【真戸矢 信司編】一第一話 一
いつも、夢を見ていた。幼い俺の手を引っ張って、必死に《何か》から逃げている父。
『はぁ、はぁ、はぁ…いいか、信ちゃん。よく聞くんだ…』
『お父さん…』
父の顔は《何か》に対しての恐怖心がひしひしと表れていた。顔を強張らせている父を不安げな顔で見ていることしか出来なかった。 自分自身を落ち着かせた父は、信司の両肩に両手を置いて、言った。
『俺が出てもいいよって言うまで、押し入れの中で隠れているんだ。 お父さんに…何かあっても、声を出してはいけないよ』
『……』
『物音も、立てちゃいけない。《あの子》は耳がとても良いから…すぐに、分かってしまうからね。二つの約束、守れるよね?信ちゃん?』
『うん…』
信司の返事に父は笑うと、押し入れの中に入るように言った。
押し入れの中に入ると、父は何事かを呟いた。その時だった。外で、大きな音が鳴った。
『……っ』
信司は目をつぶり、両手で両耳を塞いだ。
『ケへ、アハハハハハハハハ…!ミーツケタ…!』
『こ、ここには…何も、ないよ…!あ、ああ…頼む、来ないでくれ…!』
両耳を塞いでいても、聞こえてくる。 父の怯えきった声。甲高い笑い声の持ち主を、信司は知っていた。
『ケヘヘヘ…!アイカワラズ、父さんハ、嘘ガヘタダネ?』
『……っ!』
『アイツハ、小さいカラネェ…!ドコデモ隠れんぼ、デキルモンナ?』
『………』
『…………』
父は、何も答えない。ただ、父の重みが少しだけ扉にかかった。きっと、何があっても、ここの押し入れを開けさせないという意思表示をしたのだろう。 それが、《何か》の理性を切った引き金となってしまった。
『アアアアアアアア!!気に入らないナァアアアアア!!』
『がっ…あ…』
『……っ』
《何か》は発狂すると、鋸で父の脇腹を刺した。その鋸は勢いのあまり、押し入れの襖を突き破り、信司の目の前まで迫ってきた。悲鳴を上げまいと必死で、口を抑えた。鋸の刃は、刺しては引いて、引いては差してを繰り返していた。
『さっさと、シンジヲ出せよ!!アンタノ代わりニ、オレガ可愛がってアゲルカラサァ!!』
『うっ…うう…!信ちゃんは、君の、おもちゃじゃ…ない…!』
『ダマレダマレダマレダマレ!!俺ガ、苦しんでいたノニ、知らないフリヲシヤガッテ!!』
『はぁ、はぁ、ぐっ…!ああ…!』
『………』
その場から動くことも出来ず、ただ、血塗れの鋸が抜き差しされているのを見つめることしか出来なかった。 しばらくすると、山に放たれた火の手が広がってきたと知らせに来た《仲間の声》がした。
『《宗弥》…その辺にしておけ。もう、ソイツは一歩も動けないだろう』
『ハァ…ハァ…ハハハハハハ…!!そうだネェ…!コレデ、最後ニシテヤルヨ!!』
『うっ……く……』
『……』
(お父さん…)
鋸が、引き抜かれたが父の声は弱々しいものだった。《宗弥》。それが、双子の兄の名前だ。 父のことが、気がかりだった俺は、目の前にいるだろう二人の気配が去るのを待ち続けた。
『ほら…行くぞ。ここにも、もうすぐ火の手が上がるからな』
『ケケケ…ウン。行こう…アキちゃん』
『………』
二人の気配が遠ざかっていく。信司には、僅かに動いている父の気配しか分からなかった。
『信ちゃん。出て来て、いいよ…』
『お父さんっ!!』
やっと、父から許可が出た。俺はすぐに、押し入れを開けた。
『――』
あまりの惨状に、幼い信司は、言葉を発することが出来なかった。 父の周りには、血の池が広がっていた。どこを見ても赤く、染まっていた。片手で傷口を抑えてはいるが、ヒューヒューと空気を吸う音はひどく、弱いものだと感じた。父の傍に駆け寄ると、父は微笑しながら言った。
『ごめんな…信ちゃん。怖かっただろ…?』
『…お父さん…』
『《あの子達》も言っていたように…ここに、火の手が回ってるくる。その前に、逃げるんだ…!』
『いやだ!!お父さんも一緒に逃げようよ…!!』
何かが焼けたような臭いが漂ってきた。上には白い煙が充満していた。玄関の方から、何かが燃えている音も聞こえてきた。
『俺も、すぐに君のあとを追いかけるから!だから、君だけでも、逃げるんだ!』
『う、うう…お父さん…!』
『さあ、早くするんだ…!中庭から外に出て、緋都瀬君のお父さんを探すんだ!彼なら信ちゃんの力になってくれる!』
『…お父さんも、すぐに、逃げる?』
『ああ…すぐに追いつくよ。だから、早く、行くんだ…!!』
『……っ』
大量の涙を流しながら、父に背中を向けて、走り出した。もう、炎は、天井を覆い尽くしていた。
『……愛奈ちゃん…どうか、信ちゃんを一一』
『守ってあげて』
父の――信也の言葉は崩れてきた屋根によって遮られた。
***
あの後、どれ程の距離を走っただろうか。 緋都瀬の家へと向かおうとしたが、すでに村中に火の手が上がっていて、向かうことは出来なかった。 炎の中で、信司は見てしまったのだ。 父を手にかけた宗弥が、村人達を突き刺して、高笑いしているのを。 信司はすぐに逃げようとしたが、先に弟を見つけたのは、宗弥の方だった。
『ツーカマーエーター…!!』
『いやだ…!はなして、はなしてぇええ!!』
一瞬で距離を詰めた宗弥は、信司を包み込むように抱きしめてきたのだ。幼い信司には、恐怖の対象でしかなかった。 たった今、兄がしてきたことを見ていたからだ。
『コラ…そんなニ暴れる……首、オルゾ?』
『ひっ…!』
『そうそう…いい子ニシテレバ、タベナイヨ』
『………』
宗弥は信司を嘗め回したあと、耳元で囁いた。
『シンジ。いい事教えてヤルヨ』
『?』
『お前ガ、俺ノコトヲ受け入れて……言うことヲ聞けば、大好きな父さんと母さんニ会えるゾ?』
『え?本当…?』
宗弥の言葉に信司は、反応した。 信司は、母の顔も覚えていない。父の信也の愛情を、身に受けて、育ってきたのだ。
『本当ダ。ナ?俺ト…《ヒトツ》ニなろう?』
『………』
ドクン…ドクン…
信司の小さな心臓が高鳴っていく。 まだ、幼い信司には分からなかったのだ。これが、《悪魔の囁き》であって、《信司を堕とそう》とする宗弥の悪意が篭っていることも分からなかったのだ。幼い信司の頭の中にあったのは、ただ一つだけ。
《大好きな父に会いたい》
『…な…る…』
『ン?』
『兄さんと……《一つ》に、なる』
小さく呟くように言った信司に、宗弥は、ニヤリと笑って言った。
『いい子ダ…シンジ』
そう言ったのを最後に、兄の姿は消えた。
『あ…うっ…ううっ…!』
小さな体が痙攣し、地面に横になった。 しばらくした後、痙攣は収まり、信司は意識を失った。 その後行方が分からなかった信司を、遊糸が探しに来て、彼に保護されたことによって、遊糸の養子として夜神町で暮らすことになったのである。
これが、信司の地獄の始まりであることをまだ、知らずにいたのであった。
END
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