反論記事


「……私を……救う?」


 母が眉を顰めるのは当然だ。

 マスコミは、J村の村人にとって「百害あって一利なし」の存在であることは、ここ一ヶ月ほどで、僕も母も身に染みて分かっている。


 しかし、髭面の記者は、


「ああ。そうだ」


と臆することなく断言する。



「沓晏さん、まずはこれを見てくれ」


 そう言って、記者が、母に正対する向きで広げたのは、週刊誌である。



「これは……?」


「今朝発売されたものだ。もうすでに世間では話題になってる。ただ、同業者の目から見ると、あまりにも飛ばし記事が酷過ぎる」


 広げられた記事の見出しは、「X毒豚汁事件の真犯人に迫る!」となっている。


 九歳の僕には、分からない言葉や漢字も多かったが、それでもなんとなくの雰囲気で読み進める。


 当然、母は、僕よりも速く記事を読み、正確に記事の内容を理解できる。


 その母は、記事を読み始めて間も無く、カタカタと震え始めた。


 記事の内容に、憤っているのである。



「ほら、沓晏さん、酷い記事だろ?」


「……誰が、どうしてこんな記事を……」


 母は、声も震えている。



「発行部数が稼げれば良いと思ったんだろ。俺から言わせてみると、そいつは、ジャーナリストの本分を完全に忘れてるよ」


「この、『一年前にJ村に引っ越してきたばかりのシングルマザー』って……」


「沓晏さん以外にいないだろうな」


 今のやりとりと、「X毒豚汁事件の真犯人」という見出しから、僕はようやくこの記事の大意を悟った。


 この週刊誌の記事は、豚汁に毒を入れた犯人として、母を糾弾しているのである。


――そんなの出鱈目だ。



「そんなの出鱈目よ!」


 机を平手でバンっと叩いてから、母が叫ぶ。



「言っただろ。『飛ばし記事』だって。これは事実の裏付けのない、出鱈目な記事だ」


 ただ、と記者は続ける。



「世間はそうは思わない。この雑誌は、大手が出しているもので、知名度も高いし、一定の信頼もあるものだ。世間は、この記事に書かれてることを鵜呑みにするだろう」


「そんなのふざけてるわ!」


「……沓晏さん、気持ちは分かる。気持ちは分かるが、少し落ち着いてくれ」


 おそらく破り捨てるために雑誌を手に持った母を、記者は宥める。



「取り乱しても何にもならないし、今ここにある雑誌を破り捨てたって何にもならない。同じものがもうすでに全国の駅の売店やコンビニに出回ってるんだ」


「それはそうだけど……」


「向こうがデマで攻めてきた場合には、こっちは真実で対抗するほかないだろう」


「……どういう意味?」


「目には目を歯には歯を、『ペンにはペンを』だ。俺が今から沓晏さんに取材して、反論記事を書いてやるよ」


 母は決して、目の前の男を信用していたわけではなかったと思う。


 今だって、男の顔には、下卑な笑顔が張り付いているのだ。持ってきた週刊誌は、母に取材を受けさせるための「ダシ」なのである。それは、子どもの僕にすら分かる。


 しかし、母は、週刊誌の記事の内容に、心底怒っていた。


 自分が犯人扱いされていることを、看過することができなかったのである。



 ゆえに、母は、小さな身体をワナワナと震わせながら、


「取材を受けます」


と回答した。


 「よっしゃ!」と記者が心の中でガッツポーズをしたのが、僕にはハッキリ見えた気がした。


 母は、机の上の週刊誌に目を落とし、記者の顔を見ないまま、続ける。



「私は、決して、豚汁にヒ素入れてません」


 母の必死の告白に、少なくとも表面上は、記者はうんうんと頷く。



「分かってるよ。俺は、沓晏さんが犯人じゃないと分かってるさ」


 ただ、と記者は続ける。



「世間を納得させるためには根拠が必要だ。沓晏さんが犯人じゃないと断言できる根拠が」


「根拠は……あります」


「ほお……たとえば?」


 記者は、母の顔をまっすぐ見たまま、床に置いたバッグの中から、ボールペンの挟まったメモ帳を取り出す。



「……私にはアリバイがあります」


 僕は、祭りの日のことについて、母と話すことは一切なかった。


 母から話し出すことはなかった。


 それに、僕から母に訊き出すこともなかった。


 それは、必要がなかったからである。

 母が、毒豚汁事件と無関係であることは、僕にとっては地球が回ってることくらいに明々白々なことなのである。


 とはいえ、母に訊き出すことが怖かったのも事実である。


 豚汁にヒ素を入れたのは母ではないか、という根も葉もない噂は、村中で広まっていた。

 件の週刊誌の記事も、そうした噂に依拠して書かれたものだろう。


 僕は、そんなことはあり得ないとは確信しつつも、万が一母が犯人だったらどうしようと恐れていたのである。


 祭りの日の出来事については、我が家ではタブーだった。


 ゆえに、母にアリバイがある、というのは、記者のみならず、僕にとっても初耳であった。


 そして、同時に、それは僕を安心させるものにほかならなかった。



「アリバイ……具体的には?」


「私はたしかに豚汁の調理を手伝っていました。だけど、ヒ素が混入させられたのは、調理後しばらくしてから……ですよね?」


「……まあ、報道を見る限りそうらしいな」


 僕がテレビのワイドショーで見たところによると、ヒ素が入れられたのは、豚汁が完成してから十五分経過後、三十分以内であるということだ。


 どうしてこのように特定できるかというと、豚汁が完成してから販売開始まで三十分のインターバルがあったところ、完成後十五分後までは、複数人が大鍋に入った豚汁の味見をしていたのである。


 そして、味見をした人の体調には一切異常がなかった。


 他方、販売された豚汁を口にしたものは、全員が体調に異常をきたしたのである。


 とすると、ヒ素は、豚汁が完成後、皆が味見をし終わった後に混入された、ということになる。


 ヒ素が入れられたと考えられる十五分間の間、母にアリバイがあるとすれば、母は無実だということになる。



「私、豚汁が完成してから、会場を回って、ほかのお祭りの屋台を回ってたんです」


「ほお」


「それで、十分くらいお店を見てから、ある方とずっと話し込んでいました。二十分以上です」



――たしかにそれはアリバイになる。


 母と話し込んでいた人が、母がその時間に豚汁にヒ素を入れていないことを証言してくれるはずだ。



「『ある方』? 名前は?」


「……記事にするんですか?」


「いや、具体名は挙げないよ。Aさんとか適当にボカすから」


「淡路さんという主婦の方です」


 『淡路さん』は、双子の母親だ。「よそ者」の母と僕にも優しくしてくれる、とても良い人である。



「淡路……とすると、Aさんだとマズいな。Bさんにしよう」


 記者はメモ帳にペンを走らせた後、おどけてそう言った。



 僕は、淡路さんの証言だけで、母が事件と無関係であることが十分に証明されると思った。


 もっとも、母は、さらに自分が犯人ではない「根拠」をもう一つ挙げる。



「それから、私、ヒ素を持っていません」


「ほおほお」


 ヒ素を持っていないというのは、犯人たり得ないことの大きな根拠に違いない。



「記者さんもご存知だと思いますが、この村の人には、ヒ素を持っている人がそれなりにいます」


「……というと?」


「この村では、一昔前には、ヒ素が一般的に使われていたんです。たとえば、この村ではみかんの栽培が盛んですけど、みかんの皮の表面に、農薬代わりに薄く希釈したヒ素を使っていたそうです」


 それから、と母は続ける。



「シロアリの駆除にもヒ素が使われていたんです。ヒ素の危険性が広まった昨今では、もうヒ素を手に入れること自体困難ですが、昔のヒ素を捨てずに家に置いたまま、という家も少なくないと聞きます」


 その話も、僕は聞いたことがなかった。


 ワイドショーやニュースでも、そのような話は伝えられておらず、犯人がヒ素を入手した経緯について、様々な憶測が飛び交っている。


 この村ではヒ素がそれほど入手困難ではない、というのは、僕にとって衝撃的な話だった。



「……沓晏さんの家には、ヒ素は置いてないのかい?」


「置いていません。私、一年前にこの村に越してきたばかりなんです」


「ご近所からヒ素を譲り受けたということは?」


「それもあり得ません。私はみかんも栽培していませんし、新築なんでシロアリとも無縁です」


「なるほどな……」



 記者は繰り返し頷いた後で、急に真顔になる。


 そして、声色を変えて、尋ねる。



「沓晏さん、この家にはヒ素はないと断言できるんだな?」


 記者の取材というよりは、警察の取り調べのようだ、と僕は恐怖を感じた。



 しかし、母は、臆することなく、



「はい。私の家にはヒ素はありません」



と断言する。



 僕は、この時に母が記者に語ったことは、紛うことなき真実だったと思う。


 しかし、

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