「良い父親」
「実は今、X県J村に来てるんだ」
下着だけを身につけ、台所に向かった私がスマホを見てみると、意外なことに、辰一郎は自らの居場所を明かしてくれていた。
ただ、思うに、それは、夫の所在を気にする妻に慮って、というわけではない。
自分が「面白い場所」にいる、ということを、私に自慢したいだけなのである。
J村がどういう場所なのかということは、当然、私もよく知っている。
十七年前にリアルタイムで報道を見ていたし、最近も、「毒蛇女」の死刑執行をきっかけに、ネットニュースの記事になっていたのだ。
そういえば、辰一郎は、家からいなくなる前日の夜、私に対して、「沓晏吉永は冤罪かどうか。繭沙はどう思う?」と質問してきたのである。
仕事帰りでクタクタだったこともあり、私は、「分からない」と素っ気なく回答した。
すると、辰一郎は、「『分からない』というのは、『疑わしきは被告人の利益に』の大原則からすると、冤罪ということかな?」などと、小難しいことを言っていたのだった。
疲れていた私は、それ以上議論をする気はなく、「ふーん」だか「へえ」だか、そんな適当な相槌を打ってから、すでに暎人が寝ている、電気の消えた寝室へと向かった。
まさか、辰一郎は、十七年前の、すでに死刑が執行された事件の調査をするために、J村に向かったということだろうか。
それは誰かからの依頼を受けてなのか、それとも、単なる趣味なのだろうか――
「それってお金はもらえるの?」
私は、LINEを送る。
少々棘のある質問になってしまったなという自覚はある。
「成果次第かな」
というのが、辰一郎からの返信である。一応、依頼者のいる仕事のようだ。少しだけだがホッとする。
立て続けに、こうも送られてくる。
「J村で、新たな殺人事件が発生したんだ。それで、すごく面白いことになってるんだよ!」
「新たな殺人事件」というと、十七年前の毒豚汁事件とは別の事件ということだろう。
それは、毒豚汁事件についての様々な報道に触れてきた一国民として、驚くべき報告ではある。
たしか、J村は人口が二千人かそこらの、小さな集落であるはずである。
そこで最近もまた殺人事件が起きたのだとすれば、何か因縁めいたものを感じる。
とはいえ、「面白いこと」といってハシャぐことではないと思う。人が殺されているのである。それを面白がるだなんて、不謹慎だ。
これだから、探偵という人種は……
「また明日連絡する」
結局、辰一郎から「新たな殺人事件」についての具体的な説明はないまま、LINEのやりとりはこう締め括られた。
別に、私も、深追いする気はなかったので、短く「了解」とだけ返す。
「ねえ、ママ、パパはいつ帰ってくるの?」
いつの間にやら私の背後にいた瑛人が、私の太もものあたりをペシペシと手で叩きながら訊いてくる。
たしかにそのことをLINEで訊いておくべきだったかな、と一瞬思ったものの、おそらく訊いても無駄だろうと思い直した。
辰一郎は、「新たな殺人事件」とやらに巻き込まれているのである。今日明日中に帰ってくるなんてことはあり得ないし、おそらく、帰る日の目処もついていないことだろう。
「探偵バロック」が、事件の解決を未了にして、家庭の事情で先に失礼する、などということは、絶対にあり得ない。
辰一郎が帰ってくるのは、事件を解決した後、ということになるはずだ。
「うーん、パパはもう帰って来ないかもしれない」
私が冗談でそう言うと、暎人は、えーんえーんと大声を出して泣き始めた。
想像以上のリアクションに戸惑った私は、すぐに発言を撤回する。
「ごめんごめん。嘘。パパはきっとすぐ帰って来るよ」
なかなか瑛人は泣き止まない。「パパぁ、パパぁ」と叫んでいる。
暎人の裸の背中を優しくさすりながら、私は思う。
あんないい加減でふざけた男でも、少なくとも、少なくともこの子にとっては良い父親なのだな、と。
そして、暎人のためにも、せめて明日こそは、いつ帰ってくるのかLINEで詰めてみよう、と心に決めたのである。
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