第9話 強くなる女性
長い階段を登った先で樫の分厚そうな壁が三人を出迎えた。先に立った男がノックをし、中へ何事かを問う間にジョーが囁いた。
「そこかしこにお高そうな美術品が転がってやがる。こいつもいい絨毯だこと。さすが市長様の邸宅だ。歩いても音のひとつもしないぜ。どうよ、ヴァネッサ」
「深夜にお伺いしても気づかれないかもな。これだけあれば、ひとつ頂戴しても怒られはしまい」
冗談めかして言うと、聞きとがめたクレアが、二人を白目で睨んだ。わかってるよ、とヴァネッサが手を挙げて謝るうちに、扉が鈍い音を立てて押し開かれる。
「やあ、これはどうも、オーカーさん」
執務用の机から立ち上がって、市長が出迎えた。神経質そうな男に見えた。黒い髪はポマードで念入りに撫で付けられ、痩せた身体に高級なスーツを着込んでいた。
クレアもそれに負けないような出で立ちである。仕立てのよいドレスは薄いレモンの色だった。りんどうのようなクレアの印象を損なわず、しかし華やかでもある。こういう場面になると、彼女に備わった品性らしいものが存在感を放っていた。
市長は最初にクレアと、ついでジョーと握手を交わし、ヴァネッサに視線を向けて訝しそうに目を眇めた。
「オーカーさん、彼女は……」
「ああ、付添ですわね」ジョーが不自然な丁寧語で言った。「最近は色々とあって」
「私のことは気にせずに」
ヴァネッサは帽子のつばに手を添え、本棚へもたれかかった。執事が牽制をほのめかす微笑を浮かべた。
クレアたちはソファに座り、ローテーブルを挟んで市長と向かい合っている。ジョーが座りにくそうに尻の置きどころを探しているうちに、クレアは話し始めていた。
「この度はお時間を頂きありがとうございます」彼女は丁重に頭を下げた。「最近の活動を、ご覧になって?」
「ええ、ええ。ありがたいことですな」と市長は口ひげをしごきながら、気の乗らない返事をした。「我々で手の届かないところを、婦人連合の皆様でやっていただいている」
お手並み拝見だな、とヴァネッサは心中で呟いた。市長は一筋縄でいきそうになかった。ウィルの言った通りであれば醸造家たちから金が回っている。政治家にとって金は血だ。どう切り崩していくか、信念とやらの見せ所だ。
「博愛の精神は聖書にも語られているとおりですから」クレアは微笑を崩さずに言う。「当然のことをしているだけです。少しでも苦しむ人が減ったほうがいい。でしょう?」
「そこについては、異論などありませんな」
「不本意ながら、すべての不幸な人々を網羅できているわけではないのですが」
「それはやむなしというところです、オーカーさん。市としても最善を尽くしているのですが、予算というものがある」
「承知しております」クレアはかえって笑顔を大きくして、「わたしたちも出来る限りの支援をしていきたいと考えておりますわ」
市長が座り直した。少しは話を聞いてやろうかという態度だった。
「どのような内容をお考えで?」
クレアはもったいぶって薄い唇を引き結び、そうですね、と呟いた。隣でジョーの視線が泳いでいた。この場では普段の二人が逆転していた。
市長は聡くそれを感じ取って、
「ジョアンナさん、でしたか。お会いするのはお久しぶりですが」
「そ、そうっすね、ご機嫌よう、です」
話を振られると思っていなかったジョーはぎごちなく答えた。執事が笑いをかみ殺すのに気づいて、ヴァネッサは白い目を向けてやった。
「緊張するほどではないですよ」市長は傲岸に言う。「あなたも『支援』のことについてはご存知なのですかな」
「あ、まあ、だいたいは……」
「わたしからご説明させていただきましょう」クレアが仕方なさそうに口を開いた。「もっとも、どれだけのお力になれるかわかりませんが」
クレアはジョーに書類を取り出させ、貧困に関する施策を語りだした。イギリスで行われていた救貧院と同じものを、教会と一体化させて作り直す。そのための費用をクレアの懐からいくらか出す。また文化の発展に向けて、ボストンから大学教授を呼びラテン語や読み書きの授業と講演を行う。その手配はクレア自身の人脈でまかなえると聞き、市長は聞き捨てならないと唸り、眼鏡を直した。
食いついたな、とヴァネッサが思う時、クレアもやはり口角を上げて、
「サン・ミランダもまた、文化的であるべきだと。そう思いませんか」
市長は口の中で何かをつぶやきながら顎を撫で、
「それについてはまったく、その通りですな。否定の余地はない」
この市長の前歴は役所勤めだったが、本当はプリンストンに行きたかったらしいわ、と事前にクレアは言っていた。だから都会的であることには興味があるはず、という読みも当たっていたらしい。したたかさにヴァネッサは内心舌を巻いた。自分であれば調べるにしても女周りか、素行か。弱みを見つけて脅すほうがよほど早いのに、と思っていたが、しかし。
「成果を得られれば、サン・ミランダは発展するでしょうし」クレアは身振りを交えて語る。「市としても、大きな一歩になるかと思います。進歩的な街になりうるでしょう。ボストンのような」
「成功すれば、ですがね。ミス・オーカー」
「ええ。そのためにわたしは全力を尽くすつもりです。ご協力いただければ、その歩みが早まるだろうと考えています。三年後には、目に見えているかもしれません」
そうだったらいいが、と市長は冷えた笑いを浮かべた。彼が再選されるとすれば三年後の選挙だった。即効薬ですという言葉は、さすがに信用されなかったらしかった。
だがクレアは動揺しなかった。むしろ熱っぽさを含んだ囁き声で、
「遅くなったとしても、この政策を始めた市長が誰だったか、みな思い出すでしょう。少なくとも二年に一度は」
市長は素知らぬ顔で唸ったが、最初と比べれば明らかに気配が変わっていた。選挙と金の話に食指の動かない政治家などいない。まして、いずれ下院から国政へ打って出ることが、頭の片隅にあるのなら。
「しかし残念ながら」クレアは居住まいを正した。「実現していくためには、足りないところが」
「どういうことかね」
「わたしたちには直接語る権利がありません。つまり、投票権が」
それこそが本題だった。クレアは冷静に言葉を選び出していた。
「市長。わたしたち婦人連合には相当数の方に加盟いただいております。わたしたちと意志の合致する方であれば、しっかりと応援することができるでしょう」
つまり、投票権を得たあかつきには、票田として見込めるということだ――とクレアは言った。もちろん、協力しさえすればという留保つきではあるが。
されど市長も都合の良いところばかり見てはいない。彼は鼻の頭に皺を寄せて、
「あなた方は、禁酒法を実現したいそうですが?」
「ええ、ご存知でしたか。もちろん文化的であるために飲酒の習慣を変えるべきだとは思います。ですがそれは先のことでしょう。少なくとも市長がワシントンにいらっしゃる頃ではないかしら」
市長は視線をさまよわせた。唇がわずかに動くのをヴァネッサは認めた。
悪くはない、と彼は声を出さずに呟いた。クレアが、上品に微笑んだ。
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