは心中で毒づいた。お客様の顔で腕を組んでいれば、嵐は通り過ぎると思っている。
(あるいはやつも、そうか)
ヴァネッサは気配のほうへ顔を向けた。通りの向こう、街灯にもたれかかっている男がいた。褐色の腕は太く、あごひげをたくわえていた。くすんだ灰色の目が、無遠慮に女たちを眺め回している。
ヴァネッサが強い視線を向けると、男は笑いを含み、手を振って街路を渡ってきた。不自然なほど気軽な調子だった。
気づいたジョーが訝しげに片目を眇め、
「ヴァネッサ、知り合い……」
「違う。やつは銃を持ってるぞ」
ジョーの勘は良かった。その一言で、さっとヴァネッサの脇に寄った。
「あんたらが酒嫌いの女たちか」男は薄笑いを浮かべたまま、ジョーとヴァネッサを交互に眺め回した。「ちょいと顔を貸してくれねえかな」
「悪いが彼女たちは話すことなどない。帰ってくれ」
ジョーより先に、ヴァネッサは叩きつけるように言った。ところが、
「いいや。あんたに用があるんだ、"ビターズ"」
ヴァネッサの視線が鋭くなった。この男はギャングの類だなと直感した。ウィルによれば、もともと
ヴァネッサは男の腰を見た。使い古されたホルスター。どことなくこなれた身のこなし。大胆な足取り。ある程度場数を踏んでいることは明らかだった。すなわち、
(君らを巻き込みたくない)
ジョーに目配せをすると、彼女はわかっているとうなずいて、
「行ってきなよ。あたしらは待ってるから」
「悪い。すぐ戻る」
その言葉に男は忍び笑いを漏らし、
「すぐ、かどうかはわからんけどな。……ついてこい」
煙草を投げ捨て、大股に歩き出した。
「あれ? ネッサはどこに行ったの? ネッカチーフを買ってきたのに」
ジョーは一瞬その呼び方に怪訝な顔をしたが、それどころではないと思い直して、
「何か男が連れてったよ。ちょっとヤバそうだった」
「なんで一人にしたの!」
「だってヴァネッサがそうしろって。……言いたかないが姉さん、あたしらが行っても足手まといまったなしだぜ。あいつなら大丈夫だよ、何とかするはずさ」
そうかもしれないけど、とクレアは不安げに眉をひそめたが、ジョーはそれを無視して、
「姉さん、まずこれ積み込まないとさ。あたしらだけだと大変だよ」
「え、ええそうね。……でも」
クレアがなおも煮え切らない顔でいて、せっかちなジョーが額に青筋を立てそうになったその時、
「お手伝いしましょうか、
予想にない声がして、二人は跳ねるように振り向いた。
男は一見して普通のビジネスマンに見えた。鼠色のスーツは落ち着いて見えたし、口調も優しげだった。ただ異様に生白い肌の、不自然なほどの艶が気になった。クレアはなぜかなめくじを連想した。
彼は馴染ませるように掌を擦り合わせ、両手首の紐を気にしてから、
「よし、これを積めばいいのかい? 手伝おう。女性だけでは大変だろう」
「い、いえそんな! 大丈夫です!」
クレアは慌てて断ったが、男は構わず木箱を持ち上げ、次々に荷台へと運び入れていった。それほど大柄ではない男の、どこから力が生まれているのか見当もつかなかった。
ジョーは手伝うよ、と箱に手を伸ばしかけたが、
「いやいや、お嬢さん。綺麗な手が荒れてはいけない」男はほほ笑んでジョーの手を握った。「本当に美しい。滑らかで気品もある。男のそれとは違う……」
ジョーは何も言えずにうろたえていた。しかしその中には戸惑いと同時に、幾分かの照れもあった。これほど女らしい扱いを! しかも、クレアでなく、自分に!
女二人であれば日が暮れそうな仕事を、彼は10分足らずでやってのけた。すべての荷が積まれてしまうと、何も言わずジャケットを羽織り、では、と男は行きかけた。
「あの、名前を聞いてもいいかな」
ジョーが慌ててその背中に呼びかけた。彼は一度口を開きかけて、いや、と思い直して首を振り、
「機会があれば、いずれ会うでしょう。その時にね、お嬢様」
男は片手を挙げて去っていった。クレアは横目でジョーの顔を見やった。惚けた目が、見えなくなるまで見つめていた。
「何だか、気味の悪い人だったわ」クレアは低く呟いた。「あなたの手を見た時なんて、少しばかりぞっとしたもの」
「あれ、姉さん。もしかして嫉妬してる? 相手にされなかったからって」
「していないわよ。何を馬鹿なことを」
そうかな、とジョーは意地の悪い猫の笑いを浮かべた。彼女の瞳には勝ち誇ったような色が差していたが、クレアは気づきもしなかった。それよりも男のほうが、心に引っかかっていた。耳の奥で、彼の水気を含んだような声色が反響していた。
機会があれば、いずれ会うでしょう。そんな何気ない一言が、呪いのように、泥のようにこびりついて離れなかった。
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