第6話 港町の用心棒

 日なたでうたた寝していたいような日だった。口笛のような鳥の鳴き声が聞こえた。農場の柵で、ショウジョウコカンチョウが鮮やかな赤の羽を休めているのだった。

 それが急に、弾かれたように飛び立つ。

「姉さん! もう行かないと! 日暮れまでに帰れなくなるって!」

 ジョーの大声のせいだった。腰に手を当て、玄関先で怒鳴っているのだった。

「だって……」と呻くような声が家の中から聞こえた。開け放たれたドアから、居間の椅子で丸まっているクレアの背中が見えた。その手にはくしゃくしゃになった演説の原稿が握られている。

 ジョーは腕を組んでため息をつき、傍らのヴァネッサに、

「ちょっと、何とか言ってやってよ」

「私が? それは仕事に含まれてないと思うが」

「いつもあの調子なんだよ。いざ出番が近づいてくるとなりゃこうだ。いちいち話すことが変わるわけでもないってのにさ」

「そんなことないわよ!」クレアが振り向いて目尻を吊り上げた。「毎回新しいものを取り入れているでしょう? この間はイギリスの新しい論文について触れたし、その前は聖書について話したじゃない」

「あたしにはよくわかんなかったけどね」ジョーは柱にもたれかかり唇をひん曲げた。

「姉さん、人前に出たら大丈夫なんだけどな」

「私はてっきり自信家の類だと思っていたけど」

「余所行きになるまでが長いんだよ。だからいつも奉仕活動からすることにしてんだ。あれでちょっとマシになる。家族以外の人と話すし、やってること、演説だとか主張だとかに正当性が感じられるらしいよ。たぶん」

「正当性というのはよくわからないが」ヴァネッサは鼻の頭を掻いて、「必要な言葉があるなら言えばいいだけじゃないか」

「おう、ネッサもそう言ってくれる……ごめんごめん、ヴァネッサ、だったな?」

 ジョーは言葉を続けかけたが、睨みにたじろいで軽く手を挙げた。ヴァネッサは少し目を細め、

「勝手に親しみを持つ分にはいいが、その呼び方は嫌いだと言ったはずだが?」

「わかりましたよ、先生」とジョーはおどけて言った。ヴァネッサはもう少し言ってやろうか、と口を開きかけたが、やっとクラリスが表へ出てきたのに気づき、まあいいと首を振ってやめた。クラリスは青い顔で、まるで二日酔いのように胃のあたりを抑えている。ジョーはといえばもう御者台にいて、まごまごするクラリスを引っ張り上げていた。馬車に乗ってからも彼女はずっと前かがみでいた。ヴァネッサも荷台へ乗り込み、私には関係ないことだ、と木箱の間に足を組んで寝転んだ。


 濃厚なバニラの香りがした。ヴァネッサはパイプを咥えたまま、動き回る女たちを眺めていた。彼女たちは一様に微笑みを湛えて食べ物を配り、目の見えない老人や傷痍軍人や男に放り出されたらしい女性に声をかけていた。会話の切れ端から察するに、活動を行う女たちの中には意図的にイースト・エンドに住んでいる者もいるらしかった。ヴァネッサは頬がひきつるのを覚えた。ヨモギの粉を飲まされたような苦味が腹の中で渦巻いていた。自分自身の幼少期が重なって見えていた。それが飢えという感覚で思い出され、気分が悪くなり酒を呷った。瓶の中身はまだ八割方残っていた。

「宗旨に反しとるんじゃないかね」と、そこに濁った声がして、ヴァネッサは御者台から視線を落とした。ウィルが難しそうな顔をして突っ立っていた。

 ヴァネッサは軽く手を挙げ、

「ウィル、私は禁酒同盟に入ったわけじゃない……ただ手を貸してるだけさ」

「そうかい、わしは解放戦士に職を変えたとばかり思ってたがね。酒はともかく、選挙権のところには同意じゃないか? お前さんも女だしな」

「生憎と高尚な信条は持ってない。金のためさ」

 だろうな、とウィルは葉巻に火を点け、

「しかし世間はこう見てる……"ビターズ"が女たちについたと」

「それはそれで都合がいい。手を出して来なければ私も助かる」

 どうかね、とウィルは腕を組み、

「厄介なところに嘴を突っ込んだぞ、お前さんは」

 そうかい、とヴァネッサは投げやりに返した。いつだって厄介の付きまとう稼業に、何を今さら。

「知っていると思うが」ウィルは口ひげを直しながら、「彼女たちは酒の害を訴え、禁酒法を作らせたい。そのために選挙権が欲しい。だな?」

「純粋に平等でありたいっていう考えもあるだろうがね」

「そうかもしれんが、ウイスキーの話はどうしたって絡んでくる。……さて、ヴァネッサ。彼女たちの前にそびえる壁は何になるかね」

「もったいぶるな」ヴァネッサは横柄に言った。「知ってるなら答えろ。誰か」

「醸造家だ。お前さんも知っての通り、このクソッタレな街で憂さを晴らすには博打、女、酒だ。都会のように気の利いたキネマも美しい庭園もない」

「煙を吐いてくれる工場ならあるんだが」

 という諧謔を無視してウィル、

「酒はどこにでもついてくる。バーボンで稼いでる連中は金があるぞ。半分はならず者でもある。しかしもう一度言うが金ならたんまり持っていやがる。ギャングを雇うこともできるしギャングそのものでもある。あるいは政治家さえ使える。ヴァネッサ、警察と市が協力することは大事なんだ。非常に大事なことだ」

「オーケー、わかったとも」ヴァネッサはうんざりだと片手を挙げ、「分の悪い戦いだ、その上であんたの力は及ばないと、そう言いたいんだな」

「……そうはっきり言ってくれるな」ウィルは気まずそうにハンカチで額を拭い、「引くなら早いほうがいいと忠告しているだけだ。オーカー家はたしかに名家だ。だが」

「政治家には金を積んでない?」

「そうとも。正攻法に過ぎる」

「あの娘たちは善良だからね」

「そういう意味ではわしも心苦しいんのだが……」

「あんたは責任を取りたくない、それだけだろ」

 ヴァネッサは一言で斬り捨て、ウィルを冷ややかな目で見据えた。

「いいとも、ウィル。人間なんてみんなそんなものさ。初めから期待はしてない」

「本当にそうならいいが」

「けれど覚えておいたほうがいい」ヴァネッサは囁いた。「私は相手の数に関係なく生き残ってきたし、だからここにいる」

「それは……認めるが」

「だから万が一、あんたがよそにつくことになるなら、必ず、銃を持って戻ってくる」

 淡々とした口調だった。だからこそウィルはぞっとした顔で踵を返し、

「こ、ここは空気が悪いな。病気になりそうだ」

 葉巻を投げ捨て、よたよたと去っていった。ヴァネッサはその後姿を消えるまで見ていて、機嫌が悪そうに唾を吐いた。

「ヴァネッサ、うわっ」とそれを辛うじて避けたジョーが足元に来ている。「狙った?」

「まさか。狙うなら当ててる」

「嫌な女」ジョーは唇を捻じ曲げて笑い、「ねえ、路地のほう見た?」

「気づいているとも。この間の連中だな」

 廃屋の陰からソンブレロが見え隠れしていた。一瞬ヴァネッサは、

(あれがラ・トルメンタだったりするだろうか)

 と思ったが、それにしてはやり口が下手だった。単なる街のチンピラにすぎない。いずれにせよ殺したり殺されたりまではいかないだろうと踏んでいた。破瓜|はかには痛みが伴うものだ。殺したこともない素人にそうそうできることではない。

 ジョーは笑いを含んだ顔で、

「何もしてこないね。あんたのおかげだよ」

「どうかな。さっきまで警察署長がいたからじゃないか。やつらだって現行犯じゃ言い訳もできない。ムショは誰だって嫌さ……」

「違うよ!」ジョーは語気を強め、「あんたがいるからさ! 女だって舐めちゃいけないって、少しはわかったんじゃないかな」

 ヴァネッサは小首を傾げて煙を吹いた。ジョーは少し分かりやすすぎるな、と思った。ウィルが言ったように、物事は見えているより複雑で、選挙権を得たい女と口を塞ぎたい男が撃ち合う構図ではない。女たちの後ろには教会があり、男の背中には酒と金がある。その中にも、主導権を奪い合ういくつもの連中がいる。

 逆に言えば、

(政治活動が上手くいきさえすれば、銃を持ち出さずには済むがね)

 それが甘い見通しだと、わかってはいるのだが。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る