第9話 疑心
田橋と別れて2時間が経過した。
僕は建物の裏でずっと隠れていた。本当は外に出たかったが、状況が分からない今、不必要に移動するのは得策ではないと考えた。正直、状況を悪く考え過ぎだと思った瞬間もあった。師匠が生きているなんてあり得ない。さっきのはやはり弟子だったのだろう、と。僕が参列者であれば、そう考えている。Nowの配信もただの勘違いだ。
だが、そのためには、師匠の遺体が見つかる必要がある。遺体がない今、師匠の生死について断言できない。つまりそれは、僕への疑いも残ったままとなる。
ただ僕は生まれてから、悪事に手を染めたことはない。人生で一番悪いことと聞かれれば、高校生の時自転車で彼女と二人乗りをしたことくらいだ。
世界の大半が僕と同類だろう。実際に追われる立場に立つとどうしていいか分からない。思い出すのが、小学生の時にした鬼ごっこ。僕は逃げることが大好きだった。その当時の精神が生き残っていれば、今の状況を少しは楽しめたのかもしれない。だが、小学校時代、親の都合で引っ越し、新しい学校では友達ができなかった。自然と外で遊ばなくなり、僕の中で養われた逃げる側の精神はあっけなく消えていった。
…どうするべきか。
とりあえず、田橋と約束した2時間が経過したのだ。メモに書かれてあるロッカー以外道はない。顔を下に向けながら道路に出て、約束の場所へと歩を進める。平然と歩いているように装っているが、心臓の鼓動は通行人に聞こえるのではないかというほど大きく脈打っている。
「なあなあニュース見たか?」
ニュースという言葉に過敏に反応してしまう。後ろにいる大学生二人の会話が耳に入る。
「何のニュース?」
「決まってるだろ!女優のnanaさんの熱愛発覚だよ。」
「それね。お前好きだったもんな〜。」
ふう。大学生のただの会話に神経を擦り減らしている自分に笑えてきた。
「それよりもさ、檜垣星の話題の方がすごいだろ。」
心の安らぎは一瞬にして災害を受けたように変わった。全身に緊張が走る。
「あれもやばいよな。買春してて、死んだと思ったら遺体が消えて逃走してるって話だろ?まじ映画じゃん。もし俺が檜垣見つけたらすごいことだよな!テレビに出られたりして。」
「バカじゃねーの。ネットが面白がって取り上げてるだけだろ。でも、もし本当なんだったら…興奮するな。」
二人の会話にはこれ以上付き合っていられない。スマホが使えない今、最大限の情報をくれた大学生に心の中で感謝を伝え、歩速を最大に上げた。
細心の注意を払いつつ、ロッカーまで辿り着いた。目の前にはロッカーがずらっと並んでいる。息を殺し、ロッカーの中に人の気配があるかを確認する。
空気の流れに変化は感じられなず誰も居ない。最高のタイミングだ。ポケットから田橋から受け取ったメモを取り出す。
「…嘘だろ。」
そこにはここの場所だけが書かれており、重要な番号がない。なぜ今まで気付かなかったのか。自分の思考がここまで疲弊しているのかと、驚き、失望する。
目の前には数えきれないほどのロッカーが並んでいる。これらを一つ一つ確かめていくしかないのか。いや、そんな時間はない。追われている身として、一刻も早くこの場所を去りたい。しかし、どうやって探す。
入り口にあるロッカー番号の地図を見る。
「001〜500までか。」
500個のロッカー。どこかに田橋からの荷物がある。
なぜか自然に体が動いた。これは本能ではない。何かもっと無意識によるものだった。僕は番号に向かって、脇見をすることなく辿り着いた。
「222。」
222。これは、僕らがコンビを結成した日だ。田橋と自分との関係に存在する数字として、一番これが有力だった。取手に手を掛ける。
ガチャッ。
ロックされている音。つまり、何かが入っている。きっと田橋からの贈り物だ。田橋との繋がりを感じ、孤独との闘いからの解放された安心感を抱いた。
しかし、重要なのはここからだ。
「鍵はどこだ?」
僕は、ただただ222のロッカーを眺め、なす術がない状態だ。せめてもの救いは、ロッカールームに誰も足を踏み入れていないことだ。こ
こまで来たんだ。何とかロッカーを開けたい…。そんな時、田橋の言葉が脳裏を突き抜けた。
「今は上手くいかなくていい。でも常に上を向こう。いつか上手くいくんだ。」
これは田橋の口癖。ライブで上手くいかなかったり、賞レースで負けてしまったりした時に、僕に励ましの言葉をくれた。いや、今更だが、田橋はこの言葉は自分自身を鼓舞するために呟いていたのかもしれない。
「上を向こう。」
つま先立ちになり、222のロッカーの上に手を伸ばした。手をゆっくり上面に沿って這わしていくと、何かが手に触れた。僕はそれをしっかり掴んで、顔の前で開く。
「あった。」
手の中には222と書かれた鍵があった。222の番号といい、この鍵の場所といい、田橋と僕との関係性によって辿り着いた。さっきまで心の中は不安でいっぱいだった。しかし、今は安心感に包まれている。鍵を差し、ゆっくりと回す。
かチャッ。
今度は鍵が正常に開く音がした。改めて扉を手前に引く。中には黒いリュックがあった。
チャックを開く。中には着替えとスマホが入ってあった。僕は急いで近くのトイレに入り、個室に駆け込んだ。服を着替え、スマホを起動させる。特にアプリはない。連絡先には田橋の携帯のみ入ってあった。僕との連絡のために用意したのだろう。僕はスマホを操作して、Nowをダウンロードする。
「嘘だろ…。」
Nowは生配信が一番の魅力であるが、テキストや写真の投稿も可能である。トレンドの中に「令和最大の犯罪者 死を偽り檜垣星逃亡中」という文字を見つけたのだ。
こうしてはいられない、急いで田橋に連絡を…。そのタイミングでトイレに誰かが入って来た。電話は後にするしかない。早く安全な場所を探そう。
脱いだ服を急いでリュックの中に詰め込む。その際、底から一枚の紙を見つけた。
「庵屋 俺は師匠の遺体を探している。そっちに集中するから、俺から連絡するまで待っててくれ。必ず会おう。 田橋」
田橋からのメッセージ。心が折れ掛けていたが、田橋からの言葉で何とか堪える。そうだ。僕は一人ではない。田橋が必ずこの状況を打破してくれる。それまで逃げ切るしかないんだ。
「田橋。ありがとう。」
心からの感謝を呟き、体を奮い立たせる。トイレの中にはもう気配は感じられなかった。ここから移動するなら今しかない。もう一度周りに細心の注意を払い、歩き始める。服装を変えたからか、少なからず安心感がある。苦しくなったら、またあの紙を見ればいい。何度だって立ち向かえる気がした。
「…あれ?」
頭の中で何かがよぎった。さっきの紙に違和感がある。僕は建物の影に身を潜め、リュックから紙を取り出した。内容は僕に向けたメッセージ。何もおかしくはない。田橋からもらったメッセージと言えば…。僕はもう一つ田橋から貰っていた紙を取り出した。ロッカーの場所を示す紙。リュックの中に入っていた紙。
「違う。」
二つの紙の文字。明らかに筆跡が違うのだ。どちらが田橋の字なのか。分からない。田橋から渡される台本はいつもパソコンで打たれたものだった。直筆を見たことはない。
さらに奇妙なことに気付く。始めに受け取った田橋からのメモ。それをいつ田橋は書いたのか。急いで会場から逃げて、車に駆け込む。移動中、田橋は運転に集中していた。メモを書く隙、その素振りなど一切なかった。
しかし、今考えても仕方がない。僕は逃げるしかないのだ。僕は田橋への信頼と少しの疑心を抱きながら歩を進めた。
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