1-3.頭は元気か

 世界は広いということを、一体どれほどの人間が知っているだろう。この海の向こうには何があるのだろうかと夢想することはできたとしても、造船技術が発達しない限りは易々と海を越えていけない。そしてもしもその海の果てが断崖絶壁だんがいぜっぺきで水が落ち続けていたら、船は諸共に落ちるのだろうか。

 東にある島国から、嵐の日に海へと投げ出された。残念ながら空明くうめいので、流されたところで人間のように死んでしまうこともなかったらしい。つまりこうして生きながら西へ西へと流されてきたのは、化け物であるがゆえの必然と、しおの流れとかいう偶然が重なった結果だ。

 ディアヴォルスに連れ回されるようになって数年。この土地の生活に慣れたと言えるのだろうか。


 今日も今日とて空明はディアヴォルスに連れられて、住み慣れてきた土地を出た。友人のところに行くからお前も来い、なんともなことばである。友人のところに行くのにわざわざ空明を連れていく意味が分からないが、これは最早何度も繰り返されているので空明としては諦めの境地に近いかもしれない。

 そうして行く途上、北方向へと進めば森がある。普段住んでいるところは火山帯で、その光景はどこか懐かしさすらもあった。

 黒々とした森は、どこか奇妙な気配も漂う。遠くに見える天を劈くほどに聳える巨大な樹は、一体樹齢何年だろう。ちょっと見てみるかということばに乗って、馬から降りた。賢い馬たちは手綱を離されてもどこかへ行ってしまうことはなく、そこで静かに草を食み始めた。

 あの樹はなんだろう。近付いたら何か分かるのだろうか。


「ねえ、待って。そこの人たち」


 かかった声は少女のもの。どこからかと判断するのは簡単で、近くのそれなりに高さのある木の上に小柄な少女が一人立っている。

 空明とて決して背が高いわけではないが、彼女はきっと空明よりも背が低いだろう。


「そこから先は、入ったら駄目だよ。そこから先は、別の神の土地だから」


 青銀色の長い髪が風になびいていた。彼女は身軽に木の枝から飛び降りてきたが、やはり背が低い。けれどその眼差しはまっすぐで、そのどこか繊細せんさいな容貌に凛とした風情を足していた。

 このあたりには神がひしめきあっている。

 けれどこの西の土地で呼ばれている神というものは、空明に知る神というものと少しばかり違う気がした。神というのは血なまぐさいものか、空明の知る神はもっと血や死といったケガレに弱かったのに。


「別の神?」

「十三の神とは別の神。世界樹の森だから、入ったら駄目」


 彼女はいくつくらいなのだろう。少なくともまだ、十八という成人年齢にも達していないように見える。


「なあお前、名前は?」

「名前?」


 ディアヴォルスの問いに、ことりと少女が首を傾げる。白い首筋にさらりとかかった青銀は、陽光を反射してきらめいていた。

 珍しい色だなと、そう思った。空明にとってはそれだけだ。

 そもそもこの辺りは様々な髪色の人間がいる。空明の故郷のように人間は黒ばかりとか、そんなこともない。それでも空明は、その色を見たのはこの土地に来てから初めてだった。


「スキア・アルギュロス」

「ふうん?」

「あの、人に聞いたのに、自分は名乗らないの?」


 ただ彼女の姿をつくづくとディアヴォルスは眺めていて、スキアと名乗った少女は少し居心地が悪そうに身動みじろぎをしている。どこか奇怪きかいなものを孕んでいるような気がするその視線に、空明は思わず眉根を寄せた。


「俺はディアヴォルスだ。ディアヴォルス・プロクス・エクスロス。で、こっちは空明」


 こっちとディアヴォルスに指を差されて、指を差すなと空明はその指先を掴む。反対方向に曲げてやろうかと思ったのに、ディアヴォルスはこともなげにその手を払い除けた。

 これだからこの男は嫌になるのだ。じゃれ合いのようなことをして空明に構い、ひとりぼっちにしてくれない。


「クゥメー?」

「クゥでいい。こっちだと呼びづらいらしいからな、俺の名前」


 西と東ではことばが違う。ことばなんてものは昔の人がそこにあったものをどう呼んだかの積み重ねだ。そうして積み重ねた先に発音があり、そしてその発音とて同じではない。

 狭い島国ですらも、地域によってことばの差異はあるのだ。海で隔絶かくぜつされた故郷の名前がこの土地になじまないのなど当然だろう。


「この辺りはニュクスの土地か?」

「そうだけど……」


 スキアは「なぜそんなことを聞くのだ」とでも言いたげな顔をしていた。ディアヴォルスという人間と付き合いがそれなりの長さになってきた空明でも思うのだから、彼女はより戸惑っていることだろう。

 一応、ディアヴォルスがそう判断した理由は分かっている。


「そうかそうか」

「おい、ディー、お前何を……」


 顎を撫でて楽しげなディアヴォルスの様子には、嫌な予感しかしない。

 赤銅色の短髪を風が撫でて通り過ぎる。空明のぼさぼさの童子頭も風は撫でて、視界が黒い髪に覆われる。どうせ止めたところで聞かないと分かってはいた。


「アルギュロスってことは神官だろ? この辺りには詳しそうじゃねぇか」

「それはそうだが何言ってんだお前」


 神を信仰する集団において、家名があるとなればその候補は三つに絞られる。ひとつ、その神の直系の血筋。ひとつ、神に供物くもつを捧げる神官。ひとつ、神への供物となるにえ

 アルギュロスとはニュクスを信仰する集団の神官である、というのはいつぞや空明もこの土地のことを学んでいるディアヴォルスの隣で聞いた。そもそもどうして隣で自分まで聞かされたのか、未だに納得はいっていない。だがとりあえず、役には立っていると言えよう。


「なあ、案内してくれ。ディアノイアがいる方に行きてーんだ」


 何を言っているんだお前は。と、その言葉は空明の口から飛び出さなかった。絶句するというのはこのことかと、半開きになった口のまま空明は考えてしまう。


「ディアノイア? 南の?」

「そうだ」


 確かに南だ。ただそもそもディアヴォルスにとっては慣れた道のりであり、案内を必要とするようなものではない。

 それでもスキアは生真面目な顔をして、少し考え込んでいるようだった。


「私、馬に乗れないから……案内が必要なら、誰かに声をかけてくる。それでもいい?」


 どうするんだとばかりにディアヴォルスの脇腹をひじいてみたが、そんなもので彼はびくともしない。鍛え上げられた体躯には空明の軽い攻撃など些末なものだろう。

 だからといってここで全力で攻撃をするかと言えば、そんなことはない。それはそれで面倒だ。


「乗せてやるぞ?」

「え、あ……いや、その。父様が、駄目、だって」


 ずいとディアヴォルスがスキアに顔を近付けている。スキアは明らかに戸惑っている様子で、なんとか声を絞り出していた。

 恥ずかしいのか何なのか、スキアの白い頬はうっすらと朱に染まっている。


「とりあえず、案内の人連れてくるから。馬に乗れる人! だからちょっと、ここで待ってて」


 返答を聞くこともなく、スキアは青銀色の髪をひるがえして軽やかに駆けていく。鹿か何かが駆けていくかのような軽やかさで遠ざかる青銀色を見送ったところで、隣からひどく楽しそうな笑い声が聞こえた。

 黄金色の目を細めて、ディアヴォルスは笑っている。ついついじとりと空明はその顔を見てしまった。


「頭は元気か。正気か。馬鹿か」

「いやだってなあ、空明。かわいいだろ、あれ。お前もかわいいけどな!」

「うっわ、気持ちわる……」


 正直に述べれば、太い腕に肩を組むようにして引き寄せられた。溜息ためいききはしたものの、どうせ振り払えないのは分かっているのでそのままにしておく。

 不機嫌でも怖いが上機嫌でもろくなことがない。そんなことを思ってしまうのは間違っているか。


「そう言うなよ。冷てーなぁ、クゥちゃん」

「言うに決まってんだろ、馬鹿かお前」


 どうせこの出会いは偶然だ。道案内人を誰か連れてきた彼女と、これ以上関わるようなこともないだろう。

 この男の「かわいい」と「好き」は社交辞令のようなもので、すらすらと口から出てくるものなのだから。そんなものをいちいち真に受けているのも馬鹿らしくなる。

 そう結論付けてから、空明は再び大きな溜息を吐いた。

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