2-1.焔火の夢

 燃え盛る炎がすべてを焼きにくる。灼熱の焔火にすべては焼かれ、灰となり、何一つとして残らない。これは怒りか、嘆きか、叫びか。その声は人か、あるいは神か。

 戦えとどこかから声がする。

 武器を手に取れ、ときの声をあげよ。すべて焔火に焼かれる前に。


 目を開ければ、そこは見慣れた室内だった。焼け焦げたにおいなどするはずもなく、戦乱の声も聞こえない。ああまたかと身を起こし、心臓のところの服を掴んでゆっくりと息を吐き出した。

 このところ、うまく眠れない。毎晩毎晩夢を見て、そしてはたと目を覚ます。昔からたびたび繰り返されてきたことではあるが、ここ最近は本当にひどい。そして夢は日中までも侵食してきているようで、まるで託宣たくせんのようにふっと脳裏に光景が浮かぶこともある。


「兄さま、ヒカノス兄さま。起きてください」


 だからというのは言い訳になるのかもしれないし、成人したくせに何を甘えているのだと言われることなのかもしれない。

 隣に眠っているヒカノスはまだまどろみの中にある。そんな彼の肩をゆすれば、ゆるりと紫色の瞳が開かれた。


「おはよう、ニファス。まだ少し暗いね」


 まだ太陽ヘリオスは顔を見せていないが、うっすらと明るくなってきている。まだニュクスの時間帯ではあるものの、じきに月は姿を隠して太陽が姿を見せるだろう。

 あれはヘリオスがニュクスを追っているのか、それともニュクスがヘリオスを追っているのか。信仰する戦女神ディアノイアのことならばともかく、他の神々についてそれほどニファスは詳しくない。


「はい……すみません、兄さま。夢を、見てしまって」

「いいよ。起こして良いって言ったのは俺だから。もう少し眠ろうか。ほら、おいで」


 ヒカノスは起こされたというのに気分を害された様子もなく、掛布かけふを少しめくってニファスを招き入れる。そうして招かれるままに、再び転がってヒカノスの体に身を寄せた。

 心臓の音が聞こえてくる。この音が停まったとき、人は冥府めいふへと迎え入れられる。


「戦争の予兆は、ありますか」

「どうして?」


 炎が燃える。なにもかもすべて灰になる。

 その前に武器を。ときの声を。あの声は、あの女性の声は、きっとディアノイアのものなのだ。どうしてその声をニファスにばかり聞かせるのか、そんなことは分からない。

 ただディアノイアから多くの力を与えられるがゆえにディアノイアという家名を名乗る家に生まれ、そして唯一生きている女であるからなのか。男はヒカノスと、もう一人母親の違う少し年の離れた兄はいるけれど。


「炎にすべて焼かれて灰になる、そんな夢でした。その前に武器を手に取れと、ディアノイアが言うのです」


 焼かれると聞いて連想する神はある。

 ひしめく十三の神の中、どうしてだか戦いの神だけは二柱ある。エクスロスとディアノイア、この二柱の神は反目はんもくし合い、大層仲が悪いという。

 エクスロスはすべてを焼き尽くす炎だ。すべてを粉砕する強大な力だ。ディアノイアのすべてを薙ぎ払う風とも、戦場すべてを支配する智恵とも違う。


「戦争か……」

「兄さまも笑いますか。そんなものは信じるに値しないと」

「どうして? 俺はニファスを信じるよ」

「……でも、兄さま以外は誰も、信じてくれません。父さまが死んだときだって、駄目と言ったのに、誰も信じてくれませんでした」


 幼い頃から夢を見た。父が死んだ日の朝も飛び起きて、どうか行かないでと泣いたのだった。けれどそんなものは子供の戯言ざれごとであると誰も信じず、そうして父は死んでしまった。

 誰もニファスの言葉を信じない。まるで、神にそう決定付けられているかのように。

 それを子供の戯言ざれごととも、嘘ともとらず、きちんと聞いてくれるのはヒカノスだけだった。だからこうして眠れなくて、ニファスはヒカノスの寝台にもぐり込んでいる。

 これもきっといつか、終わりはやってくる。それが分かっているのに、手放せなくてここまできた。他の何もいらなくて、ただヒカノスさえいればいい。そんなことでは駄目なのに。


「俺だけでは駄目?」

「……兄さまがいてくだされば、それでいいです。兄さまが、私を信じてくださるのなら」


 そっとニファスを抱き寄せた腕はあたたかい。

 本当に戦争になるのだろうか。今までニファスの夢がはずれたことはなく、日中にまで侵食してきたそれはもう、疑うような余地がどこにもない。武器を取れ、ときの声をあげよ。ディアノイアがそう叫ぶ。


「ニファス、考え事?」

「はい……」


 こんな風に夢を見せるのならば、声を聞かせるのならば、どうしてもっと詳しいことを教えてくれないのだろう。いつだって詳しいことは何もなく、ただぼんやりとして輪郭りんかくも掴めないことばかりをディアノイアはニファスに伝えてくるのだ。

 神殿にいってディアノイアの像に祈れば、もっと詳しく聞けるのだろうか。けれど以前そう思って祈ったときは、ディアノイアは何も答えてくれなかった。

 戦争なのか、それとも別の何かなのか。ただ炎が来る。すべて焼かれて灰になる。


「戦争のこと?」

「そう、ですね。戦争になったら、私も兄さまも行かねばならないでしょうから」


 神から力を与えられたということは、戦わなければならないということでもある。別の神を信仰する集団と領地を争い、奪い合い、血を流す。ディアノイアが現在領地としている一帯は小麦畑が広がり、食糧に困ることはない。

 けれど、それ以外のものを持たないのもまた事実なのだ。東のデュナミスには鉱脈が、西のヒュドールには海がある。ヒュドールとの間に流れている川など、何度赤く染まったことだろう。

 つらつらと考え込んでいると、ヒカノスの腕がほんの少し力強くなった。ぎゅうと抱きしめられて、耳元に声が落ちてくる。


「俺と一緒にいればいいよ」

「兄さまと?」


 果たして戦場でそんなことができるのか。

 ヒカノスもニファスも、旗のようなものなのだ。先頭に立ち、しるべとなり、敵を討つ。戦女神から与えられた力に、その名前に、恥じることのないように。


「近くにいれば、守ってやれる」

「それなら私も兄さまをお守りします。私、これでも結構強いのですから」

「知ってる」


 さらさらと髪が首筋に当たっていた。ヒカノスが何をしているのか見えないが、時折首に触れる指の感触からして、ニファスの髪をもてあそんでいるのだろう。


「兄さま、くすぐったいです」

「ニファスは良い匂いがするね。花の匂いかな」

「そうですか? よく、分かりませんが」


 言われてもよく分からない。そもそも自分のにおいなど、分かるようなものなのだろうか。

 ヒカノスはどんなにおいだろうかと思ったけれども、抱き込まれているせいかいまいちよく分からなかった。鼓動の音は聞こえてくるけれども、においを考えても出てこない。

 近付きすぎか、慣れてしまったのか。


「まだヘリオスは顔を見せていないんだ、もう少し寝ても誰も怒らないよ。だからもう少し、一緒に寝ようか」

「はい、兄さま」


 するりと腕が離れて体も離れれば、ヒカノスの顔が良く見える。柔和と言われることの多いその顔は、どこか線が細くも見えた。

 その顔はニファスに似ているようで、けれどもやはり似ていない。


「次はニファスが怖い夢を見ませんように。良い夢がやってきますように」


 そっと、額にヒカノスの唇が落ちてくる。なんのことはない子供だましのようなおまじないで、魔術的な意味を持つわけでもない。

 それでも、ニファスはこれが好きだった。


「兄さまも、良い夢を見られますように」


 同じように、ヒカノスの額に唇を寄せる。

 夢なんて何も見なければ良い。ディアノイアの声も聞こえなければ良い。

 再びヒカノスに抱き込まれる形になって、また心臓の音を聞く。これだけ聞いていられればいいのにと、到底かなわないことを願いながら、またまどろみへと落ちていく。

 ああ、まただ。また、炎が燃えている。

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