一日目の宿
一日目の宿は、J村の隣にあるL町で予約していた。
J村にも、粗末な民宿ではあるものの、泊まれる場所はいくつかある。
もっとも、比較的栄えているL町の方が、宿泊場所の選択肢は多かったし、何よりも、J村で夜を過ごすほどの覚悟は僕には無かったのである。
この判断は、結果的に正しかったと思う。
垂れ目の男をまくことができたからだ。
垂れ目の男が「X毒豚汁事件」を話題に出して以降、僕は、垂れ目の男の話を無視し続けた。
垂れ目の男が何を話しかけてきても、「運転に集中したい」と言って、答えなかったのだ。
その様子は、勘の鋭いあの男でなくても、誰しもが不審がることだろうが、やむを得ない対応だった。
そもそも、僕は、親切心であの男を車に乗せてやったのである。トークのサービスをつける必要などどこにもない。
注文どおり、僕は、町役場の駐車場で、垂れ目の男を下ろした。
「ありがとう。恩に着るよ」
「いえいえ」
自動車を降りた垂れ目の男は、僕に深くお辞儀をした。
運転席に腰掛けたままの僕は、シートベルトさえ外さず、ハンドルに手をかけたまま、横目で、男の頭頂部を見ていた。
「ところで、筑摩君、この村に良い宿を知らないか? 昔この村に住んでたんだろ?」
なんて図々しいのだろうか。
「うーん、僕が知ってる宿は全部潰れちゃったんですよね……」
もちろん嘘である。僕は、この男に二度と親切にしないと心に決めたのだ。
「君は今晩どうするんだい? まさか東京に帰るわけじゃないだろ?」
「村の外にある宿を予約してるんです」
「……そうか。それは残念だ」
まさか垂れ目の男は、僕がJ村で宿を取っていたら、同じ宿に泊まるつもりだったのだろうか。
厚かましさにもほどがある。
僕は、スーツケースから、旅行用の歯磨きセットを取り出し、洗面台へと向かう。
部屋の入り口そばにある狭い部屋に、トイレと洗面台とお風呂が所狭しに並んでいる。
ネットでは、「高級感のあるホテル」と謳われていて、たしかに外観は西洋のお城のようであったが、要するに、古くなったラブホテルの看板から、「LOVE」を剥がしただけなのだ。
少子化・過疎化によって、ラブホテルを利用する年齢層の者が減ったことを受けてのリフォームだろう。
L町以上の限界集落で幼少期を過ごしたものとして、事情はよく分かる。
洗面台のある部屋の電球が切れかかってチカチカしていることに対しては、さすがに舌打ちを加えつつも、僕は、歯ブラシにミントの歯磨き粉を山盛りに付け、口に放り込む。
洗面台の鏡には細かい引っかき傷のようなものがたくさん付いている。
僕は、普段はそんなことはしないのに、歯ブラシを動かすのも忘れて、鏡に映った自分の顔に見入ってしまう。
だいぶ変わったよな――
J村を離れた十五歳の自分と、二十三歳の自分は、まるで別人だ、と自分では思う。
別に、何かが大きく変わった、というわけではない。
元々特徴のない顔が、やはり特徴を発現することなく、年を経ただけである。
おそらく、これは、人間として一般的な現象であり、僕だけでなく、僕が明日八年ぶりに会う人たちも、同じように「別人」になっているのだろう。
おそらく楓も――
J村には未練はないはずなのに、そう考えると寂しく思う。
垂れ目の男ほどの厚かましさは求めていないものの、同郷の者には、昔のように、遠慮なく話しかけて欲しいものである。
よく考えると、別に僕は、J村の人間が嫌いで、J村を飛び出したわけではないのだ。
さすがに口の中がミントで辛くなってきたので、僕は歯ブラシをせっせと動かし始める。
それにしても、垂れ目の男は、どうしてあそこまで厚かましかったのだろうか――
もしかすると、J村出身で、僕と同郷――ということはないだろう。
あんな特徴的な垂れ目の男に、僕は今まで出会ったことはないし、仮にJ村出身ならば、J村の宿がどこにあるかぐらいは知っているべきだろう。
だとすると、あの男は厚かましさは、一体どこに由来するのだろうか――
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