行き倒れの剣士 1

 ――ユーインという男に会ったのは、二週間ほど前のことだった。



 夏が通りすぎて、生暖かいながらも秋の気配を含んだ風が頬を優しく撫でていく。


「おいエマ、いい加減計画性ってものを持てよな。この半年、当てもなくふらふらふらふら移動してるだけじゃねーか」


 のどかな田園風景を横切るように一本まっすぐに通っている道の|旅籠(オーベルジュ)の前にござを敷き、レースで丁寧に編まれた繊細な商品を並べているエマの周りを、緑色の毛並みをした丸っこい犬が

 エマの足元には、幼い女の子が遊ぶようなドールサイズの少女が、エマの並べていった商品の位置を微妙に調整して綺麗に整えている。


 常人には見えないこの二人は、エマの古くからの友人だ。

 緑色の犬の名はアーサー。

 ドールサイズの少女の名前はポリーである。


 どちらも大変可愛らしい見た目をしているが、二人の正体は妖精で、アーサーの本性は体長二メートルほどもあるクー・シーという妖精だ。ポリーは妖精ハベトロットで、本当は老婆の姿をしている。

 妖精は変装、変身が得意で、しばしば本来の姿とは違う姿を取ることがあるが、この二人はまさにそれだ。エマも、二人の本当の姿は一度も見たことがない。二人ともこの仮初めの姿がお気に召しているようだ。


「ふらふら移動しているんじゃなくて旅をしているのよ」


 エマはさっと周囲に視線を這わせて、小さな声でアーサーに言い返した。

 エマは物心ついたころから妖精が見えたが、それはエマが知る限り、自分だけの特権のようだった。


 今は亡き母が夜眠る前に話してくれたおとぎ話によると、その昔、妖精たちを大勢虐殺し、妖精女王の逆鱗に触れた人間は、妖精が見えなくなってしまったのだと言う。

 けれども稀に妖精が見える人間が生まれることがあって、どうやらエマはそれに該当するようなのだ。

 もっとも、まだ分別のつかない幼いころに、両親に妖精が見えると言ってみたことがあるのだが、子供の冗談としてとらえられて一向に信じてもらえなかったが。

 ましてや、エマが使えるなど、言ったところで妖精が見えないほかの人たちには理解が及ぶはずもない。


 ポリーによると、人間に妖精が見えなくなったのは、おとぎ話の通り妖精女王の魔法らしい。

 エマは何故妖精が見えると言う特権が自分の目に与えられているのかはわからなかったが、物心ついたころからエマの周りには妖精がいて、アーサーやポリー、そして今はいないもう一人の友人の妖精に至っては、家族や親友のようにずっとそばにいてエマを守ってくれていた。

 半年前に火事で両親を失い、家も追い出されてこうして旅をしているエマにとっては、彼らは唯一残ったエマの家族で、大切な友人で、仲間だった。


「それはそうと、今から商売をするんだから、静かにしておいてね。一人でぶつぶつ言ってる変な人だって思われちゃうわ」


 両親はエマを可愛がってくれたが、邸にいた使用人や親戚は、エマを気味の悪い子だと陰口をたたいていたのだ。

 ある程度成長してからは気を付けることができたが、子供のころのエマはアーサーたちが話しかけてくるたびに反応しておしゃべりしていたため、両親以外からは頭のおかしい子だと言われていたのである。

 いつだったか、エマを「悪魔つき」だと陰口をたたいて父の逆鱗に触れたメイドが解雇されたこともあるし、噂を聞きつけてやってきた精神科医が玄関先で追い返されたこともあった。


 いい加減エマも十六歳で、分別がつくので幼いころと同じような失態は犯さないように気を付けているが、ふとした瞬間にうっかりと話しかけてしまいそうになることもある。

 見えているもの、聞こえている声を無視するのは、いくら心と体が大人になろうとも難しいものだからだ。

 アーサーは「へいへい」と言いながらエマの足元に降りて、人形のようにおとなしくなった。おしゃべりでお調子者のアーサーも、やればできるのである。


「おや、綺麗なコサージュだね。いくらだい?」


 商品を並べている途中で、さっそく声をかけられた。

 この旅籠はこのあたりで一番大きく立派で、旅商人や貴族も道すがら大勢利用しているとこの先の町で聞いたが本当だったようだ。

 先ほど部屋を借りる手続きをした時も、休憩所になっている一階に大勢の客がいたのを見たが、これは稼ぎが期待できそうである。


(今日のために徹夜して作り続けてよかったわ)


 エマの編むレース編みは、他では決して売っていない特別製だ。

 何故なら紡績が得意な妖精ハベトロットが紡いだ絹糸を使って、エマが丁寧に丁寧に編んだものだからである。

 妖精の紡いだ絹糸など滅多に手に入るものではない。

もちろん、妖精の見えない人間にはこれがハベトロットが紡いだ絹糸であるなんてわかるはずもないのだけど、見た目の美しさだけをとっても、糸屋の最高品質をもしのぐ絹糸である。

だからこそ特に目利きの商人や貴族には非常に好評で、こちらの言い値で買ってもらえることも多いので、旅の路銀を稼ぐのに大変重宝していた。


「いらっしゃいませ」


 この半年で培った商売人の笑顔を張り付けて振り返れば、そこにはシルクハットをかぶった老紳士が立っていた。

 不躾にならない程度に着衣と、さりげなくタイピンにあしら得られている家紋をチェックする。

 この国はエマが生まれ育った国ではないので、どの家紋がどの貴族なのかはわからないが、家紋を使っている時点で貴族であるのは間違いなかった。そろそろ王都では社交シーズンの季節なので、領地から王都に向かっている途中なのかもしれない。


「こちらは三百ルースです。色が違うもの、大きさが違うものもあるんですよ」


 まだ並べていなかったコサージュの入った籠を見せると、紳士が「ほぅ」と目を見張る。


「今年社交デビューする孫娘にと思ったが、この落ち着いた色なら妻にも似合いそうだ」


 よし、とエマは内心で拳を握り締めた。

 ちなみにルースとは、ここアンヴィル国のお金の単位だ。エマの生まれ育ったブラクテン国とはお金の単位も計算も少し違うので、最初は覚えるのに苦労した。


 一ルースが銅貨一枚。百ルースで銀貨一枚。一万ルースで金貨一枚の計算になる。

 季節や収穫量にとって価格変動はあるが、だいたい一ルースでリンゴが一個買える計算だ。

 平民の平均収入は月に五百ルース程度。

 そう考えると、コサージュ一つで三百ルースは高いが、相手は貴族である。中には貴族でも貧乏な人もいるが、目の前の老紳士は身に着けているものはどれも高級品なので、設定している金額から値引く必要はないと判断したのだが、その判断は間違っていなかったようだ。彼は孫娘に、妻に、娘に……と三つもコサージュを買ってくれた。


「お買い上げありがとうございました!」


 最初からいい滑り出しだ。

 旅をしている以上、稼げるときに稼いでおかないと、すぐにお金は底をつく。

 十六歳の年頃の女の子である以上、やむを得ない場合を除いて野宿は避けたいところなので、宿代だって馬鹿にならない。食事とお風呂がついているそこそこ贅沢な宿を選べば、一泊で百ルースもとるところも珍しくないのだ。

 老紳士が気前よく買ってくれたおかげか、宿の中からぱらぱらと人が出てきては、エマの商品を見に来るようになった。

 コサージュ以外にも、グローブや靴下、ティペット、大作であればベールもある。

 まさか、物心ついたときから教養として習わされていたレース編みでお金を稼ぐ日が来るとは、家を追い出された半年前には露とも思わなかったものだ。人生、何事も学んでおいて損はない。


(今日の宿は本当に当たりだったわ)


 情報通り、お金持ちも大勢宿泊している宿だったようだ。

 エマのレース編みは会計が追いつかないほどの勢いで飛ぶように売れていく。

 制作に時間がかかったため、一万ルースという大金をつけた滅多に売れないベールも、娘が来年結婚するという貴族のご婦人が買ってくれた。

 わずか一時間の間に用意していた商品が全部売れて、商品を詰めていた籠の中に稼いだお金を入れながら、エマは鼻歌を歌いたくなった。


「しめて二万六千二百ルースか。この半年で一番の稼ぎじゃね?」

「ええ! ベールやグローブとかの大きな商品が売れたから……っと」


 うっかりアーサーの声に反応してしまって、エマは慌てて口を押える。

 見られていないかときょろきょろと周囲を見渡したが、完売して店じまいをはじめたからか、エマの周りには誰もいなかった。


(よかった、誰にも見られてないわね……)


 エマはほっと胸をなでおろして、ござをたたむと、お金の入った籠とたたんだござを抱えて宿に戻ろうとした。


 だが――


 宿の玄関扉を開こうとしたその時、ドサリ、と背後で重たい音がして、エマは反射的に振り返った。

 そして、宿の前の道に一人の男が倒れているのを見つけてギョッとする。

 うつぶせに倒れているので、男の顔はわからないが、お月様のような優しい色の金髪の男だった。


 旅人なのだろうか。

 マントを羽織っているが、しばらく洗っていないかのように薄汚れている。

 マントも服も靴も、もとは質のいいもののようだが、ここまで汚れていたら台無しだ。

 しかしそれよりもエマを驚かせたのは、うつぶせに倒れている彼の背中で飛び跳ねていた黒い毛むくじゃらの物体だった。


(ボギー!)


 それは、ボギー――俗に、「悪い妖精」と呼ばれる、何かのきっかけで「善い妖精(シーリーコート)」が変質してしまった存在だった。

 妖精は生まれながらにして善良だが、その白く清らかな心が何かのきっかけで黒く染まると、ボギーというまったく違う性質の妖精に変わってしまうのだ。

 彼らは悪戯好きで、時には悪質ないたずらで人を大きな災厄をももたらすことがある。


(大変!)


 目の前で飛び跳ねているのは、小さな妖精のボギーだったが、このまま放置はできない。


「アーサー!」

「おうとも!」


 エマが呼びかけると、アーサーが男の背中で飛び跳ねて遊んでいるボギーの元へ飛んで行った。

 勢いよく飛びかかったアーサーに、ボギーがびっくりして飛び上がり、転がるようにして駆けだす。


「逃がすかよ! おいばーさん!」

「誰がばーさんだい!」


 ポリーが怒鳴り返して、小さな手のひらを前方に突き出した。

 ポリーの指先から絹糸が飛び出して、逃げようとしたボギーの体に絡みつく。


「あらよっと!」


 アーサーが、糸が絡みついて身動きが取れなくなったボギーの背中に飛び乗った。


「エマ!」


 呼ばれて、エマはボギーとアーサーに向かって駆けだす。

 地面に膝をついて、「ガー、ガー!」と低い唸り声をあげてもがいているボギーに、ぺたっと両手をついた。


「妖精さん妖精さん、戻ってきてください」


 それは、エマが知る限り、エマだけが使える特別な魔法。

 妖精が使う魔法とも違う、不思議な力だ。

 唸り声をあげてあがいていたボギーが、エマが触れた途端におとなしくなり、すーっと黒い毛むくじゃらだったその姿が、体長三十センチくらいの小人の姿になった。


「まあ、ブッカだったのね」


 ブッカは、ゴブリンの親戚だ。

 ゴブリンはもともと悪戯好きな一面を持っているため、ボギーに変質しやすい。


(でも、その中でもブッカは善良な妖精なのに)


 もしかしたら、人に意地悪をされてしまったのかもしれない。人は妖精の姿を見ることはできないが、無意識に妖精に意地悪をして、彼らの心を黒く染めてしまうことがある。


「今は何も持っていないけど、よかったら夜に訊ねてきて。あなたの好きなパンとエールを用意して待っているわ」


 エマが小声で言うと、ブッカは踊るようにその場でくるりと回ってから一礼し、宿の方へ駆けていく。

 おそらく今晩あたりに訊ねてくるだろうから、彼のためのパンとエールを窓辺に用意しておいてあげよう。

 微笑みながらブッカを見送っていたエマは、そこでハッとした。


(しまった! あの男の人を放置したままだったわ!)


 ボギーに気をとられてすっかり忘れていた。

 エマが急いで男に駆け寄ると、死んだようにぐったりしている。


「大変! あの、大丈夫ですか⁉」


 アーサーが男の肩口のあたりに座って、前足で男をちょんちょんと叩いた。


「おーい、生きてるかぁ? 死んでるのかぁ?」

「ちょ、アーサー」


 エマは小声でアーサーに注意して、息をしているかどうかだけ確かめようと、男の顔に耳を近づけた。


「……た」


 そのとき、かすれた小さな声がして、エマはほっとした。


「よかった、生きて――ひっ」


 安堵したのもつかの間。

 微動だにしなかった男の手がにゅっと伸びて、エマの手首をつかんだ。


「エマに何しやがる!」


 アーサーが怒鳴って男の上に飛び乗るが、妖精の姿が見える人間なんてほとんどいないので、もちろん男も気づいていない。

 エマをつかむ手は、倒れていたとは思えない強い力だった。


「ちょっと、離し――」

「頼む……なにか……」


 男は何かをつぶやきながらエマの方に顔を向けた。

 服同様、顔も土がついて汚れているし、無精ひげが伸び放題になっているが、エマを見つめる二つの瞳だけはとても綺麗な湖底のような青をしていた。

 そのあまりに綺麗な瞳に、ほんの少しだけエマの心臓がドキリとする。


「な、なにを……」


 狼狽えるエマに、男はぐったりとした様子で、声を絞り出した。


「腹……減った……」

「…………」

「おやまぁ」


 エマの肩の上で、ポリーがあきれた声を出す。

 エマも数拍遅れて、声を裏返した。


「はあ⁉」



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