第3話 サン・ミランダにて

 ジョアンナはシャツの袖をまくり、木箱を手際よく荷台へ押し込んでいた。やや褐色を帯びた肌の中で、鳶色の鋭い瞳が目立っている。頬にはまだそばかすが残っていた。

 彼女は手を払い、

「姉さん! 終わったよ! そろそろ行かないと!」

 と大声で路地のほうへ呼びかけた。それに老女と話し込んでいた女性が顔を上げた。妹とは対照的だった。金の豊かな髪と白磁の肌を持ち、碧い目には晴れた水面の輝きを抱いていた。クラリスはジョアンナへうなずいておいて、

「今行くわ、ジョー! 荷物は積んでおいて!」

「だからもう終わったってば! みんな待ってる!」

 そう言われてなおクラリスは名残惜しそうにしていたが、もう一度ジョーが声を上げてやっと小走りにやってきた。

「ごめんなさい、少し話が弾んでしまって」

「わかってるよ、姉さんはいつもそうじゃん」

「でも、あの人たちは気の毒よ、食べる物もない、話し相手だっていない……」

 言葉の途中だったが、ジョーはクレアが乗り込むのを確認すると馬に鞭を入れた。御者はたいていジョーの役目だった。馬車が大きく揺れ、荒れた路面を走り出した。


 港町サン・ミランダのイースト・エンドは川の方へ緩やかに下っている。土地に合わせて建物は傾き、水はけは悪く、舗装されていない地面には汚水が溜まって、饐えた匂いを発していた。襤褸切れを纏い、太った鼠と共存しなければいけない階層の人々が行き着く街区だった。

 クレアはふと胸元に手を伸ばし、金の十字架を握った。ジョーは横目で見たが、何も言わなかった。

 クレアは伏し目がちに、

「ジョー、世界は善くなっているのかしら」

「わからんさ」ジョーは言う。「けど今日姉さんが渡したパンで一日生きる人がいる。それは事実だよ」



 駅舎の前に、十数人の女性たちが集まっていた。通り過ぎる誰もが一度は視線を向けていった。彼女たちが喧しかったこともあるが、一様に同じ服装だったためである。白いワンピースで、それもシュミーズのように透けていた。男は凝視して、女は――家庭的と自称する女は――あんなもの、下品で勘違いしているわと陰口を叩き目を背けた。

 実際、一般的な価値観からすると先鋭的ではあった。キリスト教婦人会の中でも特に女性参政権を声高に叫ぶ、『禁酒同盟』が彼女たちだった。

「失礼、遅れちゃって……」

 そこへ声を掛けていったのはジョーである。女たちはジョーに通り一遍の挨拶をして、すぐに後ろで楚々と佇んでいるクレアを取り囲んだ。「ミス・オーカー、昨晩もうちの主人は……」「クレア、今日はどんな話をしてくださるの? 私、そればかりを楽しみに……」

 クレアはまごつきながらもええ、ええ、と相槌を打っている。まったく、とジョーはため息をつきながら割り込んでいって、


「話は後で頼むよ。木箱をそこへ置いて。その上で話すんだから、丈夫だろうね? よし、みんなプラカードを。姉さん、準備は?」

「ああ、ジョー。わたし、急にお腹が痛くなってきて……」


 とクレアが弱々しく言う。ジョーは姉の背を軽く叩いて、

「いつものことだろ。さ、しゃんとして。みんなが見てる」

「わかってる、わかってるわよ」とクレアは唸るように答え、即席の壇上へ上がろうとした。女たちが歓声を上げ、拍手をする、しかしそれを上書きする野卑な大声がして、一同はそちらへ振り向いた。

「公道で何をしようってんだ? ダンス・パーティか? ん?」と男が女性たちを押しのけてクレアの前までやってきた。その手にはウイスキーの瓶があり、アルコールの匂いを撒き散らしていた。

 ジョーはすかさずクレアと男の間に割って入り、

「これから大事な演説をする。邪魔はよしてもらえる……」

「大事? そいつはいけねえ! 一番前で聞かせてもらおうか、なあお前ら!」

 呼びかけに応じて、さらに二人が姿を現した。どちらも脂っこい笑みを浮かべたカウボーイである。ジョーの頬がひきつって、無意識に半歩後すざっていた。幼い頃は男勝りに喧嘩していた彼女も、大の男三人が相手では、

(いくら何でも、分が悪い……)

 けれどそれ以上下がることはできなかった。後ろには姉がいた。クレアを守るのはいつだってジョーの役目だった。やってやる、と密かに拳を握った。

 カウボーイは酒臭い息を吐いて、

「女は自分で何を喋ってるかもわからないからな」

「それはあなたじゃありませんか」

 返す、鋭い言葉。クレアが仁王立ちに、男を見据えていた。先までの弱気さは影もなく、確かな信念を持った運動家の面持ちだった。

 彼女はなおも挑むように、

「あなたも聖書を読むでしょう。アダムとイヴであった時、男女の間には権利の差などありませんでした。今、サン・ミランダでは未だにわたしたち女性には政治に参加する権利がない、一票を投じる権利もない。これが本来的な姿でしょうか」

「姉さん、やめとけって」ジョーが囁いたが、クレアには届かなかった。声のトーンがさらに一段階高くなる、

「新世紀に入ってなお、私たちは問題を抱えている。まさしく、あなたが今手に持つウイスキーです。泥酔は暴力をもたらし、その被害者はいつも女と子供です。わたしたちキリスト教婦人連合はこの目で見てきました。そのわたしたちを、なお酒で妨げようというのですか。この声をお聞きなさい!」

 クレアが言い切るや否や、女たちは一斉に歓声を上げ手を叩き、カウボーイに侮蔑の言葉を投げつけた。男の顔がみるみるうちに怒りで紫に変わっていくのがわかった。

 まずい、とジョーは思った。男はウイスキーを見せつけるようにして飲み、据わった目でクレアを睨んだ。空いた右手が動くのを、ジョーは見た。

(姉さんを……!)

 殴らせない、という一瞬の判断だった。ジョーは立ち塞がり、

「その辺にしておくべきだ。いい年の男がやることじゃない」

 誰かの声がした。男の振り上げた手は止まっていた。腕が掴まれていた。

 なに、と彼が凄んで振り返った先には長身の女が立っていた。女はギャンブラー・ハットを軽く押し上げた。ヴァネッサだった。

 翠の瞳は眠そうであり、睨むほど攻撃的でもなく、ただ眺めるほどには無関心でもない。それでいて底知れない暗さを湛えていた。

 男は一瞬たじろいだが、かろうじて引くのをこらえてヴァネッサの手を振り払った。

「て、てめえも馬鹿にする気か!」

「すぐ去るのなら何もなかったことにする。そうでないなら」

「そうでないなら、どうしてくれるってんだ!」

「多少の実力行使も、厭わないが」

「気取りやがって!」

 酒の勢いに任せて、男は殴りかかった。女たちが悲鳴を上げる。だがヴァネッサは飄々としたものだった。大振りなパンチが二発、ガードも上げずに躱した。なに、と男が目を剥く。ヴァネッサはその隙を逃しはしない。左の拳が一閃した。鈍い音がして、男は後ろ向きによろめき、それを残りの二人が受け止めていた。

「撫でただけだ、後には残らないさ」ヴァネッサは事もなげに言う。「水を飲ませて寝かせておくといい。それとも……」

 唖然としている男たちを睨み、

「まだやるかい。女一人を、二人がかりでどうにかしてみせるか?」

 気の毒にも後始末を任されてしまったカウボーイたちは、今や無数の女の視線を受けていた。高く掲げられたプラカード――VOTES FOR WOMEN――は、明らかに脳天を狙っていた。男たちはもはや狼狽して何も言えず、慌てて去るよりほかになかった。

 彼らの背中が街中へ消えていってしまうまで実に下品な罵りが飛び交ったが、見えなくなると一転、口笛と歓声が沸き起こった。ヴァネッサに向けられたものだった。

 ミーハーな女たちはヴァネッサにまとわりつくようにして「大したものねえ!」「女の中の女じゃないの」「どこのお方なんですの……」と賞賛やなにやらを浴びせかけたが、ヴァネッサは鬱陶しそうにそれを払い除けて馬のほうへ歩いていった。

 けれど、そこにもなお回り込むようにして一人、

「あんた、本当に助かったよ」

 とはすっぱな口調で礼を述べたのは、ジョーだった。

「気分さ」ヴァネッサは短く答えて馬にまたがり、「気をつけなよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 ジョーは慌てて馬の口輪をつかみ、

「このまま行かれるのは困る。せめて夕食ぐらいは食べていってよ」

「結構。別の街に行かなきゃならないんでね」

「それは困るぜ」ジョーは泣きそうな顔を作ってみせて、「あたしが後から姉さんに怒らる。ほら、あの人がリーダーだから……」

 肩越しにクレアが見えた。白一色の中、一段高いところから、彼女は熱っぽく語り始めていて、聴衆もそれに答えるように拳を振り上げていた。語りは朗々と、伸びた背筋は誇りそのものだった。街行く商売人でさえ、足を止めて聞き入っていた。

 ヴァネッサは唇を少し噛んで、

「わかった。君に免じてお邪魔するとしよう。待っている」

「きっとだよ!」ジョーは戻りかけながら大声で言う。「逃げたら指名手配させるからね!」

 ヴァネッサは肩をすくめ煙草に火を点けた。

 向こうではシュプレヒコールが響いている。

「女性に投票権を!」「投票権を!」「平等な社会を!」「平等を!」

 彼女は天を仰ぎ、帽子を被り直した。苛立ちを覚えた時に出る、無意識の癖だった。

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