第3話 傘と婚約者と私


 その夜のこと。


 綾乃は広げた予言の書を前にして、頭を抱えていた。


 予言の書は的確に、こちらの痛い所を突いてきた。


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 最初に確認しておくけど、あなた、自分が婚約者に嫌われているという自覚はあるんだよね?


 ないとしたらもう、お手上げなんだけど。


 あなたがまずしなくてはいけないこと――それは『現状を正しく把握すること』です。


 ――さぁ、問題点を洗い出していこうか。


 ヒロインさえ現れなければ、彼を奪われることもなかったとか、問題はそこじゃないのよ――そもそもあなた方が想い合っていれば、多少の障害は乗り越えられたはずなんだから。


 だけど現状、そうなっていないでしょ?


 それはなぜか?


 あなたの優れた点は、家柄、財力、容姿なわけだけれど――でもそれらはすべて、お相手である婚約者も持ち合わせているものなんだよね。


 私が思うに、それらはアピールポイントにならないわけさ。


 そうなると、だ……あなたって、これといった『武器』がないよね。


 婚約者がヒロインに惹かれてしまう理由、このあたりにあるんじゃないかな。


 ヒロインはあなたにないものを持っている。


 この機会に、もっと自分を見つめ直してみて。


 そう――手遅れになる前に。


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 綾乃は『予言の書』を眺めおろしながら、彼と初めて会った日のことを思い出していた。


 ――私はあの日、一生に一度の恋に落ちたのだと思う。


 理屈じゃなかった。


 すべてを持っていかれた。


 でも彼は違ったのだろう。


 それが私は、とても悲しい。




   * * *




 六歳になったばかりの、ある日のことだ。


 父から「婚約者が決まった」と告げられ、初めてお相手と会うことになった。


 ずいぶん急な話で、姉にはまだ婚約者がいないのに、それはおかしな流れであったのだが、当時の自分はその不自然さに気づいていなかった。


 あとで聞いたところによると、数時間にわたり誘拐犯とふたりきりでいた西大路姉妹は、上流社会で好奇の目に晒されていたらしい。


 幼い時からその美しさで周囲を魅了していた姉は、事件以降すっかりふさぎ込んでしまい、一時は口もきけない状態だった。


 対し、妹の綾乃はかなり図太かった。


 誘拐当時綾乃はまだ五歳で、自分の身に何が起きたのか、本当の意味では理解できていなかったのかもしれない。


 あの体験を、綾乃は武術を習うことで乗り越えようとした。


 今日は、昨日より強く。明日はもっと強く。


 今度はお姉様を守れるように。


 幼いながらに不屈の精神で、日々鍛錬を繰り返した。


 そんなふうに変わっている子供だったから、父からすれば、すっかり立ち直っているように見えたのだろう。


 父はもともと姉のほうを気に入っていたから、妹の前向きな行動を目にして、もしかすると腹を立てていたのかもしれない。


 どうして姉が落ち込んでいるのに、一緒に攫われたお前は元気いっぱいなのだ、少しくらい落ち込んだらどうなのだ、と。


 時々父は、やり切れないというような表情を浮かべて、こちらを眺めていた。


 父はたぶん綾乃の幸せを願っていなかった。


 だからこの婚約は、『望ましく、喜ばしい』ものではなかったのだと思う。


 ――顔合わせはホテルの庭園で行われることになった。


 父は仕事で忙しいとのことで、綾乃は老齢の執事に伴われて現地に向かった。


 執事は対面の場には同席せず、綾乃を庭園まで送り届けると、車に戻って待機することになった。


 綾乃はひとり、ちゃんとかしこまっていた。


 事前に父から、当日は行儀良くしていなさい、と言い含められていたからだ。


 綾乃は淡い水色の生地に、白いレースをあしらったワンピースを身に纏っていた。


 長い髪は一部を編み込みにしてもらい、青いリボンで留めてある。


 そして手には、畳んだ日傘。服と同色の淡い水色の地に、白いフリル飾りがついたそれは、綾乃のお気に入りだった。


 ガーデンテーブルに着く綾乃の向かい側には、同じ年の婚約者、紫野夏樹(しの なつき)が腰かけている。


 彼は対面してからずっと不機嫌そうに押し黙っていた。


 グレーのカーディガンに、淡い藤色のシャツ、紫系統のネクタイ、黒のズボン姿の彼は、とても美しい顔をしている。


 正直なところ、自分と姉以上に顔が綺麗な人間を、これまで見たことがなかった。


 彼はあきらかに私より綺麗……綾乃は感心してしまった。


 綾乃は顔立ちが少しきつげなせいか、同年代のお友達に怖がられることがよくあった。ところが目の前の彼は、これだけ不機嫌そうにしているのに、そうしていても損なわれない優美な雰囲気を漂わせていた。


 夏樹を連れて来た彼の母親は、子供たちとは離れた場所にいて、出会ったばかりのスーツ姿の男性と戯れている。


 彼の母親が、男の胸のあたりを指先で親しげに撫で、笑う。


 夏樹は母の痴態を冷めた目で眺めていた。


 綾乃はそんな彼の様子を見て、不思議な共感を覚えていた。


 ――私も父様に愛されていない。認めるのはつらかったけれど、綾乃の場合は認めることで、かえって楽になれた。


 認める勇気を持てたのは、姉がいたからだろう。


 自分を深く愛してくれる人がいたから、父から嫌われていても、しっかりと胸を張ることができた。


 ……でも彼には? 私にとってのお姉様みたいに、彼に「大丈夫だよ」と言ってくれる人はいるのだろうか。


 もしも誰もいないなら、それはとても悲しいことだ。


 自分にお姉様がいなかったらと想像するだけで、涙がこぼれそうになる。


 この人のために、何かできることはないだろうか。


 綾乃は知恵を絞って考え込んだ。


 そして。


 夏樹の母が、


「五分後、部屋に来て」


 と会ったばかりの男に告げて、テーブルの近くを通り抜けて行った時、綾乃は激しい衝動を覚えたのだ。


 だって彼女は一度も夏樹を見なかったから。背景のように扱っていた。


 それに対し、彼は何も言わない。ただ氷のような眼差しで、一連の出来事を眺めているだけ……。


 男がスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。


 話しながら歩き始め、こちらに近寄って来た。別に子供たちに用があるわけではない。単にテーブルの横が通り道だというだけだ。


「――予定が変わった。二時間ほど遅れるから、相手は待たせておけ」


 そうして鼻で笑うのが聞こえた。


 綾乃は畳んだ日傘を手にして、立ち上がった。


 トコトコ歩いて男の前まで歩み寄る。


 そして傘をお腹の前で構えた。先端のほうを少し上げる。


 ――これは、中段の構え、というらしい。


 習ったばかりの型だ。


 武術の中でも棒や剣を使ったものが好きで、剣道、フェンシング、棒術など、ひととおりかじってきた。


 傘を突きつけられている当事者は電話を終えた直後で、画面を見おろしているので、まるでこちらに気づいていない。


 綾乃はひとつ息を整え、素早く傘を突き出した。


 傘の先端が男の持つスマートフォンに触れた瞬間、滑らかな動作でさっと手首を返す。


 男は手から突然スパッとスマートフォンが消え失せたので、一瞬何が起きたのか分からなかったようだ。驚いたように視線を巡らせ――目の前に佇む女児に気づいた。


 綾乃が撥ね上げたスマートフォンは、綺麗な放物線を描いて、右手にある池にポチャリと落ちた。


 沈黙が落ちる。


「おい、お前、何したんだ」


 茫然と呟きを漏らしたあと、男が一歩足を踏み出して来た。


 綾乃は傘を構え直し、男の足の甲――親指と人差し指のあいだを狙って、鋭く突きを放った。


 子供が放った一撃とはいえ、体重が乗っている。


 たまらず、男が悲鳴を上げてうずくまった。


 綾乃は滑らかに傘を回してから、男の鎖骨を思い切り突いた。――さらに一歩、鋭く踏み込む。


 上段の構え。


 振り上げた傘を渾身の力で、男の首横に振り下ろす。


 それで終わるはずだった。


 ところが。


 ――バキッ!


 乾いた小枝が折れるような音がして、気がつけば、握りしめたパラソルが真っぷたつに折れている。


「あら……?」


 綾乃は目を丸くし、パラソルを持ち上げて眺めた。


 おかしいわ。


 視線を男に移すと、その瞳にメラメラと怒りを湛え、こちらを睨み据えているではないか。


 あらら、先の一撃で男は気絶するはずだったのに、計算外です。


 そうか……いけない、傘がやわすぎたんだわ。


 綾乃は失敗に気づいた。


 木刀のようなしっかりしたもので攻撃しないとだめだったパターンね?


 大人の男性の体って、結構頑丈なのだわ。


 呑気にそんなことを考えていたのがいけなかった。


 男が立ち上がり、綾乃の胸倉を掴もうと身を乗り出して来た。


 絶体絶命。


 これは殴られますわね。綾乃は痛みを覚悟し、ぎゅっと目をつむった。


 すると。


 ――ドカ、ぎゃあ、ボチャン――慌ただしい物音がすぐ近くで立て続け響いた。


 ん……んー……あら、でも、痛くない? 私が殴られたわけではないみたい?


 おっかなびっくり目を開ける。


 すると目の前に立ち塞がっていたはずの、あの男が消えている。


 視線を右に向けると、なんとあの男、池に落ちてもがいているではないか。


 一体、何が――?


 口をぽかんと開けて視線を巡らせると、左斜め前方に、ガーデンチェアの座面を抱えた紫野夏樹が立っているのが見えた。


 状況からして、椅子を盾のように体の前に構えて、横手から勢い良く突っ込んだらしい。


 彼は椅子を投げ出し、こちらに手を差し伸べた。


「――おいで、逃げるよ!」


 綾乃は迷わずその手を取った。


 ふたりで手を繋ぎ、庭園のあいだを縫うように走る。


 植え込みを突っ切り、樹木のあいだを抜けた。景色が目まぐるしく後ろに流れて行く。


 ドリンクを持つウェイターの肘下をくぐり、何度も何度も角を曲がって、いつの間にか建物の奥深くに入り込んでいた。


 たぶん従業員用のスペースなのだろう。急にひとけがなくなる。


 廊下の隅に、白いクロスのかけられた大きめのワゴンが置いてあった。


 ふたりはクロスの端をからげて、その下に潜り込んだ。


 体育座りをすれば、子供ふたりが隠れられるくらいのスペースがある。当然ゆったりはしていないので、自然ふたりは肩をくっつけ合って座ることになった。


 逃げていた時と変わらず、手は繋いだままで。


 かなりの距離を全速力で走り抜けたので、すっかり息が上がっていた。


 ああ……ドキドキした。


 今さらながらに恐怖が湧き上がって来た。


 繋いだ手から、怯えが伝わったのだろうか――……綾乃の指のあいだに、彼は自身の指を滑り込ませて、つなぎ方を変えた。


 今思うと、あれは俗にいう、恋人つなぎというやつだった。


 夏樹は立てた膝に額を埋め、しばらく俯いていた。


 やがて、彼の肩が細かく震え始める。


 やっぱり彼も怖かったのかしら……。


 綾乃が心配になって見守っていると、やがて夏樹は顔を上げ、こちらを向いた。


 膝に頬を乗せたまま、こてんと、首を傾げるような仕草で。


 彼の唇は綺麗な弧を描いている。


「あー、面白かった」


 目を細めて笑う夏樹の顔を間近で見た瞬間、心臓を殴られたような衝撃を覚えた。


 訳も分からず、頬に熱が集まっていく。


「……綾乃は強いんだね」


 とろけるような笑顔で夏樹がそう言うので、綾乃は困ってしまって眉尻を下げた。


「いいえ。だって、傘を折ってしまいました。道具をだめにするのは、弱い証拠です」


「大人相手だ、仕方ない」


「でも、この傘はお気に入りでしたのに」


「僕が新しいのを買ってあげるよ」


「本当ですの?」


 意外な申し出に、綾乃は目を瞬いた。


 そんな綾乃を絡め取るように見つめ、彼は笑みを深くする。


「壊れるたびに、新しい日傘をプレゼントする。その代わり――ずっと僕のそばにいてね」


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