第4話 相方賛成

庵屋の提案に難色を示したのは、明確な理由があった。俺はすぐにでも売れる必要がある。早く金を稼ぐ。そして、母親の病気を治す。

庵屋の強い主張に押し負けて、曖昧にはぐらかしてその日は解散となった。正攻法とは思えない相方の提案にイライラしつつ、母親が入院している病院へ向かった。母親が倒れたのは、高校卒業の時期。母子家庭で働き詰めだった。大して頭が良くなかった俺のために、必死に働き高校の授業料を稼いだ。その無理が限界に達したのだろう。母親が入院してから、自分はやっと母親の偉大さを痛感した。せめてもの救いは、今も母が生きているということだ。命がある限り、何度だって親孝行できる。学力的に有名な会社など可能性が微塵もない俺にとって、治療費を稼ぐための方法で思いついたのが芸人だった。というのも、母親は大のお笑い好きだった。幼い頃、小さなテレビの前で一緒に漫才を見ながらご飯を食べた。思い出すとあの時間が幸せだった。自分もお笑いを通して母親を元気にしたい。そして、売れて金を稼いで母親の病気を治療する。

しかし、実現するまでの道のりは、全く見えていない。

自分だけでは解決できないと考えた時もあった。父親へ援助を求めようとした。母親の状態を知れば、絶縁状態であっても何か情に訴えられるかもしれない。

入院中一度だけ、父親のことを尋ねた。

「きっと意味ないよ。」

母親の返答は一言のみ。それ以上口を開くことはなく、それ以上聞くことができなかった。もし、父親に少しでも後ろめたさがあるのであれば、連絡して金を借りたいと思っている。しかし、そうなったところで母親は納得せず、金を使おうとはしないだろう。


病院に入り、何度目になったか分からない通路を進む。見慣れたロビー、受付、廊下、エレベーター。建物自体は変わらない。しかし、そこで生活している人は確実に変わっていることが、数年通っているからこそ分かる。俺の母親もそれと同じように…。嫌な想像を跳ね除けるように顔を振り、母親の病室を目指す。

母親がいるのは6階建ての病院の5階。廊下の奥にある母親の病室が見えた。すると、目の前から季節に合わないコートを着た女性が歩いてきた。通り過ぎる際、ほのかなローズの香りが鼻を刺激する。初めて見る人だった。父親もそんな風に急に現れないだろうか…。期待を込めて、病室を開けた。しかし、目に映る景色はいつもと変わらない。母親がベッドで横になっていた。

「おーい。今日の体調はどうだ?」

元気に声を掛ける。息子として、芸人として、母親には少しでも元気になってもらいたい。

「優。来てくれたんだね。毎日すまないね。」

日に日に元気がなくなっているように感じる声。不安を振り払うように、言葉に力を入れる。

「毎日って、言い過ぎだろ。営業で来れない時もあるじゃん。それともボケてきた?天然ボケには対応できないよ。」

「はは。さすが芸人さんだねえ。元気もらえるよ。」

そう答えて、母親は笑顔を作った。あくまで、作ったように感じた。それだけ、体もしんどいのだろう。さらに襲ってくる不安を振り払うために、話題を変えた。

「そういや、この階の患者さんって変わった?さっき廊下でさ、初めて見た人とすれ違ってさ。」

一瞬、母親の表情が止まった。それが意識されたものなのかは分からない。

「…どうだろうね。私もここに長いけど、全部を知ってるわけじゃないし。病室もそんなに出れなくなったしね。」

母親はゆっくりと窓の外を見つめた。目が合ってない今なら、父親のことをもう一度言える気がした。

「そうか。ちょっと思ったんだけどさ、その人もしかしたら、この階の患者さんの家族とかでさ。すごく後になって入院してることを知って慌ててきたんじゃないかなとか思ったんだよね。もしかしたら父親も母さんのこと心配して来てくれるんじゃないかって。」

急な「父親」というワードに母親は驚いたのか、大きな咳を吐いた。慌てて母親の背中をさする。やはりまずかったか。後悔の念が押し寄せた。

「母さん。ごめ…。」

謝罪を言いかけた時、それを遮るように母親が僕の手を掴んだ。

「檜垣星って人知ってるかい?」

こっちも咳が出そうになる。先ほどその名を聞いたばかりだ。

「ああ、知ってるよ。お笑い芸人でしょ?ピン芸人で最近ちょっと売れ始めているみたいだね。」

俺が知っていることを告げると、母親はうんうんと満足げに頷いた。

そして、衝撃の一言が俺の心に刺さる。

「その人が優の父親だよ。」

頭をハンマーで殴られたような感覚。小学生でも分かる一文のはずが、正しく理解するまでに長い時間がかかった。

「…どういうこと?」

何とか言葉を返す。

「そのままだよ。私は檜垣星さんと結婚して、優、あなたを産んだ。ただ、彼はお笑いの道を決して諦めなかった。私はあなたのため、安定した仕事に就いて欲しいと訴えた。彼は聞き入れなかった。結局、それが原因で私たちは別れたの。」

そんなことがあったのか。俺は何とか母親の言葉に理解が追いついた。

「隠していてごめんね。ずっと言わないつもりだったんだけど、やっぱり死ぬかなって思ったら、あなた一人にできない気持ちが強くなってね。」

死ぬ。そのワードが鋭利な刃物のように俺の心に刺さった。状況を受け入れたくない感情が脳内を駆け巡る。

「優?」

顔を上げると、心配そうにこちらを見る母親がいた。母親が死ぬことなんて受け入れられない。

「何言ってんだよ!母さんはまだまだ元気だろ!弱音吐くなよ。」

元気になってほしい気持ちが空回り、半分怒るような語気になった。母親が目をつぶった。息を整え、改めて言葉を選ぶ。

「ごめん。怒ってるわけじゃないんだ。」

「…分かってるよ。」

沈黙。母親も俺も、これ以上話をする余裕はなかった。俺はまた来ると告げて、病室を出た。目を閉じて深呼吸する。脳内に精一杯の酸素を送り、判断を待つ。

病気の母親。売れることを夢見る俺と庵屋。弟子入りを申し込みたい相方。師匠候補であり、実の父親だという檜垣星。治療に必要な金。売れ始めた檜垣。

それらの点が線で結ばれていく。絡み合った線ではあるが、はっきりとした物語がそこには現れた。

ゆっくりと瞼を上げ、結論を決心に変える。檜垣星の弟子になろう。

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