産まれて、生まれて
てらむ
落涙
人に好かれるのは心地よかった。
自己肯定が楽だから。
嘘くさい笑顔も、偽善者ぶった言動も、その時の私にはこれが本当の自分なのだと信じられた。
床で感じる淋しさも、この身を巡る醜悪も、偽りの私で慰めた。
父が私を求め始めたのは、母が家に帰らなくなってしばらくたった頃だった。
「
父が垂らす涙と謝罪を呑みながらその日の夕飯を考えても、敷布団に染みついた体液とたばこの臭いで、食欲は次第に失せていく。
助けを呼べば、この生活から逃れられるであろうことは知っていた。
ただ、諸々の面倒を見てくれている親族に、これ以上の迷惑なんてかけられるはずがなかった。
いや、そんなことよりも、父を否定するのが怖かったのだ。この人の醜さを認めるのは、血の繋がった自分の醜さを認めることなのだと。
6年生の夏。
鳴きわめく蝉と、父から垂れた尿の臭いで目が覚めた。
なるほど、首を括った後は体液が漏れてくるらしい。
夜の暗さとアルコール、それとひとつまみの感情に背中を押された衝動の果て。
尿まで酒臭いのかと呆れた。
1階に降りて大家さんに連絡を。
今日は学校行けないのかな。
行かなくていいのかな。
つらつらと思考を巡らせないと紛らわせない程に、大きな憎悪が体の奥から滲み出てきた。
私はずっと堪えてきたのに、お前は平気で私を否定するのか
こんなろくでなしにもそれなりに立派な葬式が開かれた。父の首に施された死化粧は完璧だった。泣いている人もちらほらいて驚いたのを覚えている。
あいにくと私のハンカチは乾いたままだった。
学校に戻ったのは通夜と納骨が終わった週明けだった。
学校の帰り。遺児支援課のカウンセリングで十数分話してから帰る生活をしばらく続ける内、クラスの子と私の間には以前と違う空気が流れていた。
当然だ。親が自殺したなんてトップニュース、広まらないはずもない。
だが1番の原因は私自身だったろう。父の自殺で私の醜さが確定されてしまったのだ。今までの学校での振る舞いは全て嘘だったのだと自認させられた私には、もう体裁を取り繕うだけの気力は残っていなかった。
残りの小学校での生活は、数日だけのように感じられた。
まともに声を出したのは卒業証書を受け取る時ぐらいだった。
中学は、前の家から少し離れた親戚の家に近いところへ通った。
家が無くなったのもあるが、小学生の私を知る人がいない学校に行きたかった。
それなのに。
教室に入ると小学校の時の友人がいた。その場で仲良くなったのだろう。こちらを見ながら男子2人とコソコソ話している。
いくら離れているといっても誰とも会わないで済む訳は無かった。
まぁ、いいか。そんな気はしてたし。
きっと数日もすればあの空気になるんだろうな。
私は自分の席について、机に突っ伏した。
「あなたどこ小?名前は?」
頭をこづく人差し指を伝ったその声に、ゆっくりと顔を上げる。
私の前の席の女の子だ。
椅子に貼られた名前を見る。
「……○×小学校。名前は、、席見ればわかるでしょ」
「そうだけど、あなたの口から聞きたいの」
どうせしばらくしたら話しかけられなくなるくせに。
「………
「美絃ちゃんかー。あっ!
聞き慣れない響きに一瞬たじろぐ。
「……結局名前見てるじゃん」
「えへへー。これからよろしくね」
私の名前は父のお気に入りの俳優から取ったものらしい。その程度の由来の名前をこの子は同じだと言ってくれた。
自分と同じだって。文字だけでも。
次の日、学校に来て教室に入ると一瞬その場が静かになった。覚えのある空気。
「あの子って違うんでしょ…」「きっとおかしくなっちゃったんだよ」「変なの〜」
思ったより早かったな。そう思って私は席に着く。
「美絃ちゃんおはよう!」
前の席から声がして、クラスがもう一度静かになる。
「お、おはよう」
びっくりして思わずどもってしまった。
この子はまだ知らないのだろうか。私の過去を。
次の日も、そのまた次の日も美夏は私に話しかけてきた。こんな根暗で無愛想な私を、美夏は普通の女の子として接してくれる。
それでも私は、彼女を突き放すしかなかった。
中学生という残酷な価値観が残るこの時期に、異質な私とこの子がいじめの標的になることは火を見るより明らかだった。
恐らく美夏は既に、私の話をクラスメイトから聞いていただろう。
それでも変わらず接してくれるこの子に、私に笑いかけてくれたこの子に、辛い思いをさせてはいけない。
それなのに。
「どうして私に話しかけるの」
「どうしてって、私と美絃ちゃんは友達でしょ。それに葉月ってね8月って意味なんだよ、今度はわたしの"夏"と同じ!」
にっとはにかんで、当然のように言う。
友達。そんな甘い言葉で、簡単に惑わされてしまう。
「ありがとう、、美夏ちゃん」
生まれて初めての私の本音。
「やっと名前呼んでくれた!」
そうしてあなたはまた嬉しそうに笑う。止まらない私の涙を拭いながら。
学校に行くのがそれほど辛くなくなった。
あの空気が消えたわけじゃない。ただあの子に会えるから。美夏の笑顔が見られるから。本当の自分を認めてくれるから。
その一年は、小学校の最後よりも短く感じた。
「次も同じクラスだといいね!」
「うん。私も美夏と同じクラスがいい」
「えへへー。なんだか照れるねー」
あぁ神様。どうか。本当にいるならどうか。もう一度この子と。
2年生のクラス分け。
「信じさせてくれてもいいじゃんか」
私と美夏は別のクラスになった。市で一番のマンモス校だし仕方ない。
それでも、この行き場のない恨みを受け入れることはできなかった。
結局私は新しい教室に入らないまま、仮病を使って早退した。
カウンセリングに行っていた頃によく通った公園でブランコをこぐ。
平日の昼間に外でおひさまを浴びるのは好きだ。
特別感があって、少し気だるい。この空気が心地いい。
気がつくと日は落ちかけていた。
沈む太陽に目を細めて、私は家路につく。明日からは学校休もう。行っても仕方ないし。
角を曲がって、今となっては私の住む場所になった親戚の家を見やる。
玄関先には、美夏が手鏡で髪を整えながら立っていた。
「あっ!やっと帰ってきた!おそーい!」
「なんで、、いるの」
「なんでって、プリント持ってきたんだよー!」
「私たち違うクラスじゃん。それに家だって真逆だし」
「そうだけど、帰りに美絃のクラスに寄ったらもう美絃いないんだもん。分けられたプリント、置きっぱなしだったから持ってきたんだよ」
「ごめん、ありがとう。けどもういらないよ。それ」
もうこの子と一緒にいられないのに、行く意味も思いつかない。
「そんなに学校いやー?」
「…………」
「じゃあさ!お昼だけでも一緒に食べようよ。屋上で!」
また甘い言葉に流されてしまう。
ただ、そんな甘ったるさに溺れたくて。
「じゃあこれプリント。早く帰らないと心配かけちゃうからもう帰らなくちゃ」
元気にかけていくあの子の背を眺める。左右にゆれる綺麗な髪。そして曲がり角で振り向いて、手を振りながらもう一度笑うのだ。はにかんだその笑顔で。
「また明日!屋上で!」
それからはお昼の時間が私の楽しみになった。
今日のおかずはだとか、クラスでは結局あぶれ者だとか、先週発売の新刊がだとか。そんな話で笑いながら弁当をつつく。
1年生の時よりも話す時間は減ってしまったが、学校に行く理由には十分すぎるくらいに、屋上でのひと時は幸せだった。
会えない時間が増え、私は美夏に対する気持ちに気づき始めていた。
取り繕わない私を認めてくれて、寄り添ってくれるその笑顔が愛らしい。
私は美夏を愛している。
ただ、これ以上を欲しがるのは高望みというやつだろう。
ある日、美夏の膝に絆創膏が貼られていた。
「その怪我、どうしたの?」
「朝急いでて、階段で転んじゃってー」
「そっか、お大事にね」
「うん」
その時は、気にも留めなかった美夏の怪我。それはいじめのエスカレートを示していた。目立たない場所に増えていく生傷。何度聞いてもはぐらかされてしまったが、乾いた晴れの日に彼女の濡れた髪を見て確信した。
私といるほど美夏の体と心は傷ついていく。いつまでたってもいじめが止まないのは、担任も黙認している証拠だろう。きっと私1人が動いてもどうにもならない。
蝉が入道雲に泣いている昼間
うつろな目をした美夏が、血のついた弁当袋を持って屋上に来た。
「鼻血、顔についてる」
隣に座った美夏の顔をハンカチで拭う。
美夏が初めて私の前で泣いた。糸が切れたように、美夏の瞳から涙が流れる。
強く。それでも、傷が痛まないように美夏を押し倒す。きっと美夏の力じゃ嫌でも振り解けないんだろうな。
戸惑う彼女の唇にそっと私の口を押し当てた。
その一瞬は、私が過ごした一生よりも永く感じた。
ごめんね美夏。あいつと同類の私には、こんな愛し方しかわからないんだ。
やっぱり私はあなたと同じじゃなかった。
「美絃、、?」
美夏の目は蓮の宝石のように真ん丸だった。こうなるのも仕方ないだろう。それだけ酷いことをしたんだ。
それでも、私の想いをいつかは伝えたかったし、これ以上傷つく美夏を見てられなかった。
こうするしかなかったんだ。
「ずるいね、私は」
駆け出してフェンスを越える。
「待って!」
飛び起きた美夏が私の方に駆け寄ってくる。
あぁ、やっぱり私はあいつと同類だ。愛した人を最後の最後で裏切るのだ。
涙を流す彼女に
ただ一心にそれだけを願って。
私と同じだと言ってくれたあの日を思い出す。
「愛していました。初めて会った日から、ずっと」
彼女の手が届く前に、天を仰いで空に身を投げる。
私を見下ろす、涙を浮かべた必死な顔。
最期は笑った顔が見たかったな。
鈍くて鋭い衝撃が頭に響いて、あなたの涙が口に垂れる。
少し前とは違う味。
「私も――」
産まれて、生まれて てらむ @TOY101
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