第8話 君の信念と確信

 危ぶむような目つきで、クレアが建物の陰に佇んでいた。遊んでいる兎を驚かさないように眺める時の目に似ていた。

上のお嬢様シスター、どうかなすったので?」

 覚えのない方向からの声に、クレアの身体が跳ねた。振り向いた彼女は気まずそうに赤面していた。メアリがいそいそとやってきて、なにか怪しいものでも、と言いかけ、途中で訳知り顔に変わった。

 クラリスが視線を向けていた先で、ヴァネッサが眠っていた。帽子を顔に乗せて、手すりに足を上げていた。賞金稼ぎらしい振る舞いだった。

 メアリは年かさの女らしい意味ありげな微笑を浮かべ、

「お話があるのですか? 起こして参りましょうか」

「い、いいの! あの人に悪いし……」

 とクラリスは即座に答えた。吃ってはいたが。

 メアリはそれを聞いてなお、猫のような内にこもった笑いで、

「気になるのでしょう? いえ、おっしゃられずともメアリはよくわかっております。なにせお嬢様方をもう十年以上も見てきておりますから。まるで八年生の時の……」

「もう! やめてメアリ!」クラリスは羞恥に頬を染めて怒鳴った。「行きなさい!朝食の用意もあるでしょう!」

「いえいえ、それほどの手間ではございませんよ」老女は慇懃に答える。「メアリにお任せくださいませ、お嬢様。悪いようにはいたしません……」

 一連のやり取りを、半ばからヴァネッサも夢の中で聞いていて、今では覚醒しつつあった。面倒になる、むやみに起きた顔をしないほうがいいなと思ってなお狸寝入りを続けていると、また少しばかり言い争いが、それをなだめるような猫なで声も聞こえて、足音が近づいてきた。

「ミス・ミラー、おはようございます」とメアリの声がほど近い距離で聞こえた。「目覚めにコーヒーを持ってまいりました」

 ヴァネッサはことさら伸びをしながら帽子を取り、どうも、とテーブルを引き寄せながら今しがた気づいたようにクラリスを見やった。

「ミス・オーカーも。お早うございます。申し訳ない、こんな格好で」

 クラリスは「とんでもないです」とか「こちらこそ、あの……」だとかを口の中で呟きながら、メアリに勧められるまま椅子に腰を下ろした。老メイドは満足した顔で、ごゆっくり、と笑いかけた。

「あの、ごめんなさい。起こしてしまって」とクラリスはクリスマスのケーキを台無しにしてしまったような顔で謝る。いいえ、とヴァネッサはコーヒーに口をつけながら、

「起きようかと思っていたので。しかし、ここは見晴らしがいい。あまり気を張らなくても大丈夫そうですね」

「もしかして、見張りを……?」

「一応は」ヴァネッサは軽くうなずいた。「しかし使用人もいますし、誰か来たならすぐわかるでしょう」

 ありがとうございます、とクラリスは言ってヴァネッサをじっと見つめた。働きぶりにご納得いただけたらしいなとヴァネッサは推量した。向けられた瞳には、木漏れ日のように煌めいた熱心さがあった。

(警戒心のない娘だ……)

 とヴァネッサは思う。どこの馬の骨ともしれない賞金稼ぎに向けていい感情ではない。

 多少話はできるだろうが、意気地はなさそうだし、世間慣れもしていない。さぞいい家庭だったのだろう、と嘲弄の混じった値踏みをするうちに、

(そういうところが、嫌な女だな)

 自分に卑しさを覚えて、かえって彼女の眩しさに気後れした。視線を下げたクラリスは膝の上に手を置いて、今度はそれを見つめている。

「起きたばかりですか、オーカーさん」とヴァネッサは沈黙に耐えかねて口を開いた。「今日はいい日だ、可能なら昼まで寝ていたいものですが」

「ええ、はい。わたしは外で本など読みたくなりますが、ミラーさんは……」

「本は読まないですね」

 クラリスは口を押さえ、当惑に視線をさまよわせた。会話がうまく続かなかった。普段の仕事と同じつもりでは、どうもいけない、とヴァネッサは難渋しながら、

「そういえば、私に訊きたいことがあると」

「いえ、あの……」クレアは肩を震わせ、おそるおそる口を開く。「お礼を言いたかったのです」

「礼なら十分いただいてる……」

「いえ! 改めて、本当に、昨日はありがとうございました。久しぶりに、ああして安心に活動ができたのです。どれほど嬉しかったことか!」

 熱のこもった声に、身を乗り出してくるほどの振る舞いに、気圧けおされてヴァネッサはうなずいた。表情にこそ出さなかったが、クラリスの存外な積極さに驚いていた。臆病と張ったラベルは一度剥がすべきかもしれない、と思った。

「わたしたちの活動が難しいことは、百も承知です」クラリスは少し眉根を寄せる。「男性にとって異なる意見が入ることは面倒なのでしょう。あるいは、妻であり母であることに熱心な女性もまた、政治などに関わるのはいけないと言います。けれど、本当の意味でよりよい世界を実現するためには、異なる角度の意見も必要。そういったところを擦り合わせることで手を取り合うことにつながる。私はそう思っていますが……どう考えられますか?」

「私に学はないけれど」ヴァネッサは迷いながら口を開く。「わからなくはない」

 クラリスは大きくうなずいた。気づけば碧の瞳には迷いのない光が宿っている。

「わからなくはない……今はそれで十分です。既にワイオミングを初めとして、女性の投票権を認めているところは増えてきているのです。ですから、世間の流れがそのような方向に向かっていることは間違いありません。加えて、わたしたちには参政権を必要とする明確な理由があります。安い蒸留酒が起こす身体への害、それから暴力。それを止めるために政治に向かう力が必要なのです!」

「あなたの思想はわかったが、オーカーさん」ヴァネッサは気まずそうに、「私が君たちにつくのはまずいんじゃないか」

「賞金稼ぎだから、ですか?」

「……暴力という意味では、銃はまさにそうだ」さすがに、ウイスキーを愛飲するからねとは言えなかった。「しかし……君は力で男たちをねじ伏せる気か」

「ミラーさんは、所構わず銃を撃ってきたのですか? あなたの力は、咎人を捕まえるために使った、正当な弾丸なのではないですか」

 ヴァネッサは返答に詰まった。まったく自分のやってきたことが間違いだとは思わなかった、しかしどこまでが正当だったのか、賞金首の連れは殺すべきでなかったか、自分を売った臨時の保安官もどきはどうだったか、抵抗しようとしたあの女は、と無視していた問いと死人たちの顔が一斉に立ち上がってきた。

 ヴァネッサは視線を逃し、煙草に火を点けた。

「事はそう単純じゃない。白か黒に分けられるほど」

「理解しています。あなたなりの確信があれば良いのです。正しい道を歩けば、神はお救いになられます。信じていれば、と言うでしょう」

「……自分を救うのは、自分の腕だけだと思うが」

「ミラーさん、わたしは、あなたが信念を持つ人だと信じています。きっとわたしの声を聞いてくれるはずだと。だからあの時、助けてくれたのでしょう、わたしたちを排除しようとする力に立ち向かってくれたのでしょう?」

「それほど気高いものじゃない。気分さ」ヴァネッサは乾いた声で答えて、クラリスを正面から見据えた。「訊かせてくれ。君は命を賭ける羽目になっても、信念と確信とやらのために戦えるのか」

「必要であれば」

 決然とした瞳だった。男へ立ち向かった時と同じ色を帯びていた。澄み切った川の蒼さだった。あれは嘘やまぐれではなかったかもしれない、とヴァネッサは思った。

 二つの視線が、しばし戦った。先に目を逸したのはヴァネッサだった。つられてクラリスのほうも我に返り、

「あっ、あの、すみません! 余計なことを長々と……! しかもわたし、ミラーさんのお仕事のことを何も知らないのに、失礼なことを……」

「いや、面白かったよ」ヴァネッサは笑みを浮かべた。「嘘じゃない」

 興味を抱きつつあった。クラリス自身に、女性参政権運動というものの行く末に。ここまで啖呵を切るのなら、見たことのない景色を見せてくれるかもしれないと思った。銃がなくとも世界を変えると、証明してくれるような気がしていた。

 あとは、

(実際に、彼女が行動で見せてくれるだけ、か)

「しばらく、一緒にやらせてもらおう」ヴァネッサは、ほとんど泣き出さんばかりになっていたクラリスに語りかけた。「オーカーさん。君が何をするのか、見せてもらおうじゃないか」

 クラリスは弾かれたように顔を上げ、しかし何か違う、と首を振る。

「ええ、あの、嬉しいのですけれど」

「問題が?」

「ミス・オーカーでは、ジョーもいますし……」

「それでは、上のお嬢様シスターとでも呼びましょうか?」

 冗談めかして言うと、クラリスは稚く頬を染めた。彼女の表情は実にころころと動き、ヴァネッサはリスのせわしなさを思った。同時に、自然と微笑を浮かべている自分に驚いた。今しがたまで議論、あるいは口論に近かったはずなのに、クラリスの含羞む様が心の強張りを解いている。この娘は今まで触れてきた誰とも違う、と感じた。

 クラリスは仕切り直しにひとつ空咳をして、

「わ、わたしのことはクレアと、気軽にお呼びください。ですから、代わりに……あなたの呼び方も」

「私には気を遣わないでいいが……」

「ネッサ、と呼んでもいいでしょうか」

 一瞬、ヴァネッサの記憶に忌まわしい呼び声が蘇る。“かわいいネッサ”、と。

 だが、目の前にいるのは少女――にみえるクレアだった。猫を飼いたいの、と訴えかける子供の懸命な瞳だった。裾を握りしめた手にも、決意が見えていた。やめろと言う気持ちにはなれなかった。

 あるいは、変えられるかもしれないと思った。血と泥に塗れた過去を、この声が塗り替えてくれるかもしれないと、甘い幻想を抱いた。違う世界から現れた彼女なら。

 ためらった末、ヴァネッサは曖昧にうなずく。

「……ああ。好きに呼ぶといい」

 クレアの顔がほころんだ。ネッサ、と彼女はささやかに、幸せそうに呼んだ。

 晴れやかで誇らしげな笑顔だった。

 雨上がりの虹を、ヴァネッサは思った。

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