それってもしや……?

 急いで帰らないと、弓波が腹を空かして待っているだろうな。

水越は帰路を急いでいた。


 一応、昼飯はコンビニで何か買って食べろ、というようなことは、メッセージアプリで言ってあるが、晩ご飯は弓波と二人で食べる予定なので、自宅に戻ってすぐ作らなければいけない。


 でも、もうすぐ日が暮れる。十九時までには帰ってくるからな、と弓波に伝えた手前、急いで十九時前には帰らなければいけない。


 そう気を持ち直し、自宅まで急ぐ。数分ほど歩くと、大きな十字路が見えた。

あそこの十字路を右に曲がれば、すぐ自宅にたどり着く。


 水越が十字路を曲がろうとすると、ふと何かにぶつかった。


「おっと」


 水越は早足のままぶつかったので、よろけそうになった。


「あ、すいません! 大丈夫ですか⁉︎」


 水越がぶつかったのは、水越よりも随分と背が高い男性だった。


「あ、いえ……大丈夫です。私こそ、注意力が散漫になっていたので、

気づかなくて申し訳ないです」


 水越は、すかさず男性に謝る。


「いえいえ、俺の方こそぼーっとしながら歩いていたので」


 男性も、そう水越に言った。


「どこか、怪我はされてないですか? 今ちょっと、よろけてたでしょう」


 男性は水越を心配して、そう言った。


「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


 水越は丁寧な口調で、男性に言った。

本当は、水越はぶつかった拍子に電柱に右肘をぶつけていた。しかし相手の男性は、いかにも正義感が強そうな好青年だったので、正直に「肘をぶつけてしまって……」と言うと「それならすぐ処置をします!」と言わんばかりの正義オーラを放っていた。

 そうなると、家に帰るのがますます遅くなりそうなので、黙っていた。


「それなら良かった……。お互い気をつけましょうね」


 男性は、ほっと安堵したような表情をして、水越に向かってそうにこやかに笑いかけた。


「えぇ。ありがとうございます。では急いでいるので、これで失礼します」


 水越も、男性に向かってにこやかにそう言って、素早くその場を去った。


 こっちは、申し訳ないがあいにく和やかに立ち話をしている時間はないんだ、と水越は思いながら、自宅へと歩いて行った。



    *



「ただいま」


 水越はそう玄関のドアに手をかけながら言った。


「おー、おかえりなさい」


 弓波は、ミートソースパスタを作ったことが悟られないように、いつも通りの

体勢で、ソファにもたれかかってスマホをいじっていた。


「遅くなってすまない。今すぐ夕食を作るから、待っててくれ」


 水越は上着をハンガーラックにかけながら言った。


「いや、そんなに急がなくても、ゆっくりしてくれていいよ」


 弓波はそう水越に言う。弓波としては、さっきミートソースパスタを食べたばかりなので、お腹が空いていないのだ。


「でも、お前は昼ごはん以外何も食べていないんだろ?」


 水越がそう尋ねた。


「うーん、昼ごはんは食べたんだけど……」


 弓波は水越の質問に、曖昧な返事をした。


「なんか怪しいな。さては、間食を摂ったな? だからお腹が空いていないんだろう」


 水越は目を細めて弓波をまじまじと見つめ、厳しく詰問してきた。


「うっ……そ、それは……」


 今の弓波には、もはや目を泳がせることしかできなかった。兄と一緒にミートソースパスタを作ったことが、水越にバレては絶対にいけないのだ。


 弓波は激しく悩んだ。もし正直に「ミートソースパスタを、兄と一緒に作ってたんだ」と言ったら、せっかくのハロウィンに向けての企画が水の泡になってしまう。

それならば、”間食を摂った”と嘘の証言をしてしまえば怒られる可能性はあれど、

少なくともハロウィンの企画が水越にバレることはないだろう。


 そう思い、弓波は


「さ、さすが水越は鋭いな〜。実はおやつを食べちゃったんだよねぇ……」


 弓波はそう水越に言った。ちょっと演技がわざとらしすぎたかな、とも思ったが、

もうこの際あとにはひけない。


「なんだ、そうだったのか。間食を摂るのはいいが、ほどほどにしておけといつも言っているのに」


 水越は、やれやれといったような表情で弓波に説教をした。


「いやぁ〜美味しくてさ。ついつい食べすぎちゃうんだよねぇ……」


 弓波はそう言ってアハハと笑った。これが演技だと悟られないよう、取り繕うのに必死だった。


「今度からは、くれぐれも注意してくれよ」


 水越はそう弓波に厳しく命じた。


「分かってるよ」


 弓波はそう真面目な顔をして言った。どうやら水越には、今の一連の動きが演技だとバレていないようだ。


「今日は鮭の塩焼きにする。秋らしくていいだろ」


 水越は冷蔵庫からパックに入れられた鮭を取り出しながら言った。


「うん。鮭は確かに秋っぽいね。俺、ちょうど焼き鮭が食べたいと思ってたんだよね」


 今度の弓波の言ったことは本当だった。弓波はミートソースパスタという肉肉しいものを食べたので、晩ご飯は焼き鮭のようにしょっぱいものが食べたいと思っていたのだ。


「それならちょうどよかったな」


 水越も、機嫌が良さそうな感じでフライパンを取り出した。弓波は、水越に感づかれないよう、ちゃんと水越が帰ってくる前に、兄と分担して皿洗いをしていた。なので皿はしっかりと食器棚に収まっている。


「なぁ、水越の父さんと母さん、元気だったか?」


 弓波は、台所に接しているカウンターから身を乗り出すようにして、水越に聞いた。


「あぁ。俺の父さんも母さんも、特に変わりはないようで安心したよ。父さんなんか、全然元気なんだ」


 水越は、嬉しそうに笑ってそう言った。


「今は朝っぱらから起きてラジオ体操なんかしているらしい。反対に、母さんは倒産とは対照的に静かな人でね。編み物や、料理を作ったり文章を書いたり……とにかく

何かを作ることが好きな人なんだ」


 水越はつづけて嬉しそうにそう言った。

水越のこんなに嬉しそうな表情なんて久しぶりに見たぞ、と弓波は思った。


「……そっか。水越の父さんも母さんも、元気そうで安心したよ」


 弓波はそう優しく微笑んで言った。


「とりあえず、鮭はこのまま焼いておいて……あとは米を炊かなきゃな」


 水越はそうぶつぶつ呟きながら、米袋を掴んだ。

 ––––瞬間、水越の右肘を、鈍い痛みが襲った。


「……っ、いてっ……!」


 水越はそう呻き、反射的に米袋をドサリと落とした。


「え、おい大丈夫か水越!」


 弓波はそう叫び、水越のもとへ駆け寄った。


「……大丈夫だ。心配してくれてありがとう」


 水越はそう苦笑して、再び米袋を掴み、炊飯器に入れた。


「どこか、ケガしたのか?」


 弓波はなおも心配そうに水越に尋ねた。


「あぁ、ちょっと右肘を電柱にぶつけただけだ。帰りに、そこの曲がり角でちょっと人とぶつかってしまってな」


 水越はそうなんでもないかのように言った。


「えっ、ぶつかったって⁉︎ そいつ、わざとやったんじゃないか⁉︎」


 弓波は、”人とぶつかった”という単語を聞いて、憤慨した。


「いや、別にわざとやったわけではないよ。ちゃんと謝ってくれたしな。それに、

急いでいた俺も悪いし」


 水越はそう言って弓波を宥めた。


「いーや、俺は許せないね。一体、俺の大切な水越に怪我をさせた奴はどこの

誰なんだ! 水越、ちょっとそいつの特徴を教えてくれ!」


 弓波の心中は暴走機関車のように荒れ狂っていた。水越を傷つけた奴は絶対に許したくないという気概である。


「んー……特徴といってもな……。男性で、俺より背が高かったんだ」

「ふむふむ」


 水越がさきほどぶつかった男性の特徴をあげていった。弓波は、まだ怒りが収まらないといった様子で聞いている。


「それで、体格がしっかりしていた」

「ふむふむ」


 あとは–––と水越はしばし宙を見つめ、ふと弓波に視線をやった。


「なんだか、お前に似ていた気がするよ」

「え? 俺に?」

「ああ」


 弓波に似ている男性って、もしかして……。ふと弓波の全身を、嫌な予感が包んだ。


「ねぇ水越」

「ん? なんだ?」

「その人ってさ……どっちの方向から来たか分かる?」


 弓波はおそるおそる水越に聞いた。


「あぁ、うちのアパートの方角から来たが……それがどうかしたのか?」


 弓波の嫌な予感は、冷や汗となって弓波の額を濡らした。


「いやぁまさか……ね……ハハハ……」

「うん? どうした弓波。さっきまで威勢が良かったのに、急に大人しくなったな。

なんだか顔色が悪そうだが……」


 顔面蒼白になっている弓波を心配して、水越がそう尋ねたが、弓波は黙っているしか術がなかった。


 もし水越がぶつかったという男性が自分の兄だったら……と思うと、なぜだか胸のあたりがひやひやする。

弓波も、もし水越にぶつかった人が自分の兄だと最初から知っていたら、あんなに怒りをぶちまけずに済んだ。

 それにしても、自分はなんてひどいことを兄に言ってしまったんだ……と弓波の全身を、また後悔の波が包んだ。


 今の弓波には、自分の兄に心の中で懺悔をすることしかできなかった。

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