【五十嵐 秋人編】一第三話一


「はぁ…はぁ…」


鏡野総合病院から飛び出してきた俺は、家に帰る途中にある坂道でようやく止まった。 息を整えてから、俺は違和感に気付いた。


一俺はこんなに走れる人間だっただろうか?一

体育の授業で、徒競走やマラソンの練習はいつも嫌だった。走るのが得意ではなかったし、遅かったからだ。

その俺が…何故? 息を整えて、後ろを振り返った。

鏡野総合病院は《夜深の丘》の上に建っている。夜神町の景色が一望できる為、観光スポットとして有名だった。 俺の家から鏡野病院までは車で三十分、歩きだと1時間も掛かってしまう。1時間の距離を、今まで息切れも無しで走っていたことが信じられず、しばらく呆然としていた時だった。


「帰らないのか?」

「!!」


後ろから声を掛けられた。心臓が跳ね、恐る恐る振り返った。 そこに立っていたのは……知らない男だった。 年齢は俺より年上で、黒スーツを着ていた。


「あんたは?」

「昔、双鬼村で遊び相手をしていた者だ。よく考えてみろ」

「………」


男に言われた通り、俺は昔の記憶を手繰り寄せた。

双鬼村出身、俺より年上、遊び相手…モノクロの映像が頭の中に流れ込んできた。そして、決定的な瞬間は突然訪れた。


***


『アキ!!ダメだ!そっちに行くな!!』

『いやだ!おれは、兄ちゃんに会いに行くんだ!!』

『アキ!!』


鈴の音が鳴り響いた時一一見えたのは、幼い俺の体を必死に抑えようとした夕日だった。

幼い俺は、夕日の制止を振り切り、燃え盛る双鬼村の中を走って行った。

俺はあの時、なんで必死に走っていたんだ?


『兄ちゃん!!』

『一一』


確か、あそこは…双鬼村の中央広場だった。そこで《兄》は狂ったように笑っていた。 けど、俺を見て、笑うのをやめて、言ったんだ。


『なんで、お前がここにいるんだ?』

『だって、兄ちゃんが一一』


幼い俺が何かを言おうとした瞬間、背後から現れた《誰か》に口を塞がれて、それから一一兄さんは、どうなったんだ?



***


「はっ…あ…あ…!!」

「アキ…」


不自然に途切れた幼い頃の記憶に、恐怖を感じた俺は、思わず、後退りした。夕日は、俺の愛称を呼びながら、こちらへと近付いてきた。


「嫌だ…嫌だ!!」

「………」


俺の近くまでやって来た夕日は、俺のことを抱きしめた。突然のことに、俺は混乱してしまい、夕日を押し返そうとするが、推し返せなかった。 それどころか、夕日は俺のことを強く抱き締めてきた。


「《嘘つき…!!お前なんて嫌いだ!!助けてくれなかったくせに…!!》」

「…すまない…許してくれとは言わない。ただ、今は…お前の傍にいたいんだ」

「うっ…うう…」


秋人の両目は赤い光を宿していた。いつの間にか、《兄》が秋人の意識を乗っ取っていたのだ。 夕日は、動揺することもなく、秋人のことを抱きしめ、片手で背中を撫でつづけた。 しばらくすると、段々と秋人の意識が戻ってきた。


「俺は、一体何を…?」

「お前に《憑依》している《兄》は、お前が試練を達成する度に内側から《食い殺そう》としているんだ」

「《兄さん》が…俺を…?」


秋人は夕日の言葉を信じられない様子だった。夕日は頷くと、ポケットから《二つの赤い鈴》を取り出すと、秋人へと渡した。


「これは…?」

「試練を達成した褒美だ。お前が少しでも試練を乗り越えられるように《あの方》がお前に渡せと言っておられた」

「《あの方》って…?」

「それは言えない。《あの方》の名前を出せば、お前はきっと…」

「………」


夕日は最後に言葉を切ると、首を横に降った。彼が言いたいことが分かった秋人は無表情になった。 夕日を押し返した秋人はおぼつかない足どりで家への道を歩き始めた。 去っていく秋人の背中を夕日は切なげに見つめていたのであった。


***


家に帰ると、母さんが玄関で待っていた。母さんは俺の姿を見ると悲しげに顔を歪ませ、俺のことを抱き締めてくれた。


「おかえり…秋人…!」

「ただいま…母さん…」


母さんの姿を見ると安心して、涙が浮かんできた。母さんは何も聞かず、俺の手を引いて、リビングへと向かった。


「……」


机には、俺の好きな豚カツがラップにかけて置いてあった。ご飯と味噌汁も二人分置いてあった。 チラリと時計を見ると、夜の9時を回っていた。


「先に食べててもよかったのに…」


俺がぼそりと呟くと、母さんは小さくため息をついてから言った。


「一人で食べても美味しくないでしょ。さ、手を洗って、うがいしてらっしゃい。服も着替えて、降りてきてね。分かった?」

「……分かったよ…」


俺の背中を強く押した母さんは、豚カツとご飯から温め始めた。台所で手を洗い、うがいをしたあと、自分の鞄がリビングのソファーに置いてあったのが気になったので、母さんに聞いてみた。



「あれ?俺…病院から持ってきたっけ?」

「緋都瀬君が持ってきてくれたの。あなたが倒れて、急なことだったから、学校に全部置いてきてたんですって」

「…そう、なんだ…」

「『そうなんだ』じゃないでしょ。明日緋都瀬君に会ったら、お礼言っておきなさいよ」

「うん…分かった」



夕食の準備をしながらも、鞄がある理由を話してくれた母さんに納得した後、俺は二階へと向かった。急に走ったことで、汗だくになっていた。少し脱ぎづらかったが、手早く部屋着へと着替えた。 一階に降りると、良い匂いが漂ってきたことに気付いた。


「……っ」


匂いを嗅いだ瞬間に、腹部が蠢いたと共に、腹の虫が鳴った。腹部を撫でた後、俺はリビングへと向かった。 お互いに向かいの席に座った俺と母さんは手を合わせてから言った。


「いただきます!」

「いただきます」


まず、ご飯を一口食べる。上手い。絶妙な米の形を噛む度に、口の中に米の旨みが広がっていくかのようであった。 次に豚カツを食べた。豚カツにはソースがかけられていて、豚カツの美味しさを滲み出していた。 味噌汁を啜った。味噌汁が体の中へ入っていくと、心が落ち着いていくのが分かった。



「どう?美味しい?」

「…おいしいよ…」


夢中になって食べている俺を、母さんは愛おしくも、優しい眼差しで見つめていることに気付いた。俺は恥ずかしくなって、頬を赤らめながら、小声で言うと「よかったわ。お母さん、安心した」と笑顔で言い放った。

しばらくは、静かな時間が過ぎていったが、母さんはふと、箸を使い手を止めると俺に言った。


「秋人。一人で悩まないでね」


突然の言葉に、心臓が掴まれたような感覚に陥った。


「なんで、急にそんなこと聞くんだよ?」

「だって、あなたって困っていることや、心配事を私に話してくれないじゃないの…」

「ちゃんと、母さんには言うよ」

「本当に、何かあったら、言うのよ?」

「はいはい。分かったよ。全く…心配症だな。母さんは…」

「心配するに決まってるでしょ。あなたの母親ですからね」

「何だよ…それ…」

「ふふ。冷めないうちに、早く食べなさいね」

「そうするよ」


ごめん。母さん。 俺は嘘をついた。

本当は…助けてほしくて、たまらないんだ。 俺の腹には…いないと思ってた《兄さん》がいて、俺を食い殺そうとしているんだ。


「………」

『オイシイ!! オイシイヨォ!!』


俺の隣で、地面に四つん這いになって、豚カツを食べている《兄さん》がいるんだ。犬用の容器に豚カツがあって、貪るように食べてるんだ。 《兄さん》は、黒い涙を流しながら食べているんだ。 きっと、母さんに言っても信じてもらえないと思う。それでもいいんだ。誰だって、こんなこと言ったって信じてもらえないって分かってるんだ。


だから、俺は…試練を乗り越えてみせる。

試練を乗り越えて、終わらせて、祈里に会って、想いを伝えるんだ。

赤い手紙を見る前の…《当たり前の日常》を取り戻してみせるよ。 秋人は心の中で《鬼の試練》への決意を再び固めた。夕食を食べ終えた後は、少し休憩した後、風呂へと入った。汗をかいて気持ち悪かったから、ちょうどよかった。


「ふう…」


風呂場から上がってきた俺は、何気なく、鏡の方へと目を向けた。


「……っ」


俺の両肩には、黒い手形がくっきりとついていた。《兄》が頭の中で笑っているのが聞こえてきた。


「…………」


きっと、《兄》の嫌がらせだろうと思った俺は素早く体を拭いて、部屋着へと着替えた。 母さんにおやすみと言って、二階へと上がると、ベッドの中へと潜り込んだ。


(今日は、色々ありすぎて…疲れたな…)


携帯のアラームを設定して、すぐに目を閉じた。

すると、《兄》は目の前に現れた気配がすると、俺の頬と自分の頬をすり寄せながら、囁くように言った。


『今日ハ、俺ガ一緒ニ寝テアゲルヨ』

「………」

(好きにすればいいさ。俺は、疲れたんだ…)



《兄》は笑うと、俺のことを抱きしめてきた。人肌が恋しかった俺にとって、《兄》の優しさは、ありがたいものだった。




END

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