scene 2. 幸福な日常
ジョニーはすっかり身支度を済ませ、キッチンに立っていた。
キャビネットの上に置いたラジオからは、トッド・ラングレンの最近のヒット曲〝
フライパンで厚めに切ったハムと、卵に適当に火を通す。さっと塩胡椒して盛りつけ、ジョニーはその二枚の皿を窓際のテーブルに並べた。次に戸棚からスライスされたパンの袋を取りだし、四枚出して皿に乗せる。袋を戻し、冷蔵庫を開けてバターを取りだしたが、そのときふと、いつものジャムの瓶が見当たらないことに気づいた。
そういえば昨日なくなったのだったっけ、とジョニーはピーナツバターも残り少ないなと思いながら、帰りに買い物をしてこないといけないかな、と冷蔵庫の中をチェックした。
「ジョニー、おはよう。起こしてくれればいいのに」
Tシャツにショートパンツという寝間着代わりの恰好のまま、ロザリーが声をかけてきた。冷蔵庫を閉め、ジョニーは「い、いいんだ。き、君は今日は休みだろう?」と微笑んだ。ロザリーは美味しそう、ありがとうと云いながらレッドオレンジのシェルチェアに腰掛けた。
ジョニーは幼い頃からの吃音と、おそらくそれが原因の多くを占めているのであろう心因性
不思議な縁に導かれるように出逢ったふたりが一緒に暮らし始めてから、まだ三ヶ月ほどだった。ベッドを共にしていても性交渉はなかったが、それでも支障のない相手と夫婦同然に過ごせることは、ふたりにとって欠けている部分に嵌まるたったひとつのピースをみつけたような奇跡だった。
「……そういえばもうジャムがなかったんだっけ」
「うん。か、帰りに買ってくるよ。ほ、他になにか欲しいものはある?」
「アイスクリームかしら。あ、夜はなにが食べたい? 私もお買い物に出なきゃ」
「じゃ、じゃあお、俺の仕事が終わったら一緒にく、くく、
「ふふっ、彼処に行くといつも買い過ぎちゃう」
食事を済ませ、ジョニーはロザリーの頬にキスをすると、仕事に出かけた。
ジョニーが勤めているのは、街外れにある金属加工業の製作所である。一度、大きな企業に買収されて工場長が変わってしまい、ジョニーも解雇されそうになったが、なんとか今も勤め続けている。転職することになれば、まず間違いなく吃音についてよく知らない人間ばかりに囲まれ、また一から理解して貰わなければならない。ジョニー自身も容易に教えを請うことができないので、職場を変わるのはできるだけ避ける必要があるのだ。
今、ジョニーの持ち場であるラインは工場買収時に移動させられたところだが、工夫と努力の甲斐あって同僚たちはジョニーを認めてくれている。
もっとも、毎晩のように仕事帰りに飲みに行こうと誘われるのは、やや食傷気味だったが。
「よぉジョニー。今日も俺らと飲みには行かねえって?」
一日の作業を終え、皆で機械の点検や片付けなどをしているとき。もはやおつかれさまの挨拶を兼ねているようなお決まりの台詞をボブが云った。
「す、すみません。きょ、今日は、か、かか買い物に……」
ジョニーはベルトからぶら下げているカードの束のなかから『妻と』『約束』『帰りに買い物』と書かれたものを示した。
「へいへーい。仲睦まじいこって」
「おまえもちったぁ見習って、そろそろ身を落ち着けろよ。毎晩毎晩飲みに行って、三日に一度は女買って。なんのために働いてんだ」
「なんのためって、いい女とやるために働いてるに決まってる」
「可哀想に。ボブは一生独身だなこりゃ」
「ほっときやがれフレッド。おまえも独り者だろうが」
「相手にしなくていいぞ、ジョニー。女房待たせんじゃねえよ、早く行って旨いもんでも買ってやんな」
もうじき六十歳になるベテランのアルヴィンにそう促され、ジョニーは微笑んで頷くと、一足先にロッカールームへ向かった。歩きながら後ろでひとつにまとめていた髪を解くと、薄暗いなかでも一際目立つバターブロンドがふわりと揺れた。
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♪ Todd Rundgren "Hello It's Me"
≫ https://youtu.be/4gZrWGAXM_I
※ クローガー(Kroger)・・・オハイオ州シンシナティに本社を構え、35もの州でチェーン展開している、アメリカ最大規模のスーパーマーケットのひとつ。
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