弓波の兄
弓波が、兄に料理を教わっているのは一ヶ月ほど前からだった。
*
「あと一ヶ月後にはハロウィンだし、今年は俺が脅かす役をやりたいなー。
なにか企画ないかな」
九月上旬。外に散歩に出れば、まだセミが鳴いているし、もう九月だというのに蒸し暑い。残暑と呼ぶには暑すぎる気温の中、弓波は部屋でウキウキしながら呟く。
ふと、去年のハロウィンを思い出してみる。去年のハロウィンは、たしか水越に驚かされたんだっけ。俺も、簡単なお菓子はいくつか用意して、それをトリック・オア・トリートの、トリートって事にしたけど。お菓子を用意するなんて、小学生でもできたことだし、今年はもっと大掛かりな事をやりたい、と弓波は思った。
去年は結局水越に一杯食わされたし、今年はどうにかして俺が驚かしてやりたい。
……なにか無いかな、水越が驚きそうなこと……。弓波は一生懸命頭を捻りながら考えた。
お化けや怪談なんかは驚きそうだ。水越は、一見寡黙でクールそうだが、ホラーが苦手という、意外にも可愛らしいところがある。だから、なんとかしてホラー映画を見せることが出来れば、少しは驚いてくれるかもしれない。
弓波はそう考え、早速計画を練った。なんとかして水越にホラー映画を見せたいが、問題は自分自身もホラーが苦手だということだ。
––––前、水越と映画館に映画を見に行ったときのこと。そのときは、アクション映画を観に行ったのだが、本編が流れる前の予告編でホラー映画が流れたことがある。
そのときの水越は、もう見ていられなかった。怖そうなBGMが流れた瞬間にササっと身をかがめ、そのホラー映画の予告が終わるまでずっとそのままの姿勢を保っていた。
まぁ、弓波も水越と同じく、その予告が終わるまで身をかがめていたのだが。はたから見れば、成人男性二人が映画の予告中ずっと身をかがめている、という光景はだいぶおかしい光景だ。
そんなこともあったなぁ……と、弓波はしみじみ思った。じゃあやっぱり水越も弓波も、両者が損をしてしまうものはダメだ。じゃ、ホラー映画とかお化けの類は禁止にするかな、と弓波は思った。
じゃあ、他に何かあるかな。ホラー映画以外に、水越が驚きそうなこと……。
弓波は、再び頭を捻って考えた。
あ、そうだ! 弓波の頭上に、豆電球が浮かんだ。もう、料理をすればいいんじゃないか……⁉︎ 俺が料理をすれば、水越も驚くに決まっているだろう、なにしろ、お好み焼きを作ろうとした時なんて、必要もないのに大量に油をホットプレートに注いだおかげで、火傷して、酷い目に遭った俺が料理を作るんだからな。
弓波は、今年のハロウィンは『料理を作って、水越を驚かせること』に決めた。そうと決まれば、急いで料理が上手くなる方法を考えなければならない。
独学でやってもいいが、一人でやると失敗する可能性が高い。なので、誰か料理が上手い頼りになれる人に、料理を習いたい。
パッと思い浮かぶのは、水越だ。やっぱり、料理が上手いししっかりしていて頼りになる。でも、今回に限ってはダメだ。なにより、水越を驚かせるのに、当の本人に聞いては、料理を作って水越を驚かせるという企画が台無しになってしまう。
「うーん……水越の他に、料理が上手い知り合いといったら……」
水越の他に、弓波が知っている限りで、料理が上手い人を必死で思い出してみた。
まず、両親はダメだ。遠方だし、二人とも年なので、こんなアパートまで来てもらうのは悪い気がする。
では、兄はどうだろうか。弓波の頭上に再び豆電球が灯る。
弓波の兄は、弓波と歳が二歳離れている。頼りになる兄で、東京で有名な大学を出て以来、ベンチャー企業に勤めている。……自分とはあまり共通点が見当たらない立派な兄だ。おまけに、料理も上手い。
「料理の上手い兄弟がいてくれて良かった!」
弓波は思わずそう声に出して呟いた。早速、兄に連絡をとってみよう。
しかし……。弓波には不安な点が一つあった。
もう二年近く、兄とは連絡をとっていないのだ。正直、急に連絡を入れても、
兄が反応して、ましてや料理を教えにここに来てくれるかは分からない。
しかし、ここで二の足を踏んでいてはどうにもならない。
「一か八か、やってみるしかないよな……!」
弓波は勇気を出してスマホをとりだし、兄に連絡をとってみた。
*
「久しぶりだな、弓波」
弓波の兄は、爽やかな笑みを浮かべて、そう弓波に声をかけた。弓波より
背が高く、高校と大学ではスポーツもやっていたからなのか、体格もしっかりしている。
「あ、兄貴……! あー……えっと、久しぶり……!」
弓波は、兄が玄関のドアを開けた途端、兄を見て硬直してしまった。
何しろ、二年間も会っていなかったのだ。弓波には、ぎこちなく挨拶を返すしか
なす術がなかった。
「ははは、そんなにぎこちない返しをするなんて、弓波らしくないじゃないか。
少なくとも、二年前はもっとはしゃいでいただろ?」
弓波の兄は、そう困ったように笑った。
「う……だってさ〜。久しぶりに会うと、どう反応していいか分からなくなるっていうか……」
弓波はそう、目を泳がせながら兄に言う。
「そんなことを言わなくても、二年前みたいに接してくれれば大丈夫さ」
弓波の兄は、それでも引き下がらない。二年前と変わらず、弓波に優しく接してくれている。
「……そこまで言うんなら、遠慮なく接するけどさ。実は、兄貴に折り入って頼みが
あるんだ」
弓波は、早速本題に入った。
「うん、なんだ? といっても、大方予想はつくけどな」
弓波の兄は、優しく弓波が何か言い出すのを待っている。
「電話でも話したけどさ––––俺に、料理の作り方を教えて欲しいんだ!」
力強くそう言った弓波に、兄は笑って言った。
「いいね、そいつを待ってたんだ! 早速教えてやるから、まずは手を洗わせてくれないか?」
兄はそう爽やかに笑って言った。
「あぁ、もちろん! じゃあ俺はリビングで待ってるよ!」
弓波も、兄にそう言い残して居間に行った。
*
「俺は、紅茶とか淹れられないから……悪いけど、牛乳でいいか?」
弓波は洗面所にいる兄に尋ねる。
「あぁ、お構いなく! お前が用意してくれるのなら、なんでもいいよ」
兄は、そう返した。それなら、別に牛乳でもいいということなのだろう。
まぁ俺の兄は紅茶とかに興味ない奴だしな。弓波はそんなことを思い出し、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、二つ分のカップに注いだ。
「しかし、良いアパートに住んだな弓波。ここって、会社から近いのか?」
やがて手洗いを終えた弓波の兄が、部屋を見回しながら弓波にそう言った。
「いや、電車は使うよ。電車を使って、大体三十分で会社の最寄駅に着くかな」
弓波はそう兄に教えた。弓波と水越が勤めている会社は、電車一本で会社の最寄駅に着けるので、便利と言えば便利だ。
弓波としては、徒歩十五分くらいで通勤できる会社に勤めたいなと思っていたのだが、今の会社は雰囲気も良いし、職場の人間関係も良好なので、今の会社でも文句はない。
「それに……住んでるっていっても、俺が住んでるってわけじゃなくて、その……
先輩の家に、住まわせてもらってるというか……」
弓波は、そう口籠って言った。
実は、弓波は水越の家に住まわせてもらっている、居候の立場なのだ。
「なるほどな。……ところで、一ついいか?」
兄は弓波に聞いた。
「え? なんだ?」
弓波は、なんとなく気まずくなり、牛乳を飲んだ。
「その先輩は……女性なのか?」
兄が、凄く真剣なトーンで弓波に聞いてきたので、弓波は、危うく飲んでいた牛乳を吹き出しそうになった。
「ぐっ……おい兄貴、なんで急にそんなこと言うんだよ! 女性じゃないって! 男の先輩だよ!」
弓波は慌てて兄に反論した。
「なるほど、男か……」
兄は、残念なような安堵したような表情でそう言った。
「なんで兄貴、そんな複雑そうな表情してんの?」
弓波はそう怪訝な顔をして、兄に言った。
「……とにかく! 先輩に、迷惑をかけていないか?」
兄は弓波の疑問を無視するように、半ば強引に話題を変えた。
「えっ……いやぁ別に、かけてないよ。アハハ……」
弓波は目を泳がせながら、兄にそう言った。本当のことを言ったら、兄貴は
どんな反応をするか分からない。
「本当か? どうも怪しいな。お前のことだ、どうせ先輩に迷惑をかけているんだろうな」
兄は、訝しげな顔をして弓波の顔を覗き込み、言った。
兄に事実を看破され、弓波はひたすら黙ることしかできなかった。
「……黙りこくるってことは、どうやら俺の言った通りのようだな」
兄はそう頷きながら呟いた。図星である。
「でも、みずご––––先輩だって、俺と一緒にいるのは嫌じゃなさそうなんだよ」
弓波は、兄に精一杯反論した。実際、水越は呆れながらも弓波と一緒にいることは
嫌ではなさそうだ。
「そうか。今、その先輩はどこにいるんだ?」
兄は、周りを見回しながらそう言った。
「あぁ、今は実家に顔を出しに行ってるんだ。久しぶりに会いたいとか言っててさ。しばらくは帰ってこないよ」
弓波はそう兄に教えてやった。もう水越の父母も高齢なので、水越がたまに実家に帰って近況などを聞いているという。
そして、弓波もまた、水越が外出をするこの日に兄を呼んだのだ。水越にバレずに料理を習うには、水越が外出していた方が都合がいい。
「なるほど。その先輩は偉いな。俺も、たまには実家に顔を出しに行ったほうがいいよな。最近仕事が忙しくてあまり行けてなかったが……。親父やおふくろの近況とか聞きたいし、体調も心配だしな」
兄は、ふと懐かしそうな表情をして言った。兄も、自分の会社の仕事も大事だが、親や弓波のことは、仕事以上に大事だ。
「そうだな。俺も、たまには実家に顔を出しに行こうかな」
兄に触発されたかのように、弓波もそう言った。
「そうした方がいいかもな。さてと……」
兄は急に立ち上がった。
「少々話が長くなってしまったが……。早速はじめようか。今日は何を作りたいか、決めてあるか?」
そうだ。今日は、兄貴に料理を教えてもらうのが本題だ。
横道に逸れすぎたかもしれないな。
「悪い、話が長くなったな。じゃあ、今日は、先輩の好物である、ミートソースパスタを作ろうと思うんだ!」
弓波はそう言った。
「なるほど、ミートソースパスタか。なんでそれにしようと思ったんだ?」
兄は弓波に尋ねた。
「先輩の好物なんだ! せっかくのハロウィンだし、どうせなら喜ばせたいじゃん?」
弓波は兄にそう答えた。
「なるほど、弓波らしいな。材料はあるのか?」
「あぁ。もう一通り揃えてあるよ!」
弓波はキッチンに移動し、麺と玉ねぎ二個、にんじんに牛と豚の合い挽き肉、ホールトマト缶、そしてコンソメと塩胡椒を用意した。
「おぉ、もう用意はしてあるのか。昔に比べたら、やることが早くなったな」
「そんな余計なことは言わなくていいから! さっさとやろうぜ」
兄に余計な事を言われ、弓波はすかさず料理を始めようと促した。
「じゃあ、まずは……まな板と包丁を用意してくれ」
兄はそう弓波に指示した。
「りょうかいっ!」
弓波は言われるがままに、まな板と包丁を用意した。
「じゃあ、まずは玉ねぎをみじん切りにするんだ」
「みじん切りかぁ……。俺、みじん切りは苦手なんだ」
弓波は、みじん切りの切り方を、食材を切る方法の中で最も苦手としているのだ。
ただでさえ食材を切るのに苦戦しているのに、さらに食材を細かく刻むのは、弓波にとっては子供を躾けるよりも難しい。
「大丈夫。コツさえ分かれば、弓波もすぐに出来るようになるさ」
兄は、弓波をそう元気付けた。
まぁ、兄が教えてくれるのなら、できるような気がする。
「まずは、玉ねぎを半分に切るんだ。それで、ヘタをとる」
兄は流れるように玉ねぎを切っていった。まずは、玉ねぎを縦半分に切り、
そして玉ねぎのテッペンにあるヘタをとった。
「じゃ、やってみろ」
「うん、分かった!」
弓波はゴクリと唾を飲み込み、緊張しながら包丁を握った。
「忘れるな、左手は猫の手だぞ!」
すぐそばで兄の応援する声が聞こえる。
弓波はすかさず左手で玉ねぎを押さえた。
そして、包丁の刃が指に当たらない位置にあることを確認してから、一気に玉ねぎに刃を入れた。
ザクッ
切れた。どこにも怪我をせず、玉ねぎを切ることができた。
「で、できた……!」
弓波はそう歓喜の声をあげた。
「うん、怪我をしなくて良かった。それで、ここからが難しいところなんだ。まずは、縦半分に切った玉ねぎをもう一回細かく切るんだ。いいか、見てろよ」
兄は、弓波が玉ねぎを切った事を軽く褒めつつ、次の工程に入った。
「まずはこいつを根元の部分を残して、三ミリから五ミリくらいに切り込みを入れるんだ。切り込みを入れるときに、全部切らないように気をつけろよ」
兄は、玉ねぎ半個分を横向きにし、スッスッと切り込みを入れていった。なるほど
兄の言う通り、切り込みを入れてはいるものの、完全に切ってはいない。
「これが終わったら、また玉ねぎを回転させて、横から切り込みを、二、三箇所入れるんだ」
そう言った兄は、玉ねぎを回転させ、包丁を水平にして玉ねぎの横から切り込みを三個ほど入れていった。
「え……! 俺、そんな難しい事できないよ!」
弓波は戸惑ってしまった。玉ねぎの横から切り込みを入れるなんて、そんな難しいことはできる気がしない。
「大丈夫。力を入れすぎないで、ゆっくり切る方がいいんだ」
兄はそう言って、弓波を補助するように、後ろから支えた。
「包丁を水平にして、さっき切った横から切り込みを入れるんだ、頑張れ!」
「なるほど……包丁を水平に……力を入れすぎないで……」
弓波は包丁を水平にして、玉ねぎの横から三個ほど切り込みを入れた。
包丁を持つ手が手汗で震えている。しかし、兄の補助のおかげでどうにか無事に
切り込みを入れることができた。
「よし、上出来だ! じゃ、次は切り込みを入れた部分から切っていくんだ」
兄はそう言って、切り込みを入れた部分から順に、右から左へ玉ねぎを切っていった。
「なるほど! 最後はカンタンだな!」
弓波はそう呟き、再び猫の手をしながら、慎重に切っていった。
「よし。その調子だ」
兄はそう言って、弓波を見守る。
「……よし! できた!」
弓波はフーッと額の汗を拭った。
「おつかれ。だが、まだまだこれからだ。麺を茹でたり、ソースを作ったり。
やることは山ほどあるぞ」
「えー……ちょっと休憩させてよ……」
弓波は、玉ねぎを切っただけで相当疲れたのか、座り込んでしまった。
これからまたソースを作って麺を茹でて……気が遠くなりそうだ。
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