第4話 オールド・ウエスト(1) あるいはせせらぎ

 馬車が速度を落とし小道に入っていった。ヴァネッサは倣って手綱を引く。青鹿毛のキャンディはわかっていますよ、と言いたげに鼻を鳴らした。

「あれがうちよ」とジョーが行く手を指してみせる。「遠くまで悪かったね」

 白い外壁はとうもろこし畑の間を通る前から窺えた。きっと千マイル向こうからでも見つけられる、とヴァネッサは思う。屋根の一番上には煙突が立って、近づくとわかることだが、その脇の手すりには木製の透かし模様が認められた。下には張り出し屋根が四つもあり、玄関扉の上には扇形をした明り取りの窓が見えて、ここにも細かい彫刻が入った窓枠が据え付けられている。

「大したお屋敷だ」とヴァネッサは玄関先に馬をつなぎながら呟いた。驚嘆と羨望と、ブルジョアに対するいくらかの毒を含んでいた。無意識のうちに、口元が嘲笑にわなないた。

「誘いを受けてくれて、どうも」

 馬車を降りたジョーが歩いてきて、慇懃に礼をした。親指で玄関のほうを指し、

「さ、どうぞ。何も片付いてないが……」

「そうよ!」ジョーの後ろで、クレアが素っ頓狂な声を上げた。「お客さんが来ることを言っていないもの! ああ、ジョー、そのあたりを案内して差し上げて!」

 彼女はそう言い残し、スカートの裾をつかんで駆けていった。「メアリ! 夕食の用意を! お客さんがいらしたの!」という声が外まで聞こえた。

「まったく、姉さんは大げさなんだから」ジョーは育ち盛りの子供に向けるような苦笑いを浮かべ、「じゃ、ちょいと散歩しよう。そんなにはかからないだろ」

 二人は家の裏手へと歩き出した。ジョーは来たほうに視線を向け、

「見た通りトウモロコシ、麦、そういうものを作ってる。で、あっちがわには」といちいち指してみせる。「馬屋と使用人たちの部屋。逆側には倉庫がある」

「大農場だ」と言いながらヴァネッサは煙草に火を点ける。そうだね、とジョーはあまりおもしろくなさそうに答え、「あたしが作ったものじゃないから、別に。自分でイチからやったなら大したものだと思うけど」

「わかるよ」ヴァネッサは答えた。

 白樺の木立を抜けると、そこからは少し下っていた。草原が広がり、ぽつぽつと紫色のベリーが実をつけている。遠くで橙に海岸線が光り、視線を返せば雪の残る山々がそびえ立つ。ジョーは少し先に流れる小川に目をやって、

「あそこまで歩こう」と言う。ヴァネッサはうなずいて煙を吹き上げ、

「いいところだ。何だか懐かしい」

「大したものじゃないよ。どこにでもあると思うけど」

「長く南のほうにいたからかな。サボテンと岩しかないところさ」

 へえ、とジョーは首を傾げ、

「国境あたりか。じゃあ、生まれもだいぶあっちのほう……」

「いや、この辺りのはずさ。土地勘もだいたいはある。もっとも、ここへ来てもう半年を過ぎたから、当然だがね」

「そうなんだ」ジョーはあまり興味なさそうに答え、「ねえ、あたしにも一本ちょうだいよ。それ。煙草よ」

 ヴァネッサはシガレットを渡し火を点けてやった。ジョーは美味そうに煙を吐いて、

「はあ、たまらないな。姉さんが吸わせてくれないのよ。女は鼻から煙なんか出すんじゃないって言うんだ。お堅いにもほどがあるよ」

「私なら脱走するか、密輸するかだね」

 ヴァネッサの冗談に、ジョーは喉を鳴らして笑う。

「姉さんはパブティストじゃないけど、結構信心深くてね。だからああいう活動してる……見たでしょ? 禁酒同盟っていうんだ」

「そいつはいけない」ヴァネッサは大真面目な顔で、

「こいつは隠しておいたほうがいいかな」

「いいもの持ってるじゃない」ジョーはバーボン・ウイスキーの瓶を見て満足そうに笑った。二人は一口ずつ酒を呷った。

 美味いね、とジョーは口元を緩めて耳元を払った。黒く艶のある髪だった。

「綺麗な髪だな」とヴァネッサは思ったままに口にして、「失礼。褒めてはいるんだが」

「ありがとう、素直に受け取っとくよ。ただ……」

 ジョーは少し言い淀んで、

「あたしはあんまり好きじゃなくてね。姉さんが金髪だろ? あれがうらやましくてさ。本人には言ったことないけど。ま、どうでもいい話さね」

 気を取り直したように、大口を開けて豪快に笑った。

(この娘は、私に似ているかもしれない)

 とヴァネッサは思った。南部女らしいさばけた性格と実利的な思考、いざとなれば自ら牙を突き立てられる勇猛さ。同類への共感に、ヴァネッサは内心でシャツのボタンをひとつだけ外した。

 しかしかえって、姉のほうは――と目を細めた。演説こそ見事だったが。

「君の姉さんは」ヴァネッサは何でもなさそうに訊く。「ずっと敬虔でいらっしゃるのかい」

 いや、とジョーは首を振る。

「昔は人並みだったさ。聖書の覚えは良かったけど……ボストンに行ってから厳格になられましたな」「ボストンで何を」「大学さ。姉さんは神学を勉強してきたんだ。出来の悪いあたしと違って」

 低い声だった。いくつかの感情が混じり合っていた。ジョーは遠くに視線を向けた。

 そうか、とヴァネッサは曖昧に相槌をうち、「君はずっとここなのか」

「残念ながら」ジョーは簡単にうなずく。「サン・ミランダが一番都会って感じ。州から出たこともない。だからあんたみたいに放浪できるのが羨ましいよ」

 ヴァネッサは思わず苦笑した。

「羨むような生き方じゃないさ。どこにも腰を落ち着けられないだけだ。生きていくだけで精一杯、というところかな」

 話すうちに小川まで来ていた。水は澄んでいて、目を凝らせばパーチが黄色い腹を煌めかせて泳いでいるのが見えた。掴み取ることができそうな気がして、いや、子供のころは取っていたんじゃないかと記憶が囁いた。なぜか、かつてこの場所に立っていたかのような錯覚を覚えた。あるいはそれは正しい記憶かもしれない。この川が何十年も昔から同じようであれば。

「まだ水のほうがうらやましいよ」ヴァネッサの目線の先に気づいて、ジョーは嗤う。「流れていけば海につく。でもあたしはこの家に、せいぜいこの街あたりで一生が終わるんだろうなあ」

 彼女は短くなった煙草を放り投げ、

「姉さんみたいに頭が良いか、あんたみたいに行動力でもあればね……」

 ヴァネッサは何も答えなかった。代わりにゆっくりと煙を吐いた。その煙が浮かんで消えていく空で、鳶が円を描いて飛んでいた。

「あたしが大学に行ってたらどうなったかね。ちょっとは気の利いた女になってたのかな」ジョーが出し抜けに言う。「まあ、でも姉さんみたいに一生懸命には勉強しないだろうな。そもそも文字を読むのが嫌いだし。親父もそう思ったから出さなかったのかもしんないし。うん、その読みは間違ってないな」

 ジョーは陰にこもったような笑いを見せた。「悪いね、変なこと話しちゃって」

「いや、構わないが」ヴァネッサは肩をすくめ、灰を落としている。「そういえばご当主に挨拶しなくても大丈夫かい」

「もうしたさ」とジョーはしたり顔で笑う。「今は姉さんだよ」

「お父上は……」「亡くなった。三年ほど前かな」

 気まずい沈黙が落ちた。

 ジョーは打ち消すように笑って、「別にいいさ。あたしには乱暴な親父だった。何とも思っちゃいないよ」と唾を吐く。

 記憶と、思い出があるだけいいけれど、とヴァネッサは口にしかけて、それを喉元で止めた。余計なことを言う必要などない。ただ夕食を共にするだけ。どんな話から身元が割れるかわからない――放浪生活でヴァネッサが手に入れたサバイバルキットのひとつだった。

「景気のいい話をしよう」ジョーが手を叩く。「ここが懐かしいって言ってくれたね」

「ああ、不思議と落ち着く。散歩にはもってこいだ」

「狩りにもいいよ」ジョーは銃を撃つ真似をしてみせる。「鴨もこのあたりを飛んでいくし、山のほうへ行けばそこら中に鹿がいる。狩りはやるかい……」

「それで生計を立ててた時期もある。鹿が多かったが、バッファローも狩ったね。何ならあの手の生き物は、撃った後が大変なんだが」

「ずいぶんデカブツだ」ジョーは目を丸くする。「それじゃあ物足りないかもな」

「趣味なら鳥撃ちぐらいが楽しくていい」

「機会があればご一緒したいけど」ジョーが愛想を言う。「ねえ、明日からは何か予定って決まってるの」

 ヴァネッサは無言で口元を緩めた。それだけに留めた。ジョーには少し共感めいたものを抱いたが、クラリスについては何も知らない。例え彼女たちの純粋そうな顔に裏がなかったとしても、すぐに打ち解けるようには出来ていなかった――装うことはできるが。

 ジョーが何か口を開きかけた時、遠くから呼び声がする。クラリスの澄んだ、よく通る声だった。

「ジョー! どこにいるの! 用意ができたわよ!

「今戻る!」とジョーは声を張り上げて、「さあ行こう。今日は特に腹が減った」

 ヴァネッサもうなずいて立ち上がる。

 巣に帰ろうとするのか、遠く、カラスの鳴く声を聞いていた。

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