第6話
私の名前は
「疾風さん…行っちゃった」
なんと、疾風さんが仕事に行っちゃったのである。
月曜日だからとか言いながら出かけてしまった。溜息つくほど行きたくないなら、家で私とイチャイチャしてればいいのに。
「全く…可愛い彼女を置いて仕事に行くなんて、薄情な人ですね」
とはいえ行ってしまったものは仕方ない。あの人のことは一旦忘れて、帰ってくるまで暇潰しに興じるとしましょう。
疾風さんは年齢の割には良いマンションに住んでいるらしく、防音設備がそれなりに整っている。ここでならギターを弾いても迷惑にはならないでしょう。
「いつもより控えめに弾くとしますか」
元々ロックは苦手な私です。ここは1つ、寂しさを表現した曲でも奏でましょうか。
弦を弾いて音を出す。久しぶりに弾いたような気がするが、きっと気の所為でしょうし。
1曲弾き切るつもりでしたが、途中で演奏を止めた。何となく、今の気持ちにこの曲はあっていないような気がしたから。
もう1度ギターを弾き始める。今度は疾風さんと初めてあったあの夜に弾いていた曲を演奏した。
だけど、最後まで弾いても疾風さんが来てくれることは無かった。
「…らしくない妄想でしたね」
詰まらなく感じたギターをケースにしまい、リビングから移動する。疾風さんと暮らすこのアパートは、リビングとは別に部屋が2つある。
1つは疾風さんの部屋。もう1つは私が寝泊まりしている部屋で、元々は疾風さんの元カノの部屋だったらしい。
リビングを出た私は疾風さんの部屋に入った。中には本棚とベッド、それから机があるだけで、趣味らしい物は見当たらない。
私はベッドに寝転がると、掛け布団を頭から被った。
(疾風さんのベッド…)
鼻腔をくすぐる香りが安心をくれる。まるで疾風さんに抱き締められているような、暖かい感覚だ。
私は所詮、仮初の彼女。お互いの利害が一致しなくなれば別れるだけの関係。それでいいと思っていた。
だけど──
(あの人の匂い…安心する)
──今だけは、この安心は私だけのものです。
猫のように丸くなり、私は瞼を閉じた。意識が夢の中に落ちていくまでに、そう時間はかからなかった。
∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵─∵
「…ぅうん…はっ、寝てました」
次に目を覚ましたのは、日も傾きかけた頃。時計を見ると4時を指していた。
「疾風さんはいつ頃帰ってくるんですかね。このままだと退屈で3度寝してしまいそうです」
その時、私のお腹がグーっと鳴った。
そう言えばお昼ご飯を食べていませんでしたね。確か疾風さんがお昼ご飯用に準備をしていくと言っていた気がしましたが…
「……………………はぁ」
机の上には1000円札が置いてあった。多分、疾風さんがお昼ご飯代として置いていってくれたのでしょう。ですが私は溜息が出てしまった。
「疾風さん、紙は食べられないんですよ…」
何かを買いに行こうにも、外に出たら帰って来れないほど土地勘が無い。お金だけあっても意味は無いんです。
「仕方ありませんね…かくなる上は最終手段です」
私はリビングのソファに寝転がると、再び瞼を閉じた。グーグーと鳴り続けるお腹は一旦無視です。全ては疾風さんが帰ってきてから考えましょう。
「で、僕が帰ってくるまで寝てたってわけか…」
ソファで3度寝を決めてから1時間後、疾風さんがようやく帰ってきた。
「そうです。ちょっとは反省してください」
「僕?僕のせいなの!?」
「もちろんです。か弱い女の子にお金だけ渡して終わりなんて、ちょっと薄情ですよ」
「素性も知らない子を家に泊めた上にご飯代まで出してるのに、まだダメなのか…」
今は仕事から帰ってきた疾風さんが買ってきたウエハースを食べながら、私は夕食が出てくるのを待っていた。キッチンからは美味しそうな匂いが漂って来ている。今夜は唐揚げでしょうか。
「分かったよ。明日からはお昼ご飯は作り置していくことにするよ」
「良い考えですね。でも私に道を教える方が楽じゃないですか?」
「あー…いや、迷子になったキミを探す方が大変そうだ。作ってから行くよ」
「む、私が迷子になる前提ですか」
料理中の疾風さんに後ろから抱き着き、唐揚げを1つ摘み食いする。出来たてホヤホヤの唐揚げは、とっても美味しかった。
「ちょっと!油使ってるから離れてて!」
「大丈夫です。疾風さんは大っきいので、油が跳ねた時は盾にしますから」
「そういう話じゃないんだけど…あっ!」
「隙ありです」
追加で唐揚げをまた1つ、口の中へと放り込む。疾風さんの作るご飯が美味しいのが悪いですね。摘み食いしてしまう私は悪くありません。
「摘み食いばっかりしないの!ほら待ってて、もうすぐ完成するから」
「はーい、です」
疾風さんから離れて再びソファに座る。やっぱり1人より疾風さんと一緒の方が落ち着きます。この人は私に何も聞かず、私を受け入れてくれた。
本当に嬉しかった。だって…
もう私には、帰る場所も無いのですから。
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