初恋
――僕は、完全に言葉を失った。
自分の犯してしまった失敗の大きさゆえ、ではない。
自分の初恋の女性である楓の、あまりにも大きな豹変ぶりにである。
これは失礼にもほどがあるので決して口には出せないが、「見てはいけないもの」を見てしまったような気分だった。
見た目が干からびてしまった今の楓には、若者風のファストファッションも、居酒屋という賑やかしい場さえも、不似合いに見えたのである。
「……翔癸君、ごめんね」
この場面で謝らなければいけないのは間違いなく僕なのに、楓は、本当にすまなそうに、俯きながらそう言う。
その声は、僕が記憶している楓の声と、寸分たりとも相違なかった。
僕が何も言葉を返せずにいると、唯鞠が、
「お姉ちゃんは拒食症なの」
と説明する。
拒食症――聞いたことがある。
たしか食べ物を受け付けなくなってしまう精神的な病である。食べ物を見ても食欲が湧かなかったり、せっかく食べても吐いてしまったりするのだ。
「……翔癸君、ごめんね。私、あの頃とは完全に別人だよね」
僕は、震える声で、「……そんなことないよ」となんとかして絞り出す。
もちろん、それは楓に気を遣って、ということなのだが、
しんみりとした空気を断ち切りたいとばかりに、劉生がパチンと手を叩く。
「まあ、とにかく、翔癸、早く座ろうぜ! さっさと宴を始めよう!」
この場では、劉生の能天気さに救われる。
僕は楓の正面、劉生は唯鞠の正面の座布団に腰掛ける。
机の上には、すでに、彩り豊かな創作料理が並んでおり、それに目を奪われているフリをすることで、今の楓の姿を直視し続けなくて済むことは、僕にとってのわずかな救いだった。
乾杯の音頭をとったのは、劉生である。
全員が、瓶から注がれたビールで乾杯をする
この同窓会の場では、飲酒運転を気にせずにアルコールを入れられるのも、また救いである。
今晩の宿は「桔梗」のすぐそばにとってあるのだ。
乾杯の後、この机の四人は、黙々と、ビールを口にしたり、冷奴やホタルイカの沖漬けを摘んだりした。
そうしながら、僕は、何か気の利いた話題がないかと必死で頭を働かせてしまったのであるが、どうしても楓の豹変ぶりから心が離れなかった。
会話の口火を切ったのは、劉生であったが、この時の劉生は、あまりにも能天気が過ぎた。
「翔癸、今の楓の姿にビックリしただろ?」
「……え?」
劉生の能天気さ――否、無神経さに驚かされた。
僕と楓と唯鞠が避けたかった話題に、ニヤつきながら、単刀直入に切れ込んできたのである。
思い返してみると、劉生は、「遊佐ん」にいる時から、こういった具合だった。「今の楓を見たら、絶対に驚くぜ」と、僕に繰り返していたのである。
そんなもったいぶりをしないで、今の楓が痩せこけているという話を、「遊佐ん」の段階で僕にしてくれれば良かったのである。
そうすれば、僕も心の準備ができたし、楓と唯鞠を取り違えるという最悪の無礼をせずに済んだのだ。
僕は、にわかに、このガテン系の男に対して殺意が湧いたのであるが、次の発言で、彼に悪意がないことが分かった。
「翔癸、楓を嫁にもらってくれよ。そうすれば、楓の拒食症も治るだろうから」
これはこれで能天気かつ無神経な発言の部類に含まれるかもしれないが、僕には腑に落ちたのである。
楓は僕の初恋の人であり、そして、楓にとって僕もまた初恋の人だった。
要するに、両想いだったのである。
それにもかかわらず、二人が交際に至ることはなかった。
それはなぜかといえば、互いが互いの想いを打ち明けたのが、僕が東京に引っ越す前日だったからである。
僕は、楓への恋心は実らないものだと思っていて、ずっと心にしまっており、楓もまた同様に恋心を隠し続けていた。
いよいよ僕がJ村を去るという段階になって、楓の方から、思い切って僕に告白をしてきたのである。
その告白には、「好き」という気持ちの開示に加えて、「東京に行かないで欲しい」という懇願も含まれていた。
僕も楓に心底惚れていたから、「呪い」のことは忘れ、この村に残り、楓と交際したいと思った。もっといえば、交際のその先までも僕は希望した。
しかし、明らかに時すでに遅しだった――
僕ら家族は、J村の住居をすでに売却しており、すでに東京で学校も仕事も決めていたのである。
結局、僕も楓のことがずっと好きだったと伝え、互いの気持ちが通じ合ったことをもって、僕らの初恋は幕を閉じたのである。
おそらく、その経緯を、劉生は、楓から聞いていたのだ。
ゆえに、「翔癸、楓を嫁にもらってくれよ」という発言が出てきたわけである。
そして、後半の、「そうすれば、楓の拒食症も治るだろうから」という部分には、僕も疑っていた、
すなわち、
楓は、僕との恋が叶わなかった結果、精神に支障を来たし、拒食症になってしまった、というわけである。
だとすると、僕は、今の楓に対して責任があるということになる。
それが、楓と結婚すること、だと考えることは、あまりにも烏滸がましいのかもしれないが。
しかし――
「違う。私が拒食症になったのは、翔癸君のせいじゃない」
と、楓はハッキリと言った。
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